謹賀新年
正月なので初詣に行かれた人も多いだろう。
私も元日に氏神様への初参りを済ませた。
こんな折りに相応しい話をひとつ。
私の家では
毎日、朝一番に起きた人間が、
まず石けんで手を洗う。
そして、仏様と神棚に上げる水を汲むのが
習慣だ。
そう書くと、なんだかコイツ信心深い奴だなぁと
セセラ笑いが聞こえてきそうだが
これがウチ流だからしょうがない。
いつ頃からそうなったかは定かでないが
もうこの手順を踏まないと気持ちが悪い。
パンツをはかずにジーパンをはくようで嫌なのだ。
じゃあ、なにか信心でもしているのか?
と聞かれても、残念ながらなにもしていない。
また、私は地方に行くと、知らない神社や寺の境内で
昼寝をする。これはもう私の趣味で、こんなに
落ち着く趣味はそうそうない。
一度、プロの方にアタマのマッサージをしてもらったことが
あるが、あの心地良さによく似ている。
じゃあ、核心に入ろう。
神や仏はいるのか?という延々とした話だ。
私はいる!、と思う?。と考えている。
何故か?
私はこれでも、かなり場数は踏んでいる。
といっても、話は占いから入る。
ニセ占い師から凄い的中率を誇る占い師まで、
はたまた霊感の強いといわれる方から
霊能者と呼ばれる方々まで
私は、延べ50人位の人と会ったり電話で話したりした。
それらのメモを何度も読み返すのだが
彼等のなかには、私的な質問に関することでも
何の前情報もなしに発する言葉が、
何度となく的中することがある。
こちらの話はとても私的で秘密理である場合でも、
返ってくる言葉はほぼ皆同じ、ということが多いことに
驚く。
また、何かを言い当てる、はずれるではなく
体験として語ってくれる話のなかにも共通項は
みられる。
例えば、葬式の席に、当の昔に亡くなった人が
弔問に来ていた、そしてその人は周りから浮いて見えた
ということも、多くの人から聞いた。
これが神だ仏だと言っても、話がずれているのは分かっている。
話は、あの世とこの世の話に移ってしまったか?
しかし、私自身の実体験として、香りというものがある。
これは、あるときから、いや義母が亡くなった前後なのか?
いまでも、ふっと鼻先にいい香りがすることがある。
百合の花の臭いのような、
昔の女性がつけていた白粉のような、
いや、なんとも香しく甘い香りが漂うことがある。
これは、早朝、そしてもの思いに耽っているとき、
クルマの運転をしているときなど
場所や時間に関係なく漂ってくるから不思議だ。
ただ、私自身がリラックスしているときほど漂ってくる。
この事を、或る霊能者の方に聞いたら、当然の事象のように言われた。
これが進むと(?)音が聞こえ、
映像として見られるようになるらしいのだ。
これは、トト神という神のなせるものだと言う霊能者もいた。
(トト神という神様を調べたが、私にはよく分からない)
また、お経や仏典、とある宗教の教典にも不思議に思うことがある。
これらを幾つか読んだことがあるが、これはもう、
人間が人事を尽くして書いたものではないということが
明らかに分かるものがある。
つくり話としてここまで書くのは不可能という代物が幾つもある。
こうしたものは、それなりの人物がどこからか
「下りてきた」ものを書き写した、
としか言いようがない。
さてしかし、こんな格言もある。
「私は人生に挫折するたびに何度も神に祈った。
しかし結果は哀れなものだった。
だから私は生涯神を信じないのだ」
これは、とある科学者の格言だ。
こんなのもある。
「人が何人も戦争で死ぬ。歴史上、そのほとんどの原因が
宗教なのだから、私は神を信じない」
また、テレビでお馴染みの大槻教授は、まがい物が大嫌いな人だ。
その武器として、科学の理論を駆使する。
これもひとつの手ではある。が、その裏もある。
それは、科学が万能ではないということだ。
科学は、この世の或る一部分の真実を解明しているが
その他の無数の事実は解明できていないのが現実だ。
それは、この世の事象が
科学で説明しても限界があるということを
端的に言い表しているし、
事実そうゆう事象は、数知れない。
また、山羊さんの手紙のような伝言遊びではないが、
真実は伝えてゆくうちに尾ひれがつき、
最後は全く異なる話になっていることが多い。
宗教なども、
歴史のなかでねじ曲がって伝わってしまったものもある。
権力者により、意図的に利用されたものも多いだろう。
いまマスコミを賑わしているイスラム過激派というのも
実は、イスラム教の教えを守っていなのではないか、と思う。
もともと、アラーの神は
もっと穏やかな言葉を残していると思うのだが。
さて
この話はどこまでも続くが、
今日はこの辺にして
素敵な言葉を紹介しよう。
かの哲人キルケゴールは言った。
「たとえ世界の終末が明日であろうと
私は今日リンゴの木を植える」
これは、人々の生に対する希望なのか?
はたまた
神への祈りなのか?