伝説

どこまでも吹く風

曖昧な空間に

ひとつ板を浮かべ

想いを描いたという

一振りで、山をひとつ

指先をちょっと押し当て

海を深く

そしてあのひとは

愛をひとつふりかけ

世界を創った

という

そのわずかな

残りカスのなかから

お互いが出会って

私たちに続く道は

開けた

鳥も虫も花も

空も雲も大地も

過去も未来も

愛し合い、憎しみ合い

殺し合い、助け合い

夢を育み

明日を信じ

絶望し

息絶え

それでもなお生きてゆく

それでもまた死んでゆく

あのひとが

私たちに伝えた

ひとつのものがたり

いまだ見たこともない

誰も辿り着かない

その彼方に

真実はあると

そこに夢があり

そこにもやはり

失望があり

だから皆ただ歩くのみだと

だから生きるものも

死したものも

なおめざすのだと

あのひとは

生きるものすべてに

あの世のすべての想念に

絶え間なく

語りかけるのだ

フォトフレーム

僕にとって

あの日は

世界がひっくり返るほどの

驚きと

よろこびに溢れていたのだけれど

いまになって思えば

君は

あの日あのできごとに

あくびのでるような

退屈さを覚えたことだろう

僕はあらん限りのことばで

君に伝えようとしたんだよ

微笑んだ君は

たいして語ることもなく

OKってそれで

遠くをみつめていたね

(不確実なあるいはうつろい)

ただ、あの笑顔だけは

いまさら取り消さないで欲しい

(悪夢のなかで泳ぐこと)

おとなになりなさいって

君はよく言ってたが

おとながなにを考えているのか

僕に教えて欲しい

だって

おとなは愛し合わないのかい?

おとなはホントのことを語らないのかい?

(あるいは武器として)

君にとっては面倒なことだけれど

それがせめてもの愛だろう?

僕にしてみれば

悲しいけれど、それでも

ちっぽけな

愛なんだろうと思う

(滑稽なおとことテーブルの上の写真)

さようなら

ひこうせん

青く澄みきった空に

ひこうせんが浮かんでいる

黄色いひこうせん

もう小さくみえるひこうせん

ときおりキラッと光ると

徐々に小さくなってゆく

「おじいちゃん、見てみな。ひこうせんだよ」

車いすに座っているおじいちゃんも

空を見上げる

僕とおじいちゃんの指が

ひこうせんを追いかけてゆく

まぶしそうにおじいちゃんの目が笑って

そしてしばらく空を見上げていたおじいちゃん

車いすを押して部屋に戻ろうとすると

おじいちゃんは

「ばあちゃんが乗っておった」

とつぶやいて頭をさげていた

部屋に戻るとおじいちゃんは

這うようにして仏壇に体を寄せ

まだ新しいおばあちゃんの位牌に

ずっと手を合わせていた

お地蔵さん

お地蔵さんは、子供が大好きだ。

昭和30年代のこと。

小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。

当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、

私は歯も数本抜けていた。

しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。

放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。

同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも

通う羽目になった。

耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、

いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、

例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を

繰り返すだけだった。

怖いのは歯医者だ。

昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。

中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。

当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、

痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。

で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。

とても偉かったのだ。そして、怖い。

私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、

急に腹が減るのだった。

当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。

いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは

そんなものだった。

いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、

途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。

木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは

いつも笑っているようにみえた。

見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、

山盛りになっている。

私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて

その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、

しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。

次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、

前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。

私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、

不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。

ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、

お地蔵さんは笑っているようにみえた。

そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。

歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。

私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、

母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。

帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。

私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。

すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。

私は訳が分からず、

「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」

と泣いて母親に抗議した。

「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。

母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、

必死に謝っていた。

幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。

そして、延々と説教された後、

我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。

後にいろいろなことが分かった私だが、

あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、

お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。

あのやさしい目。

毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。

いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、

私は、手を合わせて頭を下げてしまう。

最近見た景色

ほぼ、神奈川県内をウロウロしているが

所用で東京へ行くこともしばしばある。

世田谷には長いこと住んでいたので

違和感はないが、山手線の内側は

その頃から疲れるエリアだった。

新宿、渋谷は何となく分かるが

新橋あたりに泊まるのは初めてだった。

東京湾に面したホテルを取ったのだが

夜景でも見ようとカーテンを開けた。

対岸にお台場あたりだろうか?

海の中から天に向かって

高層マンションが建っているようにしか見えない。

お馴染みのフジテレビの社屋が遠くに光っている。

(すげぇなぁ)

翌朝、この景色を眺めながら朝食をとったのだが

どうも落ち着かない。

腰が引けている。

そういえば、昨夜見た

反対方向のシオサイトあたりは

もう未来都市の様相を醸し出していた。

巨大なビル群がいろいろな光りを放ち

夜空を明るくする。

(都会で星なんか見られないのだ!)

遠くに、六本木ヒルズや新宿のビルまで見えたときは

東京は怖いか、と自分に自問してみた程だ。

品川や田町、浜松町辺りも随分と

変貌を遂げていた。

名も知らないビルの中の飲食街でメシを食ったとき

気のせいか、皆さんお疲れのような顔をしていました。

で、街を歩いていても、座るところがない。

(ベンチぐらい置いておけよ!)

ついでにワガママを言わせてもらうと

タバコなんか吸うところ、ないのね?

たまに喫煙エリアなんていうのがあるんだけど

人が溢れかえっていて大変。

喫煙者の私でさえ、煙ったい。

山手線に乗ろうと浜松町の駅に近づいたとき

人人人の波がワットこっちに向かってきて

思わず私はひるんでしまいました。

(どっきりカメラかと思ったんだけどな)

私の知っている東京はもうバブルの彼方。

どこへ行ってしまったのだろうね?

蜘蛛の巣地下鉄の乗り換えと

出口を間違えたときのミステリーは

もっと凄いぞ!

(つづく)

景色評論家 冬景色宗介

千年の眼

語りぐさになるほどの

あの強者どもが

足元の草を這う虫となり

夢を語る頃

家々のやれ夕げに忙しく

子供は勉強に忙しく

足早のターミナルも

言葉少なく

夢もなく

高層ビルの

その一升で

ひとはなぜひとを追い込むのか

ひとはなぜひとから逃げるのか

サンドウィツチを土のように

コーヒーを苦々しく

いや売上げだ利益だ

数字を語る

笑顔に光なし

眼に力もなく

その頃

あの強者どもは

足元の草を這う虫となり

月に照らされ

さも

墓などなかったかのように

夢を語る

命は尽きないかのように

酒杯の酒を煽るように

露と戯れる

男であれ女であれと

その声は語るのだ

生きることにのみ

幸あるように

喜びに満ちるように

世界をみるのだ

ひとと交わるのだ

ひとはひとらしく

生きてくださいと

利益に先んずるものなどないと

笑わせるようなことを

知ったような分かったように

生きることを語るなと

ひとは愛らしく

ひとはまっすぐに

ひとはひとらしく

決して世界を縮めるな

墓など探して安堵するなと

かの声は

家々に語りかけるのだ

冬のことば

ピンと張りつめた夜明けの気配

かすかな陽に向かい今日という日を考えるとき

昨日までの総てを忘ると思うも

やはり脳裏で輝くあの光景に惹かれ

どうしたたものかと倦ねても

心は躍るものだ

冬に出会い春が訪れることもなく

ふたりに別れがきたこともあった

それはもう善いにしても

冬に流す涙のなんと熱いことか

胸いっぱいの呼吸もできず

吐息の白さが痛いと教える

考えることよりいまはただ歩くことだと

陽に染まる赤い山が諭すように

ただ茶の枯草を踏む

高台に立って空を見上げると

私という存在の小ささよ

言葉というものを通り越して

胸に迫る深遠の絵物語

下弦の月はかすかに笑うが

うっすらと見える星はそれを誘うように

夜明けの空を満たす

春を待つも冬に遊び

夏を恋しがるもその面影

想うことなく

秋を過ぎたり冬にいる

冬は想うもの

冬は黙るのみ

冬は過ぎた日と

或る日あの日を

映し出す

冬は透明で美しく

せめて気持ちすがすがしく

辿り着けないもの

世界は本当に変わるのですか?

あなたが変わると思うのなら
世界は変わります

しかし、まずあなたが変わらなければ
世界は変わらないでしょう

で、あなたは自由ですか?

いや、いろいろありまして、と言うのなら
あなたは不自由のままでいましょう

自由は心の在りか

まず、あなたがイメージしなければ
自由は
永遠にあなたのものにならないでしょう

幸せになれますか?

あなたはあなたに聞いてください

それがよく分らないと思うなら
あなたは、幸せなのでしょう

幸せはどこにでも落ちています

ただそれを、拾いさえすれば良いのだから

青い鳥は
いつもあなたに捕まえられることを
願っています

願っています

こんな簡単なことなのに
誰も辿り着けない

誰でも分かることなのに
答えがみつからない

ああ、私たちはいま
とてもやっかいな時代に生きているだ

私たちは
かなり面倒くさい生きものとして
進化しているんだ

いや、
進化という退行の道を
突っ走っている

コピーライター事始め

コピーを書いてもうだいぶ経つが
最初の頃は、全く書けなかった。

何をどう書いていいのか?

オーダーがきても、どこを抽出してどう表現するか
そのコツが私には分からなかった。

加えて、書き始めが、からきし難しく感じる。

もう、ここから萎えてくる。

良いものを書こうとする気負いが
益々その趣旨と核心をみえなくしていた。

元々、私は出版社にいたので
原稿を書くのは慣れているハズだった。

が、事はそんなに甘くはなかった。

いまは、出版物の文章もかなり広告チックなものもあり
広告コピーといっても普通の原稿のようなものも増えている。

当時は、この両者の中身にかなりの隔たりがあった。

広告コピーの世界は、かなり特殊な文で組まれていた。

ある時は詩的であり、短文のなかに優れた世界観があった。
ある時は、あり得ない言葉の組み合わせにより
とんでもないフレーズを生み出す方もいた。

私は、そのどっちも書けなかった。

まず、キャッチフレーズが浮かばない。
どう考えても、出てこない。

しょうがないので、ボディコピーから
なんとか書き始めるのだが、出来が
これでよいのかどうかも分からない。

上司からは、イマイチといわれ、
その理由が怖くて聞けないこともあった。

悩みの日々が続いた。

後から徐々に分かったのだが、ここに第3者の目が
加われば、そのコピーの出来具合は、ほぼ分かる。

他人の目を自分がもてば、自ら書いたものも
ある程度は評価できる。

決め手は、やはり「もし自分がお客さんだったら?」という
視点だろう。

いま思えば当たり前のことなのだが、これがいまでも結構難しい。

当時は当たり前のようにまるで駄目だった。
しかし、そのことを意識するようにして書き始めたら、
客観性が少しずつ身に付くようになり、
少しずつコピーの出来も上達するようになってきた。

問題はキャッチフレーズだ。

これは、もうコピーライティングの肝ともいうべき
代物なので、私の場合はかなりの時間を要した。

キャッチフレーズは、広告文全体のコンセプトを
担うものなのだが、私はコンセプトという言葉自体が
当初よく理解できなかった。

よほど出来の悪い、遠回りしてきた新人だった。

私は日夜、このコンセプトとはなんぞや?という答えを
みつけるため、図書館に通い、本屋でその筋の本を買い、
しまいには、恥ずかしさも忘れて年下の同僚に

「ねえ、コンセプトって何?」と聞いたこともある。

ところが、この年下の同僚が上手い言葉を発した。

「ううん、なんていうか、人間に例えるとヘソのようなものじゃないの?」

嘘のような話だが、私はここから一気に視界が明るくなった。

どの本よりも、この言葉に救われたような気がした。

きっと、頭で理解したのではなく、この時の同僚の言葉が
私のカラダ全体で反応したのだと思う。

感覚で分かったのだ。

以来、何となくこの道を歩いている。

というか、喰えていると言ったほうが正しいのか?

仕事は、何にでも通ずることだが、
まず人まねから始まる。

しかし、いつまでもまねている訳にもいかない。

ある程度経験を積んだら、いつか自分の道を探す時がくる。

来ない人は、ちょっとまずい。

コピー人間のままで終わってしまう可能性がある。

自分だけの道を探さないと、
自分にしか出せない味という強みが出ない。

「道は、星の数」とは、かの糸井重里のコピーだが

みんな自分の道を探さなくてはいけない。

オリジナリティは、人それぞれの持ち味のように
なくてはならない大事なものなのだ。

コピーライターの場合、特にオリジナルな文が要求される。

新人時代、私はこの要求に翻弄された訳だが、
良い意味でも悪い意味でも、
それは性格にも反映されるようになった。

私の友人のなかには、お前は元々そういう奴だったという
のもいるが、私は後天的と勝手に思っている。

曰く、
良い場合は、個性的とか、
ものの見方が変わっているなどと言われることがある。

その逆は、まあ
変人とか、へそ曲がりとか、
その他はもうぼろくそに言われているので
これは、職業病ということにしておこう。

おかげで、
かなり図太く生きる訓練をさせて頂きました(笑)

水底で考えること

水面を流れる風に

さざ波を立てて

その底に眠る魂のことなど

いまはもう誰も知らない

あるきっかけで私はその魂を

深く沈めることにしたが

最近になって

それは生きている間に何とかしようと

その魂は叫ぶので

私は立ち行かなくなった

秋燦々の早朝

そのホテルの部屋の目前に

湖は佇んでいた

湖面はゆらゆらと

湯気のようなものに覆われ

早朝の釣り人の船が

すっと滑ってゆく

ミネラルウォーターをひとくち

シャワーを浴びてまた窓のカーテンを開けると

先程まで曇っていた空に

すっと陽が差し

雪に光る冨士が輝いた

いまだと、思った

私は

素早く着替え

湖面に突き出す船着き場に立つ

対岸の森に鳥居があり

湯気のようなものの上に浮かぶように

その景色も揺れている

切れた雲から差す朝日に照らされ

その上の尾根も光り

足元に寄せるさざ波に

あの頃が蘇る

元々うちの家系は水軍の出だと

父は言った

三河の水軍

それがどうしたと私は思ったが

父の気概がその朝に分かったような気がする

戦後になっても帰れなかった父は

シベリアで生きていた

どんなに叩かれ

喰うものがなくても

ふるさとに帰りたかったと言っていた

脱走した日本兵は即座に撃たれ

皆死んでいった

運良く脱走した者でさえ

あの広くて極寒のシベリアの大地で

どうやって帰るのか

その人間たちでさえ

待ちかまえる狼に喰われてしまったと言う

父は昭和23年に本土の土を踏んだ

村でたったひとりの帰還兵だった

なぜ生きて帰れたのか俺にも分からないと

父はよく言っていた

私はいつも平和に生きたいと

思っている

いまでもそれは変わらない

私自身の戦争も

遠い昔に終わっている筈だった

湖の底に眠る魂は

私の戦争だった

私は戦うことに飽きている

湖の底に眠る魂は

私の戦争だ

私は戦うことを

避けて生きてきた

血筋をどうこう思う者ではないが

なにか近頃

父の言葉が気にかかる

これは私の戦争なのだ

これは私の戦争なのだ

父が笑っている

あまり見せたことのない

笑顔で

父が笑っている

戦争が始まる

戦争が始まる

再び私の戦争が始まる

水底の魂が

私を呼んでいる

私は、水面を流れる風になりたいのだが

水底の魂は、このさざ波ではなく

湖を

地の底から動かすことを考えていた