素顔のままで

平たく丸い日々が

崩れて

壊れる

夢のときは

駆け足で逃げてゆくから

不安は

千のさざ波のように

心に寄せて

それでも

微笑んで

大丈夫ですよと

明日の希望でも

語らなくては…

そんな事が廻り

時が廻り

裾下でもがいて

それでも

暮らしは

水の上にあるの如く

もがきと苦しみを

誰にも知らせず

目を据え

ものごとの道理を説くなんて

なぜだろう

私たちは

いにしえより

教えの通りに歩むが

でも

そろそろ泣いてもいいですか?

誰も真理はみえないもので

分からないもので

ただ本当は

もっと自然に

涙が流れ

途方に暮れるのが

本当の人間というものですよ

そう思うのです

テレビを観ていて…

ここのところ、世界陸上を観ている。

最近のテレビは、映りが鮮明。

で、薄型テレビにハイビジョン。

驚いた。

で、世界陸上だが、よーく観ると、

結構美人のアスリートっているもんだと、

変なところで感心してしまった。

室伏広治も金メダルをとったし、

あの面構えも体格も外人選手並み。

負けてない。凄いと思う。

で、いろいろな競技を観ていて、

わたし的に気になることがある。

それは、あのダイナミックなスポーツ、棒高跳びだ。

飯を喰いながら、あの競技をじっと観ていたのだが、

何かが変だと思ってしまった。

私の疑問は、

棒高跳びの選手達はいつから何を思い、棒を持って走り始めたのか?

である。

もっと言えば、いろいろな競技があるなかで、

何故、棒を持って走ろうと思ったかだ。

足の速い人は走るだろう。

力がある人は何か重いものでも投げると遠くへ飛ぶなとか、

ありきたりの事を思うのだが、

棒高跳びの選手は、何故棒高跳びの選手になろうと思ったのか、

そこを想像するのだが、私にはよく分からない。

で、飯を喰いながら奥さんにこの質問をしたら、

「高く飛びたいからよ」と

あっさり言われてしまった。

いやいや違う。

私が言っているのは、何故棒を持って走ろうと思ったかだ!

ひーひー(興奮している)

走り高跳びとかは、普通に理解できる。

私も学生時代は、ベリーロールとか背面跳びとかやったこともある。

だが、棒を持って走って跳ぶ?

テレビを観ていて、あの長くてデカイ棒を持って走る姿を観ていると、

何故か、奇妙に思ってしまう自分がいた。

しつこいが、あの棒高跳びのアスリートの方々は、

何がきっかけで、あの棒に命をかけようと思ったのか?

そこがどうしても分からないのだ。

枕についての考察

毎朝、起きる度に

奥さんの「枕が合わない」話を聞いていたら、

次第にそれがこちらにインプットされ

なんだか枕が気になるようになってしまった。

そもそもそれまで、私は居間で適当なクッションで寝ていたので

枕以前、なんでもアタマに敷けば寝る人だったのにな…

いま、ウチには不要になった枕が、4つ位あるのかな?

そば殻、ビーズとか、低反発枕とかいろいろある。

テンピュールとか、変な名前の枕もあったな。

奥さんは、そのどれも合わないと言う。

朝起きると肩が凝っている、らしい。

まあ、そういうことは私もないでもないが

果たして原因が枕なのかどうか、わからない。

で、ネットで調べたら、あるわあるわ!

みんな、枕選びに困っているようです。

この現実に、私は妙に感心してしまいました。

オーダーメイド枕なんていうのもあって、

これはサイズを計ったり素材を吟味したり

大変。金額も張るなー。

で、金欠の我が家ではイオンに出かけ、

枕売り場へ直行。

真剣に一つひとつの枕をチェックする。

素材、高さ、その弾力、大きさ、そして

その枕をつくった意図が明確か。

また、他の枕と較べて一体どこが優れているのか?

一応、この辺りが肝となる。

広告業界でいうところの、ベネフィットのようなものか。

というか、ホントはどうでもいいような気もしてきたので

隣の棚に並んでいた座椅子を眺めていたら、

私に真剣味がないようにみえたのか、

奥さんが怒り出した。

で、気を取り直し、枕に真剣な目を向ける。

そのとき思ったのだが、ムカシの武士が使うような

あの高い枕はどうだろう?

0010cbx

ホントに飽きてくると、人間は変なことを考えるものだ。

秋の使者

湖面を撫でるように

山から吹き下ろした風が

通り過ぎる

夏の日差しのなかで

その暑さに

気を抜いていた私は

不意に身を屈める冷たさだった

カヌーが揺れ

今年初めての赤とんぼが

水の上を泳ぐように

すっと目の前を横切る

西風は

わたあめのような雲をちぎり

山へ山へと流れて消える

高原では

まだ上半身裸の若者が

ビールを片手にはしゃいではいるが

日よけ帽子を被った婦人のすました顔は

もう秋の装いだ

雑木林に入って

しゃがみ込むと

虫の音が遠くにきこえる

じっと佇んでいると

それは少しずつ勢いを増し

ああ

秋に向けての

オーケストラのリハーサルなんだなと

合点がいった

白鳥が

観光客の投げるえさをむさぼる

傾きかけた陽は

赤く湖面を照らすが

肌に触れる感触に

もう真夏の力はない

この夏の想い

この春のとまどい

今年は辛かったなと

つくづく思いを馳せ

近づく秋に

淡いものを感じるのだった

「コクリコ坂から」は、なかなかと思う。

スタジオジブリの作品は結構観ている。

初めは子供のお付き合いだったが、

観続けていて良かったと思っている。

「丘の上のポニョ」は、正直よく分からなかったが、

この「コクリコ坂から」は私にも充分理解できた。

強いて挙げれば「耳を澄ませば」のストーリー流れに、

ちょっと似ていなくもない。

宮崎駿は、いわばファンタジーアニメの大家だが、

息子の吾朗氏のこの作品は、方向性が少し異なる。

原作から見え隠れするのは、古き良き時代を描いただけ、なのか?

私の中で、この作品に出てくる生活や風景は、

自身の遠い記憶の中のノスタルジーでもあるし、

その世界そのものがメルヘンのような気もする。

舞台は昭和30年代後半の、横浜の本牧か根岸辺りだと思う。たぶん…

海の見える緑の多い丘に、ごく自然に古びた洋館が建ち並ぶ町。

ここで、主人公のメルは毎日懸命に生きている。

物語は、メルの起床シーンから始まるが、その淡々とした描写から、

彼女の高校生としての実直な性格が見て取れる。

この主人公の性格は、私の中で「となりのトトロ」に出てくる

さつきという女の子とダブってみえる。

宮崎アニメに欠かせない女の子像である。

が、この作品は他の宮崎ワールドと違い、ストーリーがかなりリアル。

そこが好きか嫌いかは、観る人の好みの問題だと思う。

高度成長期の日本の風景や、戦後を引きづった背景、

そして東京オリンピックに沸き立つ街の様子も、

つぶさに描かれている。

挿入歌の「上を向いて歩こう」が懐かしく素敵だし、

なにより、この時代の空気を端的にあらわしている。

なにしろ、この時代は誰もが上を向いて歩いていた。

涙がこぼれないように、ではなく、下を向かないという意味で…

主人公メルが通う高校にある建物カルチェラタンは、

歴史を感じさせるこの物語の重要なモチーフだ。

ここを舞台に彼女の淡い恋が始まるのだが、

事情は複雑かつリアルなもので、ラストに向かって感動の波は高まる。

特に、船に飛び乗るシーンで、

一瞬メルと風間君が抱き合うシーンがあるが、

このカットが、今回のこの作品のキーなのかとも思う。

当時の日米安保条約に反対する学生達の機運や、

その無骨さ、そしてクソまじめに討論したり、

哲学を語る奴が出てきたり…

いまでは見かけない、愛すべき当時の若者達でいっぱいだ。

ひとことで言えば、絵に描いたような青春群像。

それが、このストーリー全体を、とても爽やかなものにしている。

猥雑でにぎやかな街の様子、そして、当時の桜木町の駅や山下公園、

京浜東北線沿いの風景も、昭和らしさがリアルに描かれている。

私はこの頃小学生で、この舞台の街からかなり近い所に住んでいた。

なので、この目でこの辺りを見たり歩いたりした記憶があるので、

そこが私的にリアルであり、

ノスタルジーと言えばそうかも知れない。

さて、

主人公と同じ世代の方々に、この映画はどう映っているのだろう?

また、いまどきの若い人たちは、この映画をどう捉えるのだろう?

懐古の機運は、いまや世界的らしい。

アメリカでも、ヨーロッパでも、

60~70年代の音楽やファッションに、再び注目が集まっている。

また、ベトナム戦争の検証も、今更ながら、再び始まっていると聞く。

この映画は、ノスタルジーなのかファンタジーなのか。

時間の流れの中で、誰もが抱いているものが想い出となるとき、

それは記憶という名の物語になる。

物語はいずれ事実とは異なり、

都合勝手の良い記憶に書き換えられる。

だからこそだと思うが、

物語が独り歩きを始めたとき、

それはこの世界にふたつとない秀逸な作品になるに違いない。

そういう意味で、このストーリーは、

私にとって、

朽ちた宝石を磨くように、観るほどに輝きを増し、

忘れられないものとなった。

怪しい乗り物

日本にいて

震災とかいろいろなことがあって

ちらっと海外移住でもと考えている。

本気かというと少し本気のような気がする。

主にチェックしているのは、東南アジア。

タイ、カンボジア、マレーシアなど。

なんで東南アジアなのか?と言われると、

近いからとしか言えない。

強いて上げれば、のんびりしたい。

で気がついたのだが、

もう何年もパスポートを持っていない。

ムカシ、

ちょこっと南太平洋とヨーロッパしか行ったことないし…

パスポートのことを思いだしたら、

連想で、飛行機のことを考えていた。

飛行機は手強いぞ!

で、先日の夕暮れ時、空を見上げると

いつものように羽田発と思われる飛行機が、

西へ向かっているのが見えた。

夕日に照らされ、機体がキラッと光る。

このとき、私は激しく怪しいなと思った。

なにが怪しいかなのだが、

飛行機が飛んでいるということが、です。

あれって、目の前でみるとデカイですよ?

金属の塊です。

じっとゆっくり考えるとおかしい。

私はガキの時、落下傘と模型飛行機マニアで、

作るのはヘタなんですが、

飛ばすのはなかなか上手だった。

あるとき、私は大きな落下傘を5つを握りしめ、

非常階段の3階からホントに飛び降りようとしたんです。

だって、本人はゆっくり下りると思っているし、

死ぬなんて絶対に思いませんから…

で、手すりから身を乗り出して下りようと思ったとき、

それを見ていた用務員のおじさんから怒鳴られました。

「おまえ、そういうことをすると死ぬんだぞ」って。

あれから、どうも飛ぶことと死ぬことが、

アタマの中でイコールにセットされていたようで、

ホントに恐いんです。

が、乗らなくてはならないこともあります。

機内で救命胴衣の説明を聞いたとき、

私はとんでもないものに乗ってしまったと思いました。

離陸とのきと着陸のときは、さらに身震いの連続です。

中東上空でのことでしたが、積乱雲の中に入ってしまったようで、

激しい雨と雷と乱気流も経験しました。

アレは、富士急の乗り物なんか目じゃないです。

高飛車の方が良い。

世界を飛び回っているビジネスマンは凄いな…

尊敬します!

あっそうだ、予定を変更、

船で沖縄へ行こうかな、なんて…

エコではない、エゴな奴

クルマが好きで、17才で教習所へ通った。

これ、OKなんです。

仮免のとき、18才なら良し、ということらしいです。

いまはどうなっているか知りません。

その頃、日本はオイルショックとかで、これまた大変だった。

私はまだ世の中が見えてなかったのでよく知らなかったが、

とにかくお袋が、トイレットペーパーを買ってこい、

こればかり言われていたのを覚えている。

大変な時代だったのだろう。

私にはいまの方が大変だ、と思うが…

で、最初に手に入れたクルマは、ホンダのかっ飛びのクルマだった。

クーペ7! 空冷4気筒、FF。

これ、当時でもいまでも相当変わっているクルマで、

FFはいまは当たり前だが、当時は変わり者呼ばわれ。

で、もっと変なのが空冷で、これはオートバイの

冷却と同じ原理。

とにかく走らなければエンジンは冷えない。

で、真冬に飛ばし過ぎると

エンジンが冷えすぎて不調になるというシロモノだった。

クーラーもエアコンもついていない、で8トラという

カセットのお化けみたいなので、ロックやフォークを聞いていた。

でも、いつも窓が全開なので、テキトーな音でした。

このクルマは何が良いかというと、

なにしろ、エキゾーストから吐き出す音、これにしびれた。

で、直線早し。が、ショックアブソーバがいかれていて、

ピッチングが激しい。

第三京浜なんかで飛ばしていると、上下に激しく揺れる。

これは恐かったです。

が、もっと恐いのは、なかなか止まらない。

ブレーキを踏んでいるのに、なんだか抜けるようで、

必死でペダルを踏んでいました(汗)

この頃、前述の如くオイルショックだったのですが、

確かガソリンが、1㍑55円位だったと思います。

現在は、レギュラーで1㍑150円位。

当時の3倍の価格です。

これを安いとみるかどうか、高い気もしますが、

諸物価のスライドから考えると、そうでもないのかなと思います。

で、私がいま乗っているクルマは、

もういまは生産していないドイツのオンボロ車と

スウェーデンの更に古い老車。

老車は、

これももうかれこれ16年位前に買った爺さんです。

この2台ですが、しょっちゅう壊れる、金かかる、

手間かかる、で、ガソリンは割高のハイオク。

おまけにリッターあたりの走行距離が5・6㌔です。

因みに、プリウスの場合、リッターあたり25㌔位でしょうか?

これでは、私がとても頭が悪い人のように思うかも知れません。

また、なんでお前エコじゃないんだ、なんて文句も言われそうです。

スイマセン!

が、いい訳させてもらえるなら、

ガイシャは、モデルチェンジが少なく、基本構造に金をかけているので、

日本車より長く乗っていられると、こうなります。

(もちろんこの場合のガイシャとはヨーロッパの特定の国のクルマです)

で、ついでにお伝えしておきますが、

私はいま嫌われ者の、喫煙者でもあるのです。

喫煙は金がかかります。

タバコの値上げが激しいです。

なんたって、現代は、健康・清潔の時代ですからね。

煙なんか、蚊取り線香以外取り合わないという時代です。

だから焚き火なんかも、ムカシに較べて減ったよな。

まあ、全く時代に合っていないし、

私がとんでもない奴だと言うことも重々分かっていますが、

なんか良いんですよね?

こういう生活スタイルは落ち着きます。

自分的にですが、変わらない良さというか、

懐古的なんですが、

あの頃のテキトーな世の中のゆるさがいまでも好きですね。

そのときの感覚がいまもって変わらない、とでも言いましょうか?

ま、時代遅れなのは自覚していますが…

で、ハッキリ言わしてもらうとですね、

いまの時代の清潔さ、潔癖さに、

私は辟易している訳でありまして…

要するに、

世間だか社会だか地方自治体だか分かりませんが、

「放っておいてくれよ!」

という気分なのであります。

東京ドサ回り

出版社を数年で転職し、広告制作会社に勤め、

そこから独立。

その広告制作会社の仲間4人でつくった新しい会社は、

出だしから羽振りが良かった。

クライアントが固定し、利益も安定していた。

景気の悪い会社はもちろん駄目だが、

景気の良すぎるのも良くないな、

と想い返したのは、その後数年経ってからだった。

要は、個々の思惑がちぐはぐになり、欲の皮が突っ張り、

勝手な暴走が始まった。

悪い遊びを始める奴もいた。

奴はそのとき覚えた女遊びとゴルフを、

いまも欠かしていないという。

こうなると、共同経営というのはもう駄目だ。

堪え性がないというか、執着の弱い私は、

この会社を早々に辞めることにした。

こういうとき、辞める人間は

クライアントの仕事を持って出るのがこの業界の慣習だったが、

当時の私は、こんなことすら知らなかった。

この会社はまた設立して間もないのに、

純利益としての預金も500万円強あり、

それを少し分けてもらうこともできた。

が、うかつにもそのことも気がつかなかった。

当然、向こうから言い出す程、お人好しでもない。

私はどれを要求するでもなく、ふらっと辞めてしまった。

要するに辞めたかったのだ。

いい加減に、くだらない「和」とやらに

愛想が尽きたのかも知れない。

で、これで、ホントの一人っきりになれた。

家では、もう長男が生まれていて、

マンションの家賃も払わなければならない。

預金残高を奥さんに聞くと、さほどあるわけでもなく、

ここからが正念場だと思った。

私のフリーのコピーライターとしての出発は、

こうして当たり前のように、貧乏から始まった。

毎朝、新聞の求人欄に目を通す。

もちろん就職するつもりはないので、

外注とか外部スタッフの募集欄に目を通す。

これは後年まで習慣化してしまい、いまでもたまに、

求人欄とか求人誌とかを、つい見てしまう。

この毎朝の習慣は、私にとっては、いわば真剣勝負だった。

喰うか喰われるか、そんな気迫があったように思う。

当時、クリエィティブ系の求人は、朝日新聞の独壇場だった。

これっと思ったものは、切り抜きファイルに貼り付ける。

そして、仕事開始と思われる時刻まで、

あれこれその会社の仕事を推測する。

そして、深呼吸をして次々に電話でアポを入れるのだ。

午前中は、そんな事に総てを費やした。

アポOKは、ほぼ10社に1件、そんなものだったように思う。

そしてその日の訪問ルートを綿密に練る。

昼飯は、いつも立ち食いそば。マックとかそんなもんは眼中になかった。

それは私のノリが、地味なそばを好んだような気がする。

10㌔位はあっただろうか、

いままでの作品を入れた、ズシンとくるファイルの塊を担いで、

都心の地下鉄を乗り継ぐ。

とにかく、プロダクションからプロダクションへ、

代理店からPR会社へと何でも何処へでも、アポさえとれれば行った。

しかし、初対面で仕事をくれるなんて会社はまずない。

後は、電話でフォローをし続ける、これしか食いつなぐ方法がなかった。

こんなことを繰り返すうちに、地下鉄にはやたらに詳しくなった。

乗り継ぎの駅での車両位置を考え、

前の地下鉄の最適の位置はすぐに頭に入った。

腹が減ったら、あの地下鉄のA出口の上に美味いそば屋があるとか、

つまんないことまで詳しくなってしまった。

当時はネットもパソコンもケータイもなかったので、

固定電話とファクシミリとワープロ、

そして、とにかく動く。

それしかなかった。

私の初仕事のギャラは、税込み¥33、333だった。

当時のマンションの家賃が6万円くらいだっだから、

さすがにこれはマズイと思った。

そんな状態が結構続き、実家に借金を重ねたこともある。

が、あるときから、仕事の注文は徐々に増え始めた。

断った仕事はひとつもない。

なんでもできます。そう答えてから後で悩んだ。

が、やはり仕事のないときもある。

こんな日が続くとイライラが始まった。

しかし、仕事が溢れるくらい忙しくなると、またイライラする。

なにしろ、間に合わせなければならない。

締め切りは絶対だからだ。

徹夜は当たり前の日々だったし、そういう仕事だと覚悟していた。

不健康だし、酒浸りに陥ったこともある。

結局、心の安定なんていうものはなかった、のかも知れない。

が、

なぜか自分のなかでは充実していた日々だったように思う。

それは、私が元々宮仕えが駄目なことに起因する。

協調性と人間関係。

おおかたの企業は、ほぼこんなことで回っていた。

そして、自分の将来を、

上司とか会社に預けるというのが、私は我慢ならなかった。

それはいまでも変わらない。

自分の仕事は、結果で評価してもらう。

自分の責任は、自分でしっかりとる。

回りに振り回されない。

これしかないと思っていた。

こうした荒々しい日々は、2年続いた。

家では、子供と奥さんが私を癒してくれた。

しかし、さすがに離婚の話しを切り出されたこともある。

身内、親戚にも相当の迷惑をかけた。

かなり困難と苦痛の、私の独立だった。

いまでも想い出すと、

我ながら突っ張っていたなと可笑しくなる。

その頃の話になると、いまは奥さんも笑ってくれる。

ああ、やっと笑い話になったのだ。

が、ときどき思うのだ。

…一人の男が東京で何も知らず何も見えずに刀を振り回していた…

と、こんなことを。

10秒メシとはなんぞや?

以前、テレビでキムタクだったと思うが、

凄く忙しくて食事の時間もろくにとれないときに、

ウィダー・イン・ゼリーをどうぞ!みたいなコマーシャルを観て、

コイツ、アホかと思ってたことがある。

そんなに忙しい奴がいる訳ねーだろ、第一、メシはゆっくり味わう、

そして、ご飯でもラーメンでもパンでもなんでも良いが、

その料理の味というものがあると思うのだ。

それを味わってはじめて食事なんだと考えた訳だが、

最近になって、あるキッカケから、このウィダー・イン・ゼリー他、

こんな風なゼリー状ちゅうちゅう吸う食い物を、

頻繁に摂取するようになってしまった。

で、この食い物をひと言で語ってしまうと、

割と美味い、腹持ち良好、そして素早い食事時間短縮と、良いこといろいろ。

で、主な材料は寒天とかゼリーなので、ダイエットにもOK!

意外と良いことずくめなんですね?

あのときのキムタクは、ホントのことを言っていたんだと、やや反省もしてみた。

で、なんでこんなもんばかり喰っているんだということですが、

いや、外出していて、ホントに時間がない事が結構ありまして…

マックは嫌だろ、コンビニベントーも喰いたくない、そんなときに割り切れる食い物が

ソイジョイやウィダー・イン・ゼリーだったのだ。

これはメシではないんだよ、と自分に言い聞かせて喰うこれらの食い物は

なんとなく納得できた。

で、確かにメンドーなこと一切なし。

思うに、私と同じく10秒メシしている方って、かなりいるんじゃないかと思いまして…

どうでしょう?

さて、あるキッカケと前述しましたが、私の場合、忙しいの他、

いきなり歯を抜くことになったということもありまして、

途方にくれていたんです。

夕飯も、ステーキではなく、ハンバーグ。イカ刺しではなく、豆腐。

で、忙しさも相まって10秒メシの登場ということとなってしまいました。

しかし私は最近、これらを喰い飽きて、またコイツかよと遠ざけるようになった。

なんでもそうですが、ずっと喰っていると、飽きてしまいます。

寿司屋の息子の寿司ぎらいのようなものです。

忙しいという字は、心を亡くすと書きますね?

心なんか亡くしちゃうのだから、

メシなんか美味しいものを喰ったって分からない。

やぶれかぶれで、前後の見境なく、

さて、今度は5秒メシを探そうと思う。

コレって、私が思うにきっと「水」だろーな~

間違いない!

公衆電話

海岸に覆い被さるように突き出た小高い丘は、

いつでも草がそよいでいる、心地の良い丘だった。

その先っぽに、

ポツンと緑の公衆電話ボックスがある。

僕は

その丘にぽつんとたっている電話ボックスのことが気になり、

気がつくとその丘へ行っては、

ボックスから遠く離れた草むらに寝そべって、

いつもその公衆電話を眺めていた。

誰もいないのに

誰も来ないのに…

なんでこんな所に、公衆電話があるんだろう…

と或る日

突然、その公衆電話が鳴ったのだ。

その音が風に乗って丘に響いていた。

僕はホントにビックリして立ち上がり、

その公衆電話に少しずつ少しずつ、

近づいていった。

鳴りやまない公衆電話の前に、

僕はそっと手を伸ばし、

緑の受話器におそるおそる

触ろうとした。

突然、人の気配がした。

と、驚いたことに、

どこから来たのか

ひとりの老人が僕の背後に立っている。

メガネがちょっと鼻からズレて、

木の節が中程についた、立派な杖をついている。

「えーとそこの少年、その電話は、私にかかってきたんだ」

「いや、その」

「少年よ、その電話をとってはいかんぞ。

その電話は私にかかってきたんじゃよ」

「あっ、はい」

私は電話から、少し後ずさりした。

老人は、その電話に近づくと、

んん、と咳払いをして、ひと息ついてから

おもむろに受話器を取り上げた。

老人は電話の向こうの声にじっと耳を傾け

ときおりうなずくように

「はい」とだけ答えていた。

老人は、そのとき海の一点をみつめていたように見えた。

そう長い電話ではなかったと思う。

老人は、電話を切る間際に

「ありがとうございます」

と丁寧に会釈をし、

そして、静かに受話器を置いた。

見ると、眼に、うっすらと涙が浮かんでいる。

僕は、ちょっと驚いた。

老人は僕の方を振り向くと

「少年よ」とだけ言った。

「あの、あ、はい」

僕はあわてていた。

草がうねるようにそよいでいる、

晴れた日の午後だった。

遠くの海はかすんで見えるが、

波の穏やかな日だった。

老人は海を見つめ

そして、少しずつ歩き始めた。

海が間近に迫り

僕が危ないなと思って

近づく。

「どこへ行くのですか?その先は海ですよ。

あの電話は誰からですか?」

老人は今度は笑みを浮かべ

僕を振り返る。

そして

「少年よ、私はこれから出かけるのじゃよ」

と、静かに言った。

「どこへ、ですか?」

「簡単に言えば、昔の知り合いの所じゃ」

と言ってメガネを捨て

そして杖から手が離れた。

僕は何か嫌な予感がして、

「おじいさん、変な事はやめてください」

と、叫んでいた。

老人は、いやいやと笑いながら、

大きくかぶりをふった。

「少年よ、あまり奇妙なことを想像するな」

それより、と言って老人は話を続けた。

「唐突な質問で申し訳ないが、はて君にとって良い人生とは何だと思う」

僕は、呆気にとられた。

「はあ、そうですね、

良い人生とは、後悔しないで、何でも頑張るとか、そんなことだと思いますが」

「そうじゃな、後悔しないこと。これが最高じゃ。

が、人は皆後悔だらけとよく聞く。この年になると、そのことがよく分かるようになる」

老人は笑みを浮かべ、私に近づいてきた。

「この世で、人はなぜみな後悔を残すのか、

不思議じゃよな。

さて、この訳を、君は知らんだろ?

いや、知らんで良い。

良いが、これだけは覚えておくと良いと思う。

それは、人は後悔するようにできておる。

これは人の生業がそうつくられているせいで、

そのようにしかならんのだよ。

なあ、私は君の名も知らんが、

これも縁じゃ。君はまだ若い。

そこで、私の最後の仕事じゃ。

君に人生の極意とやらを教えてあげよう!」

「はい!教えてください。私に分かるかどうか、

それが心配ですが…」

そう言うと、老人は今度は空を見上げ、

大きく息を吸ってから、

私にこう言った。

「要するに、人はどう生きても後悔するものと決まっておる。

それが、程度の差こそあれ、必ず後悔するように仕組まれておる。

これは、そう、たとえば神様の仕業かも知れんがの」

老人は続けた。

「で、その極意とやらは簡単じゃ。

後悔することを、絶対に後悔しない事じゃよ」

僕は、そのとき、この老人が言ったことが、

いまひとつ良く分からなかった。

海が西に傾いた陽に照らされ、

ゆったりと光をたたえている。

老人は話し終わると、

僕に姿勢を正し、そして

頭を下げると、再び海の方へ歩き始めた。

と、老人に白い光が差し、

それは空から降り注ぎ、

そして、老人の体が少しずつ浮かんで、

上へ上へ、

空へ空へと上がっていき

ある所でパッと消えた。

僕はその光がまぶしくて、

眼がくらくらして、

目眩を起こしてしまった。

そして、そのまばたきほどの瞬間に

あの緑の電話ボックスも、

跡形もなく消えてなくなっていた。

そこには何もなかったように、

穏やかな陽に照らされて草がなびき、

波の遠い音と、

絶え間ない風だけが吹いていた。