私の昭和スケッチ

もはや戦後ではない、

という一節が経済白書に載ったのが1956年。

文字通り、それからの日本は高度成長へと突入する。

その頃、朝鮮半島で戦争が勃発していたので、

日本からの物資調達もまた、好景気に拍車をかけた。

日本はここで、敗戦から復興のきっかけを掴み、

ようやく立ち上がることができたのだろう。

経済はとにかく、右肩上がりの一途だったらしい。

そんなことには全く関係なく、私という人間が生まれ、

賑やかな横浜の街で幼年時代を過ごし、

その頃、目にしたアレコレを振り返ってみた。

賑やかというと聞こえはいいが、

要するに人がゴチャゴチャしていて、

そこらに新聞紙やタバコや生ゴミがころがる、

いま思い返しても、きったない風景ばかりが広がる。

そして横浜といったって、

♫街の灯りがとても綺麗ね、横浜♫

ではなく、

夜はうらぶれた人間がハイカイするような所であった。

私が通う小学校は、私の学年で5クラスあった。

しかし、私たちの上の世代は、後に団塊と呼ばれ、

8~9クラスはあったように記憶する。

とにかく子供が多かったのだ。

特別荒れた学校ではなかったが、外国籍の子が多く、

学校内には、なんと窃盗団が組織されていた。

これにはちょっとガキの私も驚いたが…

朝は、近くの工場のけたたましい鉄を叩く音で起こされる。

だが、騒音に文句を言う人間は誰もいない。

当時はそんな法律もなかったようだし、

皆そんなもんだろうと思っていた。

空はいつも汚いスモッグで、どんよりしていた。

海に近いほどそれは顕著で、

高台から見渡すと、ずらっと工場の煙突が立ち並び、

モクモクと煙が立ち上る。

確か、夜も昼も休みなく稼働していたから、

本当に皆、忙しかったのだろう。

このあたりは京浜工業地帯と呼ばれ、

高度成長期時代の日本の活力の現場でもあったので、

私はその真っ只中で暮らしていたことになる。

横浜駅の地下道を通ると、

手や足を失った傷痍軍人と呼ばれるひとたちが、

白衣のようなものを着てアコーディオンを鳴らし、

物乞いをしている。

ここを通るとき、私はいつも緊張した。

また或る日、近所の家で、

といっても屋根にシートが被さって、

その上に石を乗っけただけの家だが、

そんな小さな家に8人位の一家が暮らしていて、

私よりふたつ下の男の子が疫痢にかかった。

保健所の職員が大勢来て、

家にまるごと白い消毒液をかけ、

室内もビショビショにして、

とっとと帰って行った。

その頃、

近所のガキ仲間で物を拾って喰うのが流行ったので、

私も幾度かやってみたが、そのなかのひとりが、

疫痢にかかったのだ。

それを知ったお袋は、私を散々に叩いた。

いまや先進国となった日本は、

街も生活も清潔さが保たれているが、

他国の不潔さをバカにするほど偉くはない。

いつか来たみちなのだ。

公園では、

子供を騙すようなオトナがよくうろついていて、

私たちに粘土を買わせ、

うまくつくるとプラモデルをあげると騙す。

なけなしの5円でその粘土を買い、

みんな必死で犬とか猫とかをこねてつくるのだが、

気がつくとそのオヤジは、すっと姿を消している。

が、誰もそんなことなんか問題にしなかった。

楽しかったなと、

夕暮れにつぶやくような奴もいたのだから…

街を一歩でると野山が広がり、

私たちは必ずナイフと水を携帯していた。

一日中、山に入り、

竹でも木の枝でも器用に細工して、

なぜだか武器をつくったものだ。

山の向こうには豊かな田園地帯があり、

春には名もない花が咲き誇り、

夏は蛇も蛙もザリガニも嫌というほどに獲れたのだから、

やはり自然も豊富だったのだろう。

現在、東南アジアの事情がよくテレビで紹介されるが、

当時の日本もきっとあんなようなものだったのだろう。

近所ではパン屋がオープンした。

コッペパン10円也。

真っ赤なあやしいジャムを塗ってもらって15円だ。

が、私はそれさえ買えないことがよくあり、

そんなときはお袋におにぎりを握ってもらった。

味付けは味噌か塩のみ。

海苔なんていう高価なものは、

ハレの日以外口にできなかったように思う。

飲み物は、砂糖水だった。

そして氷という代物は、

私が小学校の3年のときに初めて口にした。

後にテレビが普及し、カルピスが世間に広まったが、

いま思い返しても、

私はせいぜい水に粉を溶いたジュースを飲んでいたことしか

思い出せない。

しかし、こんな毎日が貧しいかというと、

皆同じであり、そんなことは微塵も思わなかった。

私の家は、近所でも平均的な家庭であった。

楽しいことも辛いことも人並みに経験したが、

私にはその街が世界のすべてであったし、

オヤジもお袋も若かった。

そして、

この世界が永遠だと思っていたフシがある。

坂本九が歌っていた「明日がある」という歌を、

その頃の人たちは、地で行っていたのだ。

明日があるさ明日がある。

若い僕には夢がある。

幼い日にみた風景というのが、

年をとるほどに思い返されるのはなぜか。

帰りたい、戻りたいとはさらさら思わないが、

きっとあの頃のどこかに、

自分の原点があるのだろう。

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「私の昭和スケッチ」への15件のフィードバック

  1. バリバリの昭和人間、The Sho-wan!です。
    それぞれの年号で育った人々の、全てに対する対応がその年号の特徴を形成するのでしょう。
    昭和人達の特徴は、矢張り戦前よりも歴史の長い戦後の人々により特徴ずけられるのかも知れませんね。
    いわゆる団塊世代のスタンス=昭和?
    しかしこれは昭和人自身の定義であり、同じ昭和でも戦前と戦後昭和では、両者間での内なる概念が違うようです。
    互いが異質の昭和と感じているようです。
    昭和および昭和人の定義を決めるのは平成人。
    彼らが昭和をどう評価表現定義するかですね。
    大正生まれの母は彼女の両親に対し
    ”明治の人だから” とよく云っていましたっけ。
    その大正世代、私の目から見た父親たち、
    彼らは一言で云えば、 ”ちゃぶ台返し”!
    彼等の表現トールは卓袱台でした。
    スパンキー氏の年齢による昭和人としての回顧、小津安二郎の世界に通ずるホノボノさを感じ、何やら読みながら、自身の回顧に誘われて目が宙を彷徨います。

  2. 前コメントの続き
    ヴァイオリニストの友人、大学を出た後ヤマハ音楽教室で子供達にヴァイオリンを教える仕事を始めましたとさ。
    ”何回教えても、この~!と、
    内心彼らの頭をド付きたくなる衝動をこらえる。
    あぁ、自分にはこの仕事は向いていない”
    と、ヤメたそうです。
    で、ヴィブラフォンでジャズ・クォルテッドを組み、品川プリンスホテルで仕事。
    暇なとき彼の婚約者と一緒に彼等に逢いに行きます。
    12時ぐらいで最終ステージが上がると、
    ”メシ食いに行こうぜ~、
    朝までやってるところ知ってからヨー” 
    と、ガチガチの横浜コトバで。
    子供の頃に松本市より引っ越した彼、
    以来横浜は和田町の育ちでした。
    彼等の先導で皆と横浜は中華街の何処か?
    のんびりと朝ま飲んで食べて長居が出来た。
    若くて体力のある頃の思い出です。
    夜中過ぎの横浜中華街は台風一過の様。
    でも古き良き時代の横浜中華街がありました。
     

  3. カンタベリー・ベルさん)
    私のなかで、戦前の昭和という概念はスッポリ抜けています 汗!
    そう、戦後しか分からないのです。
    また、いまの若い平成生まれの方々が、昭和をどのように
    語るのか、少し興味がありますね。
    「大正生まれの母は彼女の両親に対し
    ”明治の人だから” とよく云っていましたっけ。
    その大正世代、私の目から見た父親たち、
    彼らは一言で云えば、 ”ちゃぶ台返し”!…」
    ↑カンタベリーさんが記してくれたように、
    こうして時代は脈々と繰り返されているようですね。
    私の父母も大正生まれでして、
    母はよく明治生まれの父親の怖さを
    私に話してくれました。
    また、大正生まれの私の父は、
    戦争中は大陸へ行き、ソ連の捕虜を経験していまして、
    やはり私がちいさいときは恐かったですね!
    私の昭和は、なんというかテレビでいうと「シャボン玉ホリデー」
    であり、ザ・ピーナッツであり、小津安二郎的な世界の、
    ちょっと後のような気がします。
    ひょっとして、カンタベリーさんは、団塊の世代の方のように
    思いますが…
    コメント、ありがとうございます。

  4. カンタベリー・ベルさん)
    コメントの続き、ありがとうございます。
    当時から品川プリンスでジャズを演奏していた友人とは、
    かなり洒落ていますね?
    和田町は私もよく存じております。
    私もその近くの生まれなので、懐かしい限りです。
    横浜ことばは、やはり雑というか、
    あまり綺麗な印象がありませんね。
    中にいると分かりませんが、外へ出て初めて気づく
    変な言い回しが多いです。
    当時はといっても、時代のズレが少しあるようですが、
    元町、中華街、伊勢佐木町は面白いところがいっぱいありました。
    私はいまでも時間が空いて横浜へ行くと、
    山下公園前のニューグランドの旧館の喫茶店へ足を運びます。
    なんだか凄く落ち着くところです。
    カンタベリ-・ベルさんにもオススメです!
    コメント、ありがとうございます。

  5. そうなんだぁ~っと知る。
    モンの中では憧れの横浜。
    それも、昔むかし….一度だけ行きました。
    深夜のドライブはロマンいっぱいでした。
    歳を重ねた今、行ったら何を思うのかな?
    などと……!光景を想像します。
    機会をつくって出かけてみます。

  6. monさま)
    昔むかし…一度だけですか?
    かなり以前のことのように書かれていますので、
    かなり近い世代ですかね?
    そして横浜からかなり離れた所と推測致しました 笑
    でですね、いまの横浜は、ほぼ東京となんら変わらず、
    フツーの街です。
    ただ、新設された道路や地下鉄で、
    私も迷うことがよくあります。
    これからは地方都市の時代のような気がします。
    仙台とか…
    コメント、ありがとうございます。

  7. 私の最も幼い頃の思い出の一つ。
    道路にしゃがんでいました。
    多分地面に絵を描いていたんだと思います。
    何しろ “画伯” でしたから。
    と、視野が陰った中に大人の靴が。
    見上げると、髭ボウボウの男が私を見下ろし、
    ”ベルちゃん”?
    一目散で家に飛び帰り、
    ”怖いおじさんが、あんたはベルちゃん?って!私の事を追いかけて来てるよ!”
    家の者達、私の話を聞いて沸き返ったそうです。
    4年間ソ連に抑留され、内地を踏んだ足で真っ直ぐ母の実家目指して帰って来た父でした。
    因みに、父は私の誕生を見ることなく満州で徴兵され、すぐに終戦になったそうです。
    昭和20年生まれの私は少数民族です。
    そして21年生まれが爆発的に世を席巻します。
    彼らが団塊民族です。
    私に言わせれば、彼等はほんのガキです。
    先日亡くなられた有吉アグリ女史。
    90歳過ぎたころの彼女、彼女より若干若い著名な人々に
    ”あんたなんかは私から見れば、ほんのガキよ”
    私も直接誰かに云ってみたいで~す!
    続く。

  8. カンタベリー・ベルさん)
    どうも、ベルちゃん?のお父上と私の父は、同じ関東軍だったみたいですね?
    私の父もソ連抑留3年だったそうです。
    父は後に母と結婚し、私が生まれたので、ベルさんのような経験はないですが…
    帰国後の就職は厳しく、民間はすべてアウトで公務員しかなかったという話でした。
    ベルさんからみると団塊世代はガキなんですね? うーん。
    団塊世代は私の上の世代ですが、私にも理解不能です 笑
    最も、私自身、そもそもいくつになってもガキなので、
    「ガキ」とはいまだ誰にも言えないのがちょっと辛いかな。
    コメント、ありがとうございます。

  9. 続きです。
    私のコメントは何時も大盛りで大河コメントです。
    字数制限に引っ掛かり、止む無く2部、3部編成です。
    商才に長けていた父は食品会社を設立。
    商売はすぐ軌道に乗ったようです。
    就職難の戦後世界。
    遠い遠い縁者だといういわくつきの若者を、義理で雇ったのが父の人生の間違いだったようです。
    重罪なる刑事犯を犯した者を雇用者から出してしまった父の会社は、あれよあれよという間に世間の信用を失し、敢無く倒産。
    軌道に乗っていた経営は収支も大きく、いざ倒産となった後には、莫大な借金だけが。
    で、父は母と子供3人を残し速やかに蒸発。
    社長さんちのお嬢は一晩で、母が債権者に頭を下げる家の子になりました。
    数年たち、蒸発した父らしい人が居ると教えてくれる知人がいて、母と長兄は父が居るらしいという所に出向きます。
    ここからこの話、佳境に入ります。
    掘立小屋を建てて父が住んでいたのは、多分山下公園?
    父は浜のプータローをやっていたのです。
    又、続く?

  10. カンタベリー・ベルさん)
    カンタベリー・ベルさんは、かなり壮絶な体験をされているようですね?
    振り幅が大きい。よくドラマに描かれているようなストーリーを地でいくのは、
    かなり辛い体験と思います。
    で、蒸発されたお父様の居所が、なんと山下公園とは…
    そう言えば、私の幼少期の記憶にも、山下公園で寝ているプータローさんが
    出てきますね。
    また、続きます?
    コメント、ありがとうございます!

  11. 壮絶な体験も何も、、、。
    この齢になると、すべてが淡い思い出です。
    蒸発亭主に残された母は事後処理に奔走。
    長男であった父の持ち分、田地田畑殆どを債権者に渡し、少しの残高は働き出した母が借金の弁財に。
    それも母の真摯な対応で、取り立ては途中で免罪されたそうです。
    その当時の母は降って湧いた幸せ?
    大正男の夫の居ない人生が再び。
    債権者の口利きで食品会社の経理の職を得、
    我ら兄妹ものんびり育ちました。
    嘗て母は父が抑留されていた4年間、
    我ら兄妹3人を自分の母親に預け、
    単身赴任で、祖母宅から遠距離の中学の教員の職を得、この時も大正男の亭主から解放された素晴らしい4年間だったと述べています。
    人生、塞翁が馬ですね。
    もう少しです。

  12. カンタベリー・ベルさん)
    すべては時が癒やしてくれる、そんな感じでしょうか?
    それにしても、カンタベリー・ベルさんの大正男の評価は最低ですね 笑
    お父様以外は如何なのでしょう?
    大正女?はやはりしっかり者ですかね?
    私の父母も大正生まれですが、
    その特徴って、いまひとつ分からないんですよ。
    が、やはり人生は万事、塞翁が馬。
    これは確かです。
    もう少し?
    コメント、ありがとうございます。

  13. ”父帰る” 
    私は見てはいませんがロシア映画です。
    父という存在のない形態は、いわゆる母子家庭。
    何故か?
    これを謳歌してノンビリトして過ごした生活が
    ”父帰るで” で崩壊しましました。
    兎に角、悪い意味での封建家長制度そのものの我が父。
    息の詰まる家族形態に逆戻りしました。
    ”この屋は、俺が法律だ”
    こういう父でしたので、TVで6時だかのニュース(入江徳郎氏)の後にシャボン玉ホリディーが始まると、ものも言わずにTVを消します。
    誰も何も言えません。
    彼の父は大正男と云うよりも、多分彼の人となり、そういう人だったのでしょう。
    私が33歳の時に早死にしました。
    未だに我が父の本意が良くわかりません。
    へき地住まいの私は滅多に東京には戻りません。
    久しぶりに会った次兄曰く。
    とにかく俺はオヤジがオッかなっかったよなー!
    これは20年前の話です。
    昭和に、昭和生まれに誇りすら感じるこの頃です。
    どっとはらえぇー!!

  14. 長々の黙読、有り難う御座います。
    これで終わりです。
    私の親娘関係も、大正、昭和的と云うのでしょうか、決して親と子の間で直接質疑し合うなどとの会話は皆無で育ちました。
    未だに生きていますから、先に身罷った父の胸の内を知るべきもありません。
    ただ、父が今生きているとしたら、多分に不便で有ろうとかと。何しろ、”俺が男である限りこの家の法律だ!”という世の中ではなくなりましたから。

  15. カンタベリー・ベルさん)
    私の父も寡黙でした。何を考えていたのか、いなくなったいまも
    ふと考えます。しかし、カンタベリー・ベルさんのお父様のように、
    権力を振り回す以上にお袋がなかなか強い人でしたので、
    なんだか不思議な家族でしたよ。まあ、今度は昭和と平成男について、
    分析しますか?
    コメント、ありがとうございます。

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