私の場合の死ぬかと思った

その1

学生時代は海ばかり行っていた。

潜ってウニを採る。

こう書くと、どこの海?となるが、

葉山あたりでも、昔はウニが

うじゃうじゃいたのだ。

で、潜りに飽きると、今度は波乗りとなる。

下手なくせに、低気圧がくると聞くと、

みんなで海に出る。

で、ここでとんでもない目に遭った。

大波に挑戦しようと、

パドリングで沖をめざす。

目前に山のようなうねりが近づいた。

これはまず恐怖しかない。

次第に、波の先が白じれて崩れ始める。

このあたりでうまく波に乗らないと、

後が怖い。

が、カラダが立ち上がらない。

必死でバランスを取っているうちに、

波が崩れる。

もうこれは水の壁に襲われるようなもので、

ボードが吹っ飛ぶ。

我がカラダが、

洗濯機の中の洗い物のようになってしまった。

それも横でなく縦水流なので、

息がもたない。

上下の感覚が麻痺する。

必死で海上に顔を出し、荒い呼吸をする。

と、次の波にのまれる。

こんなことを繰り返し、

なんとか浜に辿り着いたとき、

もう二度とこうした遊びはすまいと、

心に誓った。

その2

信州へでかけるため、

中央高速を突っ走っていたときのこと。

冬晴れの気持ちのよい日だった。

談合坂S・Aを過ぎて左車線に寄り、スピードダウン。

のんきに音楽を聴きながら前をみていると、

斜め前方にぼろい長距離トラックが走っている。

積み荷をみて、過重オーバーと思った。

それはタイヤと車体の揺れをみれば分かる。

一時期、トラックドライバーをやっていたので、

そこは敏感に反応する。

嫌な予感。

と、そのトラックの後輪のダブルタイヤのホィールキャップが外れ、

いきなり高速道路上に転がり始めた。

その直径は1㍍くらいだが、当たればダメージは大きい。

こっちは80㌔相当で走行しているのだ。

銀色に光るホィールキャップが、みるみるこちらに迫る。

このままだと激突する。

ハンドルを切ろうとするが、トラックの後方、

即ちこっちのクルマの横に、1台の乗用車が並走している。

高速での急ハンドルは危ない。

もう避ける方法がない。

アクセルを踏むか減速するか一瞬躊躇し、

そのままという決断に至る。

銀色に光るホイールキャップは、

我が愛車の1㍍前あたりを横切って、

ガードレールに激突した。

この光景は、バックミラーで確認したので、

鮮明に覚えている。

あー、怖かった!!

その3

防空ごうというのは、

飛来した戦闘機から身を隠す穴のことだが、

私の幼かった頃の横浜の町には、

こんな穴がいくつも口を空けていた。

いまでは考えられないが、

当時はこうした穴が放置されていて、

子供の格好の遊び場だった。

京浜工業地帯の一角に、或る進学高校があって、

私は、なぜかそのグラウンドで遊んでいた。

海を望む高台のそのグラウンドの端には、

やはり防空ごうがいくつか放置されていて、

私はその穴の中で近所の子と遊んでいた。

で、その防空ごうの入口付近が、突然落盤した。

そのとき、穴の中に私と数人がいた。

なにが起こったのか、分からない。

私は土を被り、しばらく動けないでいた。

少しだけ息ができたが、苦しい。

もがいていると、もう駄目なような気がした。

と、まわりで大人が数人叫んでいる。

土の中の私の手を、誰かが掴んでくれた。

気を失う前に、数人の大人が、

私を引きずり出してくれた。

防空ごうの中の他の子は、みな大丈夫だった。

以来、私は閉所恐怖症だ。

その4

大学時代、スキー合宿とかなんとか名称をつけ、

みんなで長野の野沢にでかけた。

ただの仲良しサークルだったが、遊びにかけては、

皆抜きんでているグループだった。

当時はスキー全盛の時代で、

金のない私も、一応スキー道具を揃えた。

初心者は私だけだったが、

2日目頃から滑れるようになり、

中級コースでもなんとか滑れるようになった。

それまで、スケートとかサーフィンとかをやっていたので、

上達も早いと皆に言われた。

そこで、調子に乗ってしまうのが私の悪いところで、

帰る頃はすでにベテラン気取り。

遅いスキーヤーをひょいと抜いてゆく。

これは快感だった。

混んでいる林道コースでも、

並み居るスキーヤーを次々に抜いているうちに、

スピードの制御が効かなくなった。

林道コースは細いので、カーブで大きくはみ出た私は、

次の瞬間、コースの下に転落し、

雪の崖にストックを立てて、必死にしがみついていた。

これには皆驚いて、

というか、馬鹿な奴もいるもんだという顔で見下ろされた。

助けてもらうまでの時間のなんと長いことか。

よくよく下を見ると、足元の崖下から途中が急な勾配に変わり、

あそこまで落ちていたらと思うと、

ホント、ゾッとした。

その5

小学校時代は、工場地帯でよく遊んでいた。

工場の空き地は、どこも塀で囲まれていて、

私もそこで、よく鉄くずを拾っていた。

その日は、晴れた日だったが、

突然空が暗くなり、風が吹き出した。

雨もぱらついてきた。

空き地は、3方がトタンの塀で囲まれ、

奥まったところにいた私が帰ろうと思って振り返ると、

入口付近で風が埃を舞上げて、渦を巻いている。

それがだんだん大きくなり、2階ほどの高さになると、

今度は近くに転がっていたブリキのトタンを巻き込んだ。

すると、高く舞い上がったトタンがつむじ風に乗って、

どんどんこちらに近づいてくる。

逃げ場を失った私たちは塀に張り付くようにして、

そのトタンに恐怖した。

トタンの切り口は鋭い。

あれは、刃物と変わらないのだ。

と、ここまで書いてうんざりしてしまった。

こうした話はまだあるのだが、

なんだか言い知れ感情が噴き出し、

体調まで悪くなってきたので、

ここらでやめることにしました。

スイマセンネ

しゃばいとはなにか?

最近、しゃばい、ということばを

幾度か聞いた。

いや、ネットで見たのかな?

とにかくこのしゃばいという響きが気になった。

あたまにこびりついて、離れない。

一体、しゃばいとはなんだろ?

いくら考えても、意味が分からない。

やばい、ではなく、しゃばい。

しょぼい、ではなく、しゃばい。

うーん、しまいには仕事に支障をきたしてきたので、

これは調べるしかない。

ということで、しゃばいを追いかけた。

しゃばいは、ある意味やばいの変形だという。

しゃばいはまた、しょぼいの変形ともいう。

それは、地域や時により、記憶されている。

また、しゃばいは、

水っぽいものを表現するときに使われる。

薄い味も、しゃばいと言うらしい。

「このカレー、しゃばいな」なんて言うとき、

汁が多すぎることを指す。

しゃばしゃばだな、という表現は、割と多く使われると言う。

また、「このカレー、しゃばいな」は、

味が薄すぎるときにも使われるようだ。

しゃばしゃばカレーは、要するにこってりはしていないのだ。

うーん、しゃばいは、意味深だ。

一方、しゃばいは、九州の方言だという説がある。

福岡の或る男性は、つまらない奴とか面白くないないものに対し、

しゃばいと言うことばを使うと記している。

が、しゃばいということばをよく発する茨城出身の方は、

やはり水っぽい味に対してよくしゃばいを使っているが、

いままで誰一人分かってくれなかったという。

が、しゃばいは、昔の不良が使っていたことばだとする説もある。

娑婆(牢屋の外)の人は度胸がないので、そうした振る舞いに対して、

しゃばいという表現で蔑んだとする説。

また、お金にケチな奴を指して、しゃばい奴とか、

そんな使い方もあるらしい。

とまあ、しゃばいカレーは私も好きなので、その表現を除くと、

しゃばいは、少なくとも褒め言葉ではないことが理解できる。

一般に良くないもの、良くない状態をしゃばいと表現するところは、

ほぼ一致している。

しゃばいがだんだん見えてきた。

で、いま思い出したが、昔の深夜テレビ番組で

「しゃばしゃばしゃばしゃば…」って色っぽく唄っていたのは、

11PMだ。

11PMといえば、大橋巨泉。

彼ははっぱふみふみという意味不明のことばを発明した人なので、

しゃばしゃばもしゃばいも、ひょっとしたら彼の仕業か?

こうして考えてみると、しゃばいということばは、

割と広範囲で使われているような気がしてきた。

私だけが知らないだけなのか。

コピーライターとして、おっくれてるなー。

とにかく、私も今日からこのしゃばいを多用しよう。

例えば、

しゃばい時間に、この一杯  (ネスカフェ) とか

しゃばしゃばの、新しいこくまろ  (ハウス) 

っていうのはどうだろう?

しかし、このブログに書いていることってしゃばいなーと、

いま気がついたので、そろそろ終わりにしますね。

ヘロン(青鷺)2

相変わらず、風の冷たい日が続く2月某日。

「それにしても青サギのことが気になるなぁ」

という訳で、やはりというべきか、

カメラを手に、例の場所へ。

河川敷を歩きながら、キョロキョロする。

水田跡に目を配るが、

一見保護色にも見える青サギは、

やはり遠方よりの視認では無理。

反対側の川岸へ近づくため、

河川を上流へ上り、一つ目の橋をめざす。

その地点から見渡せるどこかに、

青サギはいるハズだった。

が、いくら目を凝らしてもその姿がない。

荒涼とした水田跡に、ムクドリが数羽固まっているだけ。

あきらめて水辺を覗くと、

珍しく白っぽい鯉が泳いでいる。

河川沿いの枯れた木々が寒々としている。

がよくみると、

なんとそのなかの大きな枯れた木に、

孤高の如く青サギは佇んでいたのだ。

ニコン 1 244

こうなると、

さらに他のショットが欲しくなる。

立ち姿や餌をついばむシーン、

いや、羽ばたく瞬間も撮りたいなぁ。

そんな訳で後日でかけてみると、

あの孤高の勇姿が、河川敷の横の池にいた。

カメラを構えていると、

なんと、後方からもう一羽の白鷺が舞い降りた。

そして、二羽で餌をついばんでいるではないか。

ニコン 1 264

ニコン 1 272

それは、立ち姿の美しい二羽だった。

平和そうにみえる。

そこにはもう、孤高の気高さはない。

きっとそれは、

こちらが勝手につくりあげた幻想だった。

ニコン 1 285

「いま」という時代の広告表現

ツィッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索の世界である。

で、検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

企画・制作者として売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現する一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に納得したりして、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となっている。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要はビジネスなので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか、怪しい。

いまのネット広告は、感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

走るおっさん

最近はジョギングブームなので、老いも若きも走っている。

私も近くの運動公園へちょくちょく行くが、

ホントにみんな元気に走っている。

で、私の場合は歩くのみ。

それだけ。

たまに、ちょっとまねごとで走ってみるが、

慣れていないから、これが辛い。

ハァハアとすぐ息が上がってしまう。

「みんな凄いなぁ」

私がぼぉっとして歩いていると、

いつものように、横をスッと走り抜けるおっさんがいる。

いつもみかけるこの方、痩せ形ですらっとした体型で、

みたところ、年はかなりいっている。

定年も迎え、ジョギングに没頭しました、という感じ。

真冬だというのに、薄い紺のウインドブレーカーのみで疾走。

で、いつも息なんか全然乱れていないのがこのおっさんの特徴なのだ。

思えば、彼を初めて見かけたのは、いまから2年前になる。

夏のクソ暑い日の午後、景色もとろけそうななか、

私が冷えた缶コーヒーを飲みながら日陰で涼んでいると、

誰も走っていない公園の外周コースを汗だくで黙々と走っているのが、

このおっさんだった。

以来、会う度、彼は常に走っているのだ。

そのなんというか、情熱っていうのかな?

このおっさんのひたむきさは例えば修行僧のようでもあり、

マラソン大会を控えた体育会系の学生のようでもあり、

さらにいえば、

この「おっさん」といういきものが、

本能のままに走っているようにも思えるのだ。

私は、この方が他の人と談笑したりゴロンとしていたり、

ドリンクを飲んでいたりするのを一度もみたことがない。

おおげさだが、おっさんは常に走っているのだ。

とまらない。

で、24時間走り、365日走っている妄想が、

もう私のアタマで固まってしまった。

時々、表情をちらっと覗くのだが、これが分からない。

楽しそうという感じではなく、そうかといっ辛い感じもない。

強いて挙げれば、無表情という表情をちらつかせる。

で、或る日このおっさんはなぜこんなにいつも走っているのかを、

私は無意識に考えていた。

子育てもとっくに終わったろうし、

家では長年連れ添った奥さんが?

いや、ひょっとすると先立たれたのかな、とか…

で、いまは独り暮らし。

趣味もこれといってつくる暇がなかったんだよな。

現役の頃は、中堅の工場の現場で部長職を努めていたが、

いまはそのつきあいもなくなり、近所づきあいもなく、

やることといったら3度の食事と寝ること以外になし。

おっと、テレビは大好きだっだ。

なので、テレビショッピングの商品にも蘊蓄を傾ける。

で、このおっさんが或る日テレビを観ていると、

「頑張れ!中年」みたいな番組をやっていて、

その日はジョギング特集だった。

「家のなかでいつもゴロゴロしていては健康に長生きできませんよ」

とかいうフレーズにちょっと心を動かされ、

これなら俺にもできるかな、と…

ちょっと走ってみようかな、と。

で、このおっさん、情熱の冷めない翌日に、

即イオンのスポーツ用品売り場にでかけ、

店員さんのいわれるままにジョギング用品を買い揃えました。

で、ここからおっさんの伝説が始まった…

以上は私の妄想なのですが、どうもこれ以外に出てこないんだよな。

クリエィテイブなストーリーが全然出てこない訳。

これには、さらに続きがあって、

人は走り始めると止まらない、という仮説も考えてみた。

いきものはみな、

一端走るのをやめてしまうと死んでしまうという恐怖に取り憑かれるのではないか、

という、もう仮説ではなく、また妄想ですね。

これはマグロなんかもそうだが、泳いでいる限り生きている、

生きていられる、という本能が芽生えてしまった例として考えた。

で、たどり着いた結論が、

このおっさんは走っている限り死なないと信じている、ということ。

裏を返せば、走るのをやめると死が待っている、ということ。

エンドルフィンという心地よくなる脳内物質が、

ランニングハイのときに放出されるというので、

この説も一時考えたが、

このおっさんをイメージする限り、私はこの説を自ら一蹴した。

だって、

もっとどろんとした湖底に沈む妖気のようなものを感じる訳。

今日もあのおっさんは、あの運動公園で走っているのかな?

というか、どうか走っていてくださいよ!

でないと、怖い!

ヘロン(青鷺)

丹沢山塊の頭が、うっすらと白く化粧している。

2月の風の強い日に、

僕は空に吹き飛んだ白い雲のちぎれを見に、

視野の広がる場所を探して、クルマを動かしていた。

国道を逸れ、細く急な坂道を下ると、

里山を臨む河川沿いに出る。

そこは駐車場が整備され、数台のクルマがとまっていた。

河原の土手の道を、中年のマラソンランナーがのんびり通り過ぎる。

近所の農家のおばさんたちが、駐車場の先の公園で談笑している。

快晴。

きれぎれの雲はもう東へと流れて、

真冬の日射しだけが、吹く風を通り抜け、

あたりの景色を明るく照らす。

ほぼ、空全体が見渡せるほどの広大な河川敷に立つと、

空を遮るものは、遠方の丹沢の連なりだけとなる。

枯れた色の田園の向こうにこんもりした丘があって、

鳥居が傾いて立っている。

その後方に控えた里山の麓には、ぽつぽつ民家が並び、

模型のような絵柄が僕はとても気にいった。

川沿いを歩きながら水を覗くと、

大きな鯉がゆったりと泳いでいる。

上流に向かって歩くと、カモの家族だろうか?

小ガモも混じって行列をつくり、みな同じ動作で

川を下ってゆく。

と、頭上に大きな影が現れ、

影は水面に沿って上流へと羽ばたいた。

その大きな鳥は悠然と羽をひろげ、

幅は優に2㍍を超えているようにみえる。

足を早め、鳥の舞い降りる水田跡へと走った。

薄青いその勇姿は、舞い降りた途端、微動だにせず、

直立して首をもたげたまま、

山並みをみつめているようにみえる。

空の白いちぎれは、もうとっくに東に流れていて、

寒風のなかの太陽がぎらつく。

そのきりっとした勇姿にみとれた僕は、少しづつ間合いを詰める。

大鳥は依然、首すら動かさず、山の方に向いている。

あぜ道を降りて僕は更に距離を詰め、カメラを構える。

そのとき、勇姿は一切こちらを振り向きもせずに、

ふわぁっと大空に舞い上がった。

翼に陽が一瞬反射し、僕は目を細めた。

次の瞬間、翼はより大きくなり、

それは西洋の紋章のマークのような美しさを描いて羽を広げ、

ゆっくりと里山の方へと羽ばたいていった。

その姿を見たのは、僕だけだったように思う。

帰ってネットで調べると、

どうも青サギという鳥に似ている。

あれから数回、カメラを手にその河川敷へ出かけている。

しかし、あの勇姿には、いまだ出会えてはいない。

くよくよするな!

成長するということ

妙な宗教の教えに縛られたり

下らない教義で自分を高めようなどと考えないで欲しい。

まずは誰かにキチッと挨拶でもしてみること。

できれば、笑顔でね。

これを習慣づける…

それからだよ。

若き悩みの解決法

考えるのをやめようなどと、

人間の不可能と戦うのはやめにしよう。

考え、考え、考え倦ねたら、

外に出る。

とにかく出るんだよ。

そして歩いて歩いて歩くのがいい。

汗をかくまでね。

そう、夜はやさしく君を包むだろう。

ひとりの効用

たまには、テレビを消すことをオススメする。

そして独りの時間をつくる。

できれば長く永く。

そう、いろいろアタマに浮かんでくるだろう?

それが良いことだろうと嫌なことだろうと、

ゆっくり思考の海に浮かべてみる。

答えはそうしてみつけるもの。

自分を生きる

人生は不公平にできている。

それも、とびっきりにね。

でも、君は誰といつ何を較べたの?

その誰かのすべてを君はホントに知っているのかな?

ひょっとして、

その物差しは、いい加減なゴムでできているんじゃない?

のびきっているのさ…

そう思って、自分だけの人生を生きる。

それって、賢いことなんだけれど…

正しいことよりも…

正しいか間違っているかなんて、

実はどうでもいいことなんだ。

結果、それを勝ち誇ったところで、

きっといつかむなしくなる。

そんなもんさ…

大事なのは、そのとき相手を思いやったか?

その一点じゃないかなぁ。

自己肯定

なにをやっても満足できない。

果てはこれで良かったのかと常に思い悩む。

それって、君の完全主義?

いや、自己否定。

だけどね、時間はいまさら戻らないよ。

いまやるべきことを、精一杯やる。

それだけだよ。

それが最善ということ。

大切なのは、まず自分を肯定してあげる。

認めてあげることなんだ。

不審な訪問者

まあ、自分を客観的に眺めて、割と不審人物の気配が漂っている、と思う。

が、中身はそんなに不審なことは考えてはいない。

たまに、なま暖かい風なんかが吹くと不審なことを考えるが、

そうそう実行に移したりしないのが、おとなというものである。

平日の午後、メシも食ったし、日射しなんかを浴びていると、

眠くなるのだ。で、うとうとしていたりすると、

不意に玄関のチャイムが鳴る訳。

以下の話は、私が奥さんから聞いた体験談を基に、
テキトーにでっち上げた話です。

●不審な訪問者 その1

「どなたですか?」

「あっ、どうも! にしかわです」

「えっ、にしかわ? どちらのにしかわさんですか?」

「にしかわです」

「だから、すいませんがどちらのにしかわさんですか?」

「ふとんの西川です」

ガチャ!

●不審な訪問者 その2

「近くで工事をしている者なんですけれど、ご挨拶にきました。

玄関までお願いします!」

「あっ、そうですか。チラシかなにかですか?」

「いえ、ご挨拶ですので、玄関までお願いします」

「お話はなんですか?」

「いや、玄関まで来ていただかないと」

「だから、なんのお話ですか!」

「チラシをお配りしているんですけれどね」

ガチャ!

●不審な訪問者 その3

「あっ、どうも! あの、通りがかりの者なんですが、

お宅の屋根、めくれていますね?」

「はあ?」

「だから、お宅の屋根が傷んでいると言っているんです」

「それは、ご親切にありがとうございます」

「屋根にあがって見ましょうか?」

ガチャ!

●不審な訪問者 その4

「○○さんのお宅ですよね?」

「はい、そうですが…」

「やっとみつかりました。お宅の家が」

「はあ…」

「いやぁ、あのですね、お宅の床下換気扇に発火の恐れがありまして、

で、こうやって調査をしている次第です。はあはあ」

「ホントですか?」

「もちろん、これは調査に基づいた訪問ですので」

「あっ、はい。で、どうすればよろしいのですか?」

「交換ですね」

「えっ、そうですか。…
…失礼ですが、おいくらかかるのでしょうか?」

「そうですね、30万くらいみていただければ大丈夫です」

ガチャ!

●不審な訪問者 その5

「奥さん、りんご買ってくれんかねー!」

ガチャ!

●不審な訪問者 その6

「となり町に住んでおります○○と申します」

「はい」

「最近、子供たちがとても荒れております。

そのことについて少しお話したいと思いまして…」

「いや、○○さんですか? ちょっといま忙しくてですね」

「あっそうですか。では、失礼ですが、お宅さまはキリストについてですね

どう思っていらっしゃるのか…」

ガチャ!

●不審な訪問者 その7

「あのですね、この辺りの担当をしています○○の佐藤と申します。

いま、光回線の調査をしているのですが、お宅の光回線と××の光を比べてみた結果、

××の会社の回線が圧倒的に安いことが判明しました」

「そうですか、それは主人がよく存じていますので、いまはいいです」

ガチャ!

(再びピンポーンとチャイムが鳴り続けるので、やむを得なくインターホンに出ると…)

「いいじゃありませんよ! 奥さん!どういうことですか!」

再び、ガチャ!

↑の件に関しては、後日私がいたときに同じ奴が来たので、二度と来れないよう話をつけました!

繁盛するサイトをざっくり考える

●看板は重要

反応率の高いサイト、よく売れるECサイトというのは、

トップページにおいて、まず見やすい、一目で内容が分かることが

なにより優先順位の第一となります。

なにをやっている会社なのか、ひと言でいうとどういうお店なのかを

ズバッと語っている、またはデザインで見せている。

これに尽きます。

特に、看板は大事。

●写真にひと工夫を

ここでは、キャッチフレーズとビジュアルのコンビネーションは欠かせません。

当たり前だけどね。

で、写真などは、皆さんあまり難しく考えずに載せることもあるとあるとは思います。

が、訪問者はその写真を、実に真剣にチェックしています。

新鮮さをアピールしたければ、そのように。おいしさを見せたければ、そのように。

また、人柄を伝えたければ、そのように撮らなければならない。

ここはひとつお金とアタマを使いましょう。

●直帰率を下げる

また、デザインに関しては、センスは良いに超したことはありません。

業種によっては素人っぽいサイトに人が集まる、というデータもあるようですが、

センスが問われる業種は、やはりデザインに力をいれなければ、お客さんは帰ってしまいます。

トップページで、直帰率を下げる。

これはもう至上命令のようなもので、サイト内で引き続き滞在してもらうことは

コンバージョンへの第一歩といえます。

次を見てもらう、また興味がもてるサイトというのは、

以上のようなエレメントが欠かせません。

●特長を具体的に伝える

例えば歯医者さんなら、どんな先生がどんな技術とサービスであなたに治療をしてくれるのか?

そこをズバッと語りたいものです。

無痛治療をしてくれる、とか、噛み合わせについてのオーソリティーであるとか…

そのような特長付けは、訪問者の興味をそそります。

上述のどんな先生が、というのは、やはり顔写真は載せたほうが良い結果が得られる。

これは、実証済みなので、後は実行あるのみです。

だいたい、歯医者なんて星の数ほどあるので、選ぶ方も大変です。

口コミサイトもアテにならない。

とすれば、ここはしっかり語る必要がある。

で、細かいことを言えば、院内は清潔第一であるとか、駐車場が広いとか、駅近であるとか、

そうしたメリットを、ひとつひとつ、しっかり語ること。

歯医者さんの場合は、実際に通うので、マップもしっかり載せたい。

この場合は、絵地図などの個性的かつ面倒なものは省いて、グーグルマップ。

これで良いのです。

●サイトコストと売り上げは比例する?

こうした積み重ねが繁盛サイトを生むのですが、本気で制作するとなると、

実はかなり面倒くさいもの。

時間もコストもかかります。

いま、こうした手間をかけない、いわゆる見積もりで安いサイトが幅を利かせています。

これはハッキリ言って間違い。

●検索順位を上げる

繁盛するサイトというのは、当然ながら、或るキーワードに於いて、

上位に位置しているものなのです。

検索順位でも優位に立っている。

でないと、まずお客さんは訪れません。

例えば、おいしい産直の魚が食べたい。

そんな思いで 産地直送 マグロ というキーワードで

検索する。

と、誰でも検索の1ページから見ますね?

で、慎重な方とか丁寧にみる方でも、だいたい3ページまでが限界でしょう。

だって、疲れますからね。

で、ここで大事なことは、やはりキーワードの選定と、

それに伴う検索順位を上げる技術が必要になる、ということ。

●内容の薄いサイトは検索順位も下がる

ここを説明するのはかなり大変なので、ざっくり話すと、

まず、ぺらぺらなサイトなどはつくらないこと。

いまどき、薄っぺらなサイトは、内容も希薄。

いくらテキストを詰め込んだところで、検索エンジンには見向きもされません。

制作コストを下げると、売り上げも落ちる。

事実、こうした話はよく聞く話ではあります。

語ること、伝えたいことをしっかりメモし、

それを各カテゴリー毎に分けて、サイトの設計を考える。

この作業は言い換えれば、

訪問者にとっても親切なサイトをつくることと同じ結果となるので、

よくできたサイトというのは、検索順位も自然と上がることとなります。

●検索エンジンの特徴

現在、検索エンジンというのは、そのサイトへ訪れる人の滞在時間などもチェックし、

そうしたデータをも蓄積しています。

それを元に、検索順位など、結果が反映されるので、

やはり良いサイト、為になるサイトづくりは、必須といえましょう。

ざっくり話しても、以上のようにかなり面倒な話になるのですが、

これが現在の繁盛サイトのアウトラインです。

ノンアルコールビールという市場

ノンアルコールビールが登場したとき、果たしてこんなものが売れるのか?
こうした予想は誰もがしていたように思う。

パチモン、偽物。

当初はネガティブなイメージがつきまとっていた。
が、意外にも、ノンアルコールビールは、欧米では古くからあった。
アメリカの禁酒法とか宗教上酒を飲まないアラビア諸国への輸出とか。

そうした需要だから、やはりメジャーな商品にはなり得ないし、少しづつ廃れていく。

しかし、日本におけるノンアルコールビールのポジションは、
そうしたネガティブを次第に払拭しつつある。

メーカーとしては、それなりの調査に基づいたうえでの決断なので、
売る自信があったのは当然のことと思う。
が、英断には違いない。
冒険的マーケティングという用語があるのだろうか?

私の酒飲みの友人は、この飲み物を邪道と斬り捨てる。
が、或るときからアルコールを止めた私としては、
ノンアルコールビールは、気になる存在だった。

そもそも、アルコールを止めた一端が、自宅が駅から離れていて、
クルマが手放せなかったのが一因であり、
深夜のタクシーのバカ高さに呆れたことに始まる。
重ねてその頃、アルコールを飲むと鼻が詰まって苦しくなる症状を発症、
自然と飲む気が失せていった。

以来、酒は止め、あれ程足繁く通った酒場へも、
ピタリと行かなくなってしまった。

が、性分は変わらなかった。
或るときから、酒場に未練が出てきた。
やはり、あの雰囲気が落ちつくことが分かった。
それが大衆の焼き鳥屋だろうと気取ったバーだろうと、
どこでもOKということも確認。
最近はよく、食事の際に、ちょっと立ち寄るようになった。

ドリンクは当然ノンアルコールビールとなる。

私的には、タイムリーな飲み物であり、味も遜色ない。
酔えると言ったら嘘になるが、それに近い気分を味わえる。

ノンアルコールビールは、そのポジションが微妙な位置にあり、
性急に考えると、ネガティブまたは不要のものと考え勝ちだ。
が、よくよく考えると、そこに商機はあったのだ。

そのキメの細かいマーケティングは、
私たち日本人にしか発想し得ないものとも思える。

例えば、お酒の飲めない人たちに、飲むというスタイルとマインドを味わってもらう。
また、お酒を飲まなければならないシーンで、飲めない人がそれなりに飲めるもの。

かようにこの商品は、場とシーンで、
そこにどんな商品があるとみんなハッピーか、から発想されている。

パイは多くはないが、その市場は確実に存在する。
そこに、新しいライフスタイルも垣間見える。

そこを掘り当てたのが、日本のノンアルコールビールという商品なのかも知れない。
冒険的マーケティングの勝利だ。