絶望のカフカ

カフカといえば「変身」が有名。

私も「変身」しか読んだことがない。

精一杯、苦労して読んだ。

で、以後は読みたいとも思わない。

ほんとは長編の「城」とか「審判」も続けて読むつもりだった。

しかし、やめた。

いや、挫折したのだ。

―ある朝、目覚めると私は巨大な虫になっていた―

「変身」はなんの脈絡もなくこのように始まり、

最後まで希望のないまま終わるのだが、

読後の疲労感だけが残っていたのを覚えている。

しかし最近、ひょんなことから、

再度カフカに関する書物に惹かれ、

ついにそれを買い、読んでしまった。

帯にあった「絶望」という二文字が気になったからだ。

しかし、その本は彼が書いたものではなく、

彼の発言、メモを集めた本、とでもいおうか。

題して「絶望名人カフカの人生論」(新潮社刊)。

著者は、カフカの翻訳や評論をしている、

頭木(かしらぎ)弘樹という編訳者。

「絶望」がなぜ気になったのか?

これは、自分に思い当たるフシがあったからに他ならない。

生涯の絶望は、決して忘れるものではない。

いまとなっては笑える事柄でも、当時のことを思い返すと、

やはりやりきれなさが甦る。

そして絶望は複数でやってくる。

単体の不幸ならなんとか踏ん張れるものも、

そういうときに限ってショックは重なって押し寄せる。

だから人は絶望するのだ。

さて、カフカの著書を読んだときのあの憂鬱感は、

どこから来るものなのか?

なにはともあれ、

彼は近代を代表する小説家でもある訳で、

それはいかなるところが評価されているのか。

さらには、カフカの絶望とはいかなるものなのか。

彼は生涯どの程度の絶望に陥ったのか。

そして世間でいう絶望とはどのようなものなのか。

自分と照らし合わせ、その「絶望」とやらの

本質というか程度というものが知りたかったからだ。

まず、カフカの文学的評価は、おおよそ次のようなものだ。

「現代の、数少ない、最大の作家の一人である」(サルトル)

「カフカは、もはや断じて追い越すことのできないものを書いた。

…この世紀の数少ない偉大な、完成した作品を彼は書いたのである」

(ノーベル文学賞作家エリアス・カネッティ)

「フランツ・カフカが存在しなかったとしたら、現代文学は

かなり違っていたものになっていたはずだ」(安部公房)

私にはよく分からないが、カフカに対する評価は相当なものである。

なのに、彼が生涯抱いたものは「絶望」なのである。

この本には彼の生涯における、絶望的な体験や言葉が、

それこそ洪水の如く溢れ出ている。

それはなんというか、壮絶でさえある。

たとえばこうだ。

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。

将来に向かってつまづくこと、これはできます。

いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」

なんというか、すごい。

また、カフカは結婚したいと強く願いながら、

生涯独身だったそうである。

これは彼のあまりにネガティブな思考から、

自ら結婚を破談にしてしまったらしい。

彼(カフカ)によると自分は身体が虚弱で、胃が弱く、

不眠症だった。

家族と仲が悪く、特に父親のせいで、

自分が歪んでしまった…

で、彼の書いた長編小説はすべて途中で行き詰まり、

未完である。

彼は嫌々ながら生涯サラリーマン勤めをしたそうだが、

ここでも彼は何事にも成功しなかったそうだ。

彼の特質は失敗からはなにも学ばないこと。

よって彼は常に失敗し続ける人生を送ったそうだ。

こうなると、彼の小説は趣味的にとでも捉えられる。

ようやく死後、世に出ることとなったのだが、

なんと、彼は亡くなる前、

友人に「遺稿はすべて焼き捨てるように」と

遺言したそうである。

しかしこの友人が遺稿を出版し、

結果、カフカの名と作品が世に出た訳だ。

彼(カフカ)は言う。

ぼくの人生は、自殺したいという願望を払いのけることだけに、

費やされてしまった。          ―断片

しかし、ここに人生における価値があるのでないかと著者は言う。

「人生の多くが、むなしく費やされるとしても、それでもなお人は

何かをなしうるということでしょう」

永い人生で、人は何度も絶望する。

そんなとき、

「死ぬ気になれば何でもできる」とか励まされても、

しらけるばかりである。

「追い求め続ける勇気があれば、すべての夢はかなう」

これはウォルト・ディズニーの名言だが、

絶望している人間を救えるかというと、

この場合は適さない。

強い人間、成功者の言葉には、どこかザルのような隙間があり、

そこからこぼれ落ちるものは、まず見えることはない。

カフカは誰よりも弱い人間だった。

心身とも弱い人間だった。

よって、強ければ気づかないことにも気づけた。

たとえば、足が弱ければ、ちょっとした段差にも気づける。

人の心に寄り添うこともできる…

「ぼくの弱さ―もっともこういう観点からすれば、

じつは巨大な力なのだが―」

カフカの言葉です。

(本稿は「絶望名人カフカの人生論」(頭木弘樹:新潮社刊 )を
引用、参考として構成されています)

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