Haru (春)

陽ざしの乱反射は細かな虫の羽が

絶え間なく動いているからだった

山あいの朝はまだ肌寒いが

ほうぼうを見て歩いていると

あちこちで木々の芽吹いているのが分かる

もう田んぼのあぜ道も見なくなって久しいが

その足元に咲く

レンゲやシロツメグサの春の華やかな記憶が

いまでは夢のような出来事のようになってしまった

花も蝶も蜂もそして何もかもが減って

あのむせるようないきものの充満した春は

もう何処にもないのだ

そういえば密集した森も笹やぶも

かつては濃密な自然の匂いを放っていたが

いまは整地が進み

綺麗な住宅が立ち並らび

僕たちは僕たちでそれは快適になったのだが

たとえばビル街を歩いていて

ふと立ち尽くしてしまうのは何故なのか

少なくとも僕と同世代以前は

鎮守の森に守られて育った

都会にもそれなりに雑木林はあったし

空き地も川も田んぼも蛙も…であった

道端のお地蔵さんは

僕の話相手ですらあったし

どこのお母さんも

間違いなく割烹着をつけていた

昭和は悲しい歴史の刻印である

と同時に

昭和はもう戻ることのできない郷愁である

そこにはもう蘇ることもない自然が息吹いていて

木訥とした人間の暮らしがあって…

だから

春はあけぼの

春はいのち

春は過ぎし日

今年もようやく

僕なりの春がきた

渚にて

南十字星のみえる浜で

足に絡みついてきたネコと一緒に

宙を見上げていた

キシッキシッと足もとの貝がらが鳴って

砂浜にみちる波はメロゥ

とおい椰子の木のシルエットが

スローモーション映像のように

ゆったりと風にゆれ

貿易風がなめらかに雲を運ぶと

わずかなすき間から月あかりがのぞく

月と椰子

ネコと僕はそろって海のほうを向いていた

波間に魚がぴょんとはねる

そして月のスポットライトが

一隻の木の葉のような船を照らす

ライトアップされた海のステージ

観客が僕らだけの

南の島のローカルショー

ほんの一瞬ではあったけど

それが永遠でもあるかのように

いまも色褪せることがない

雲に乗りたい

雲1

雲は踊り

雲は悲しみ

雲は泣く

だけど雲は揺るがず

かしこく東方をめざして

大空を駆けてゆくから

雲2

そのゆく彼方には

きっとエルドラドのようなしあわせが

あるのだろう

雲3

命のゆらめき

その連絡は唐突にやってきた

僕は取るものも取りあえず車をとばした

初めての病院で右も左も分からず

受付をさがす

患者の名前を告げると

「ICUは別棟の3Fです」

走り出そうとする僕に

―ちょっと待って

この用紙に名前を記入し

この名札を首にぶら下げてください―

そんな余裕がある訳ないだろ!

と怒鳴りそうになるが

努めて息を整え指示に従うことにする

もともと容体はよくなかったが

意識はしっかりしていて

こんな姿でいまは誰にも会いたくないと…

事態は前日の夜半に急変した

後で聞くところによると

医者の体調不良による不在と

看護体制の不備が原因らしい

ああ

若い命がベッドの上で迷っている

どっちへ行こうかと…

それはまるで

頼りない風任せの風船のように映る

いろいろな機器へと管がのび

デジタルの数字がその状態を刻々と表すのだが

あたかも囚われの身でもあるかのように

のべつ幕なしに苦悩の表情を浮かべている

努めて冷静に

僕はそれを凝視しなくてはならない

それは僕の義務である

コイツの幼い頃の表情を思い出すと

時間を飛び越えて

しばし

淡いしあわせの匂いがした

担当医が咳き込んで

なぜか偉そうに容体の説明をするが

その1つひとつが押しつけがましく

所々の言い訳が空々しく響く

本人の意思を聞くべく

危険を冒しても…とのことで

転院の手続きがすすむ

翌日

風の強い今日という日に

淡い命が運ばれる

それは命のゆらめきとはほど遠く

奴の生きる強い意思による

決断に他ならない

大山に登ろう!

タイトルは…登ろうだが、結局、日程を延ばすことにしました。

大山なんてチョロいという先入観が間違っていた。

最近重宝しているVixenの双眼鏡で、

めざす大山の山頂あたりをじっと観察すると、

山肌になんとびっしりと雪がへばり付いているではないか。

積雪ではなく、風雪とでもいうのかな。

山肌に雪氷のようなものが貼り付いているのが見える。

すっげぇ、寒そう。で、あそこを歩くと滑るな~って感じ。

ハイキング程度しか経験のない私には、まるで無理。

まず根性が出ない。

厳冬の装備を持ってないし。

以上の理由により、もう少し気温が上がるまで、

登るのを延期することにしました。

丹沢なんかもそうだが、

山としては標高も低く、都会に近いし、

一見カジュアルな山に見られているが、

むやみに奥へ入って迷子になったりトラブルに見舞われたりと、

警察や消防へのSOSも多いらしい。

意外ですね。

もうひとつ、なめてはいけないのが、

やはりあの身近な湖、山中湖だ。

湖畔にはキャンプ場、旅館などの宿泊施設、

コンビニ、ファミレスなども建ち並び、

湖にはボートに観光船、白鳥もウヨウヨいるので、

ちょっとなめて油断してしまいそうだが、

ここのクソ寒さったらどん引きしてしまうほど寒いんだ。

若い頃、1月に一度行ったことがあるが、湖面が凍り、

元気なおっさんたちが湖面の上で氷に穴を開け、

ワカサギ釣りをしていたのを目撃したことがある。

夏もそこそこ行っているが、

晩夏ともなると、陽が沈むとぐっと冷えてきて、

急激な温度の低下は相当こたえる。

ある年の夏の終わりにキャンプに行ったときも、

テントの中で毛布を被って寝たのはいいが、

その寒さに耐えられず、車に移動。

エンジンをかけてヒーターを全開にしたこともある。

夏ですよ。

なので今頃の時期、山中湖ってなおさら鬼門です。

山、湖ときたら、川です。

川はですね、やはりなめたらあかんです。

神奈川県では、やはり相模川より中津川の方が恐い。

なんでかっていうと、単純に流れがキツイから、

いろいろなトラブルも起きやすいのかな。

自身の体験したことだが、

あるとき、中津川の上流の岸で仲間達と遊んでいたら、

その中の一人が足を滑らせて川へドボンと落ちてしまった。

それを見ていた私は反射的に飛び込んでしまい、

そいつを助けようとしたが上手くいかない。

流れが驚くほど急なんですね。

こっちは学生時代にずっと水泳部だったので、

潜在的に妙な自信のようなものがあったと思うが、

中津川はそんな私たちを許そうとはしないんだな。

そこで流れに逆らうのを一切やめる作戦に変更。

少しのあいだ、二人して下流へ流されながら

適当なよどみを探すことにする。

と、疲れが出てきた頃にちょうどいいよどみがめっかったので、

そこをめざし、一気に泳いでそこへと逃げ込んだ。

が、落ちた友人は立ち泳ぎがうまくない。

そこは土がむき出しの崖になっていて、

岸に這い上がることは到底無理だったが、

なんかの植物だか木の根がところどころに飛び出していて、

それにつかまって体制を整えることができた。

で、呼吸を整え、二人して力の限りに泳ぎ、

急流に流されながらもこちらの岸まで泳ぎきり、

みんなに引き上げられた。

この経験は、後に落ち着いて振り返ると、

相当恐かった。

さて、山、湖、川ときたら、そう海ですね。

若い頃、台風前の葉山の海で遊んでいて、

とんでもない波に巻き込まれ、

まあ簡単に表現すると、

洗濯機のなかに入れられたような状態から

これまた九死に一生を得た私ですが、

なんだか話が長くなって、飽きてしまいました。

この話の出発はそもそも冬の大山でしたが、

なんだか季節も時間も場所も

大幅に移動してしまいました。

要は、自然はなめたらあかんという話を

体験的に話したかっただけなんですがね。

時の長さと質、その観念について

「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画のなかで、

絶対に死ねない刑を受けた男が出てくる。

その男が死ねない辛さを話すシーンがある。

ジョニー・デップ分するキャプテン・ジャック・スパロウは、

その男の告白を相変わらずへらへらとして聞くのだが、

死ねない刑の辛さをまるで分かってあげようとしない。

それは想像の域を超えているとでも言いたいように。

この映画を観ていて、あるくだらない記憶が蘇った。

勉強などするハズもない高校生の頃の或る夏休み。

その年はえらく暑かった。

気力を失っていたその頃の私は、

いま思えばちょっとどこか患っていたのかも知れない。

部活を辞めた後の毎日は、

生活から何か大事なものが抜け落ちたように、

ポカンと穴のあいた空虚さだけが残った。

とにかく何もしない。したくない。

一日中だるい。

辛うじて毎日昼過ぎに起き、

パチンコ屋に通い、

ひたすらパチンコを打ち続ける。

玉が出ようが出まいが、実はどうでもよかった。

他に何もすることがない。

パチンコには全く集中していない。

が、玉がなくなると、

これはもうどうしていいか分からないほど、

心身が消耗していた。

店を出て炎天下のなかをふらふらと歩く。

で、今度はボーリング場へと行く。

他に行くところが見当たらない。

が、ボーリングなどしない。

あんな重い球を持つのが嫌なので、

ペプシコーラを買ってベンチへへたり込む。

で、夜までまんじりともしないで、

誰かが投げる球の先をぼんやりと見ていた。

いま思えば、

ほとんど思考すらしていなかったのではないか。

ああ、こんな時間が延々と続くのか―

それが永遠に続くように思ったとき、

人生は退屈で憂鬱なものと思ったし、

時間は残酷だなと…

こうして部活を辞めた初めての夏休みは、

私は途方に暮れていた。

いま振り返ると馬鹿者の典型だと自戒できる。

翻って、日々の時間が足りない現在。

あの頃の自分に戻って時間を持ち返りたくなる。

そしてその頃には全く意識もしなかった「死」というものもまた、

最近はぐっと身近な存在として、

私のまわりをうろうろしている。

オヤジは、或る朝、突然逝ってしまったし、

おふくろは施設、病院の入退院を繰り返し、

数年患っていなくなってしまった。

後、自分も目を患い、

一時期危険な状態が続いたことがある。

加えて、この数年の間に、友人・知人の死が続いた。

さて、時間に弄ばれていた、

いや、人生というある種の退屈さを味わったあの夏だが、

どうにも自分というものの存在自体に嫌気が差し、

思い切って友人を誘い、

東海汽船で伊豆大島へ渡った。

泊まる所は砂浜と決めていたので、

テント、飯ごうなどのキャンプ用品を詰め込み、

心機一転を狙った。

そして砂だらけになって一週間を過ごした。

飯は自分でつくらなければならない。

誰もつくってくれないので、

いつもメシと飲み水のことばかりを考えていた。

生きてゆくため、毎日が忙しい。

手応えがあった。

あとは適当に浜に寝て、適当に泳ぐ。

そして時々魚を釣ってメシの足しにした。

かなりひどいキャンプ生活だったが、

こんな些細なことで、

その後の自分が大きく変化したのだから、

我ながら不思議だった。

帰える前日の夜、浜にたたずんでずっと海を見ていると、

月に照らされた波間が自分の足元まで届くように、

ポチャンポチャンと心地良い音を立てていた。

久しぶりに生きている気がした。

そして人生ってそうそう悪くもないなと、思い直した。

それから後、パチンコ生活とは一切縁を切った。

好きだった女の子に思い切ってラブレターを書こうと思った。

それが一生懸命過ぎて、散々書き散らした紙くずが、

たちまち山のようになった。

そうしてなんとか付き合い始めた女の子との時間は、

驚くほど早く過ぎていった。

そう、時間は瞬く間に過ぎていったのである。

時の長さと質、その観念について

相対するこの不思議は、

私がいまもって分からないもののひとつである。

もうクルマはつまらない

いつものように運転席に座る。

シートベルトを締める。

そしてイグニッションキーを捻る。

こうして何十年もの間、車を動かしてきた。

エンジンが始動すると、

なんともいえない吹けの音と振動が、体中に伝わる。

そしてマシンを操る自分に緊張を強いるよう、

交感神経もまた目を覚ます。

翻って、

最近のハイブリッド車などはキーを捻るでもなく、

スタートボタンを押すとそれでスタンバイOK。

そしてわずかにキーンと鳴ってスッと走り出す。

まあ、静かといえばその通り。

しかし私的には、正直気味が悪いのだ。

このとんでもない技術革新は産業革命以来か。

新しいものへの飛び付きの遅い自分は、

そうした車を「ほぉ」とか「へぇ」とか感心するも、

実のところ、なんの魅力も感じない。

いま自分の乗っている車は、

あの悪名高きワーゲン社製のゴルフで、

排ガスのCO2量も今となっては実に怪しいほど、

よく吹け上がる。

悪気もなく、よく加速もするのだ。

これはこの時代に於いて、「悪」である。

がしかし、

ここでこんな話をするのは

面白くもなんともないので、

論点を戻そう。

要するにエンジン車の良さって、

そのメカニカル性に寄るものと思うのだ。

車内に伝わるそのエンジン音は、

ドライバーにメカの好・不調の具合、

そして走行速度などを感覚を通して教えてくれる。

いわば生き物の心臓の鼓動のようなものとして、

私は捉えている。

長距離を走り終わった後など、

エンジンルームからの熱気と共に、

荒い息づかいのようなものが伝わる感覚。

車が汗をかいているのではないかと思うほどに、

生き物のそれとよく似ている。

対して、ハイブリッド車などは、

すべてにおいてクールだ。

端的に表現すれば、あくまでモノそのものである訳で、

なんというか人造人間的。

とんと心が動かないのだ。

現在、ハイブリット他電気系駆動の車の性能は相当のもので、

高速道に於いても私の車なんぞ軽く静かに抜き去る性能を誇る。

が、どんなに飛ばしてもなにも熱くはならない、

そのクールさになにか違和感を覚えるのだ。

人馬一体という言葉があるが、

いまやアナログとなってしまったレシプロ(ピストン駆動)車なんぞ、

これに近い感覚。

走りそのものを五感で感じ取ることができる。

ハイブリッド車はこの感覚に欠ける。

それが新しい車の感覚であり、

今後、この新たな車よりの五感というものが、

益々拡がるに違いない。

これはもはや人馬一体ではなく、

カー雑誌などは、これをどのように表現するようになるのか、

そこが興味深い。

しかし自分もいつの日か、

こうした車に慣れなければならないのだろうか?

大袈裟な例えだが、

明治維新も敗戦後も、皆大きな転換を迎え、

物事の価値観もひっくり返った。

このとき、古い者にしがみついている者だけが、

面白くないハメに陥ったようなのだが、

今回のこの話も同様の道を辿るのだろうか?

いまが思案のしどころなのだろう。

だが、希に時代遅れが優勢に立つこともある。

残存利益ということばも実際ある訳で、

近未来の自動運転の先行きも見据え、

たとえば、旧車レシプロエンジン6段マニュアルギアを

操れる運転職人とか…

うーん、希少な人材としての引き合いは、

どうもなさそうだな。

村上春樹がつくった図書館

以前のエントリーでも触れたが、

村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する

札幌のドルフィンホテルだが、

架空のホテルにしてはこのホテルに関する記述が

ディティールまで精細に描かれているので、

一見実在するかのような錯覚に陥る。

まあ、小説なので上手い嘘といえばそうなのだが、

それにしてもリアリティに満ちている。

ストーリー・テラーとしてこの人が優れているのは

先刻承知しているつもりだが、

まあ、想像でつくりあげるその力量には

いまさらながら驚く。

続いて手にした「海辺のカフカ」で登場するのが、

四国は高松にある「甲村記念図書館」である。

15歳の主人公カフカ君が深夜の高速バスに乗り、

この図書館をめざして家出をするのだが、

やはりここでもルポルタージュの如く、

まるで見てきたような時の流れ、

移動途中の風景などが克明に描かれている。

まあ、このあたりは実際に体験すれば描けるだろうが、

問題はその図書館のようすだ。

甲村記念図書館は実在しないが、

その図書館にまつわる歴史的背景、

図書館で働く人の様子、

更に館内とその庭園の記述に至っては、

ほぼ実在するかの如く、

これでもかというほど丁寧に描かれている。

私はまたも実在する図書館として勘違いしてしまった訳で、

続けざまに騙されたことになる。

村上春樹の描く主人公や登場人物は、

ほぼコンサバティブな人間が多い。

ほどほどの人間関係の距離感。

孤独を愛する。

喰うものはサンドイッチやドーナッツが多く、

主人公はだいたいシャワーで丁寧にカラダを洗い、

入念に歯を磨くことを習慣とし、

都会人にふさわしいファッションを身に付けている。

ブランド的にはアイビー系が多い。

で、音楽は彼の好きなジャズ系から60~70年代の

ポップスあたりをよく聴いている。

もちろんビートルズも。

間違っても演歌や民謡は出てこない。

ダンキンドーナツとか、

乗っているクルマがスバルの4WDとか、

やたらと具体的な実在するものの中に、

この作者はポンと架空のものをつくり、

放り込んだりして、

読者をその気にさせ、彼のつくった世界へと誘う。

この人のエッセイなどを読んでいると、

村上春樹という人間は基本的に真面目であり、

走ることに命を賭けているようなので、

私の心配はあたらないが、

一歩間違ってこういう人が詐欺師にでもなったら

恐ろしいなと勝手に思ってしまう。

まあ、だいたいにおいて物書き、

とりわけフィクション系の人というのは

そもそも詐欺師っぽいと私は睨んでいるのだが、

これも才能のなせる技とでもいうべきか?

いわゆる、良い意味での嘘つきは、

読者を裏切らないし、更に感動させてくれるのだから、

世の中は面白くできているなと…

だって優れた小説家に騙されて、

悪い気はしないでしょ!

江ノ島へ

年始めなので、江ノ島の神社へ行きました。

しかし、混み具合が凄かった。

まず、134号線のクルマが渋滞、全然動きません。

それ以前に寒川神社の脇を通ったのですが、

ここも大渋滞です。

で、ナビを頼りに茅ヶ崎を避け、

辻堂から134号線に出たのはいいのですが、

片瀬海岸あたりから江ノ島方面がまた動かない。

適当なパーキングにクルマをとめ、

さあ、歩け歩け大会となりました。

晴天です。

砂浜を歩くと、サクサクと気持ちがいい。

ムカシと較べてサーファーが増えたと感じます。

いま再びブームなのでしょうかね?

いあ

うえ

おか

かき

えのすい(江ノ島水族館)の横を通ると、

ここも超満員です。

オサカナたちに観られているのは、

人間のほうなんでしょうね。

江ノ島への橋を歩いて渡るのは、

小学生のとき以来だと思います。

ここでも人の多さに圧倒されました。

江ノ島は更にどこも人人人で、

サザエを食うのもままならない。

特に神社へと続く参道の混み具合は、

ちょうど休日の原宿のあのぐじゃぐじゃ具合と

似ていると思いました。

江ノ島神社に祀られているのは

弁天様ですが、

商売の神さまとしても崇められている

とのこと。

こさ
すせ

この状況のなかで、

自撮り棒を持ってウロウロしている

バカ女3人グループに遭遇。

人混みでタコせんべいを囓っているポーズなんかを、

余裕で撮っている。

棒が人にぶつかったって全然平気。

凄く太い神経のバカ女3人グループでした。

水平線の向こうに富士が見えます。

陽光うららか。

そして陽が沈む頃、みな海に見入っている。

心が洗われる夕陽でした。

たな

さて今年はどんな年になるのか?

いろいろなニュースに接すると、

ああ今年も波乱の年だなぁと思います。

天災、紛争、経済危機、

いまの時代はなんでも想定しておいてよさそう。

が、どうか良い年でありますよう、

弁天様にお願いしました。

もちろん我が社も我が家も…

にぬ

真夜中の動物園

真冬の晴天のそらのした

きょうは若い親子とカップルが数組か…

柵の向こうからじっとわたしを観察している

わたしもいつものように彼らを観察している

当然どちらも微動だにしないので

しょうがないからといつものように

試しにあくびをしてみると

やはりそこで彼らは笑うのだ

それのなにがオカシイのか

だからよけいに憂鬱になる

来る日も来る日も

ふるさとにおいてきてしまった連れと

幼い子のことが気にかかって

そんなことを長い間想いあぐねるうち

気がつけばこんな年寄りになってしまって

ああ

どうしようもなく悲しいんだ

この動物園には

そんな仲間がおおぜいいて

真夜中になるとみんな嘆いてばかりだから

ため息やすすり泣きが

いっせいにこの寒空に立ちのぼり

そして天高く舞うんだよ

夜中だからって誰も寝ちゃいない

とりわけ晴れた日は太陽の光がまぶしくて

いまじゃみんなおひさまに迷惑していて

そうこうしてるうちに疲れ果て

月日は過ぎてゆき

あきらめそして死んでゆくんだ

なあ

もういい加減に

そっとしておいてくれないか

なあ

人間さまよ