朝方、夕べからずっと僕をにらんでいた女の人は、
実は天井のシミで、それは雨戸のすき間からすっと陽射しが入って
分かったことなんだけれど。あの頃の僕にとって、明るいことは、
とてもうれしいことだった。だけど、おばけは確かにいたんだよ。
岸壁で海を眺めていたら、ゴミと一緒に犬の死骸が浮いていて、
僕はとっさに目をそむけて逃げようとした。
だけど、犬の亡霊が、もう僕に取り憑いたと言うんだ。
そのことを泣いて姉に話したら、拝めば許してくれるよと…。
僕はその死骸にずっと手を合わせていて、少しづつ楽になった。
きっと仏さまが僕を守ってくれたんだと思ったら、
もう怖いものはないと思ったよ。
駄菓子ばかり食べていたけれど、或る日、
母が不二家のパラソルチョコというのを買ってくれた。
それは驚くほどチョコがいっぱいで、
最後に残ったプラスチックの棒まで透きとおっていて、
僕はその棒を貯めようと思った。
だから虫歯だらけの僕だったけれど、
あれからずっとチョコが好きだ。
親戚のおばさんが洋裁をやっていて、
僕と母はしょっちゅうその家へ遊びに行っていた。
ミシンの動きばかりを見ていた。
ボビンというのはミシンに入っている部品だが、
アタマにこびりついてしまった。
叔母さんはいつも僕に服をつくってくれた。
その頃、服というのは寸法を測ってつくるものだとばかり思っていた。
ソーダラップは、水で粉を溶くとシュッワッっとなる。
まるでクリームソーダのようにね。
そのおいしい飲み物に、
父がどこからか買ってきたストローを差して飲むと、
生まれて初めて味わう、不思議なものになった。
僕はいまでもそのストローのピンクと白の模様を覚えている。
図鑑に載っている虫は、どんな虫でも、必ず裏山に入るといたんだ。
それがオニヤンマだろうと玉虫だろうとね。
カエルの卵も田んぼにいっぱい。赤ガエルだっていたけれど、
モリアオガエルにだけには会えなかった。
だけど水すましもドジョウもいて、
ノビロという草を持って帰ると、母はそれを煮て夕飯に出してくれた。
夏まつりがお宮さんではじまると、
僕たちはお小遣いをポケットに詰め込んで、
色とりどりの甘いものを食べ、
近所で働いているお兄さんにおもちゃの鉄砲を買ってもらった。
そのあいだ中、僕たちは夜の9時まで外にいて良いことになっていた。
だから7月7日の七夕とこのお祭りのときだけは、
学校で居眠りをしていても、先生は怒らなかった。
ガガーリン少佐が人類で初めて月に降りるというので、
僕は興奮して、そのことを父と母にずっと話していたけれど、
だんだん疲れて眠くなって、気がついたらすっかり朝になっていた。
それは凄いことだと両親もいうので、
僕は学校のみんなのところへ走っていった。
その日の朝礼で、
校長先生もガガーリンのことを興奮してしゃべっていた。
あの頃は大きな地震も不景気もなく、
東京オリンピックが日本で盛大に開催されて、
僕たちにはまだサッカーという遊びもなくて、毎日野球をやっていた。
のんきにね。
そしてこんな毎日がいつまでも続くもんだと、僕は思っていたんだ…
