出版社を数年で転職し、広告制作会社に勤め、
そこから独立。
その広告制作会社の仲間4人でつくった新しい会社は、
出だしから羽振りが良かった。
クライアントが固定し、利益も安定していた。
景気の悪い会社はもちろん駄目だが、
景気の良すぎるのも良くないな、
と想い返したのは、その後数年経ってからだった。
要は、個々の思惑がちぐはぐになり、欲の皮が突っ張り、
勝手な暴走が始まった。
悪い遊びを始める奴もいた。
奴はそのとき覚えた女遊びとゴルフを、
いまも欠かしていないという。
こうなると、共同経営というのはもう駄目だ。
堪え性がないというか、執着の弱い私は、
この会社を早々に辞めることにした。
こういうとき、辞める人間は
クライアントの仕事を持って出るのがこの業界の慣習だったが、
当時の私は、こんなことすら知らなかった。
この会社はまた設立して間もないのに、
純利益としての預金も500万円強あり、
それを少し分けてもらうこともできた。
が、うかつにもそのことも気がつかなかった。
当然、向こうから言い出す程、お人好しでもない。
私はどれを要求するでもなく、ふらっと辞めてしまった。
要するに辞めたかったのだ。
いい加減に、くだらない「和」とやらに
愛想が尽きたのかも知れない。
で、これで、ホントの一人っきりになれた。
家では、もう長男が生まれていて、
マンションの家賃も払わなければならない。
預金残高を奥さんに聞くと、さほどあるわけでもなく、
ここからが正念場だと思った。
私のフリーのコピーライターとしての出発は、
こうして当たり前のように、貧乏から始まった。
毎朝、新聞の求人欄に目を通す。
もちろん就職するつもりはないので、
外注とか外部スタッフの募集欄に目を通す。
これは後年まで習慣化してしまい、いまでもたまに、
求人欄とか求人誌とかを、つい見てしまう。
この毎朝の習慣は、私にとっては、いわば真剣勝負だった。
喰うか喰われるか、そんな気迫があったように思う。
当時、クリエィティブ系の求人は、朝日新聞の独壇場だった。
これっと思ったものは、切り抜きファイルに貼り付ける。
そして、仕事開始と思われる時刻まで、
あれこれその会社の仕事を推測する。
そして、深呼吸をして次々に電話でアポを入れるのだ。
午前中は、そんな事に総てを費やした。
アポOKは、ほぼ10社に1件、そんなものだったように思う。
そしてその日の訪問ルートを綿密に練る。
昼飯は、いつも立ち食いそば。マックとかそんなもんは眼中になかった。
それは私のノリが、地味なそばを好んだような気がする。
10㌔位はあっただろうか、
いままでの作品を入れた、ズシンとくるファイルの塊を担いで、
都心の地下鉄を乗り継ぐ。
とにかく、プロダクションからプロダクションへ、
代理店からPR会社へと何でも何処へでも、アポさえとれれば行った。
しかし、初対面で仕事をくれるなんて会社はまずない。
後は、電話でフォローをし続ける、これしか食いつなぐ方法がなかった。
こんなことを繰り返すうちに、地下鉄にはやたらに詳しくなった。
乗り継ぎの駅での車両位置を考え、
前の地下鉄の最適の位置はすぐに頭に入った。
腹が減ったら、あの地下鉄のA出口の上に美味いそば屋があるとか、
つまんないことまで詳しくなってしまった。
当時はネットもパソコンもケータイもなかったので、
固定電話とファクシミリとワープロ、
そして、とにかく動く。
それしかなかった。
私の初仕事のギャラは、税込み¥33、333だった。
当時のマンションの家賃が6万円くらいだっだから、
さすがにこれはマズイと思った。
そんな状態が結構続き、実家に借金を重ねたこともある。
が、あるときから、仕事の注文は徐々に増え始めた。
断った仕事はひとつもない。
なんでもできます。そう答えてから後で悩んだ。
が、やはり仕事のないときもある。
こんな日が続くとイライラが始まった。
しかし、仕事が溢れるくらい忙しくなると、またイライラする。
なにしろ、間に合わせなければならない。
締め切りは絶対だからだ。
徹夜は当たり前の日々だったし、そういう仕事だと覚悟していた。
不健康だし、酒浸りに陥ったこともある。
結局、心の安定なんていうものはなかった、のかも知れない。
が、
なぜか自分のなかでは充実していた日々だったように思う。
それは、私が元々宮仕えが駄目なことに起因する。
協調性と人間関係。
おおかたの企業は、ほぼこんなことで回っていた。
そして、自分の将来を、
上司とか会社に預けるというのが、私は我慢ならなかった。
それはいまでも変わらない。
自分の仕事は、結果で評価してもらう。
自分の責任は、自分でしっかりとる。
回りに振り回されない。
これしかないと思っていた。
こうした荒々しい日々は、2年続いた。
家では、子供と奥さんが私を癒してくれた。
しかし、さすがに離婚の話しを切り出されたこともある。
身内、親戚にも相当の迷惑をかけた。
かなり困難と苦痛の、私の独立だった。
いまでも想い出すと、
我ながら突っ張っていたなと可笑しくなる。
その頃の話になると、いまは奥さんも笑ってくれる。
ああ、やっと笑い話になったのだ。
が、ときどき思うのだ。
…一人の男が東京で何も知らず何も見えずに刀を振り回していた…
と、こんなことを。