梅ちゃん先生の違和感

NHKの朝ドラを観るのが習慣になっているが、

梅ちゃん先生は、どうもあっちこっちひっかかるな。

妙に平和で安定した筋書きは、まあそうかなとも思うが、

この先も事の流れは読めそうな気がしてくるから、

安心して観れるといえばその通り。

が、なんだかひと味足りない。

このままだと梅ちゃん先生がどんだけ良い人で、

その上、如何に周囲の人の役に立ったかで終わりそうな気がする。

だとすると、全く印象に残らない梅ちゃんだな?

梅ちゃんは、元々アタマもイマイチでおっとりしている性格、という設定だ。

が、彼女の凄いところは、医大へまぐれで入学できたところから始まる。

まぐれなのに運良く卒業してしまうから、ただのウスラではない。

就職も、親父のコネも使わず、帝大付属病院の面接で、

この大学病院の定食が美味いという発言がきっかけで就職できてしまう。

これには私、正直驚きました!

梅ちゃんは、その日本一の帝大付属病院で働くうち、

自分の街の下々の人を見るにつけ、黙っていられなくなる。

主人公の正義感は半端ない。

で、なんと独立を決意し、この人たちのために医院を開業してしまう。

梅ちゃんは度胸もある、まっすぐな性格です。

開業資金ですか?

まあ、新築した自宅の隣の敷地に以前住んでいた小屋が残っていたので、

そこを改装して新規オープン!

しかし、そんな土地ありましたっけ? 古屋、残っていたんですね。

こうしたストーリーって連ドラによくありがち。

朝のひとときには微笑ましい。

が、私のなかの違和感は日に日に膨れあがっている。

それは、

一人の女性が生き抜いたというリアリティの欠如なのかも知れないし、

ほのぼのしたこのドラマの味を大切にする余り、

ただのお伽噺にはなっていないだろうかという点だ。

少なくとも、先のゲゲゲの女房やカーネーションに較べて

ワクワクドキドキ感は失せ、

フィクションなので致し方ないが、

人物とストーリーの描き方が平坦すぎる気がする。

自分はさておき、まわりの幸せを第一に考える、

明るくて一途な主人公は梅ちゃんこと、堀北真希。

絵に描いたように分かり安い頑固な親父は、

演技していますとでも言うように、高橋克実が演じる。

また、なんでも「はいはい」と言って微笑んでいる南果歩演じる奥さん。

この人の正体が私はよく分からないのだが、

義母(倍賞美津子)とのコンビで、

割と軽薄な性格付けに終始しているのが違和感。

このドラマは、いわば水戸黄門のような安定感を狙っているのかも知れないし、

戦後風景のなかで、さざえさんのような微笑ましさが欲しかったのかも知れない。

それはしかしときに、

スマップでも観ているかのような見え透いたエンタメ感に終わってしまう危うさもある。

作者は、相手がNHKということで、ホームランは敢えて狙わず、バントに固執し、

必ず点を取る作戦に出た模様とも思えるのだが、こうした冒険のなさが逆に作用し、

ストーリーのあちこちに歪みを生んでしまったようだ。

また、初頭だったと思うが、

戦後の廃墟のなかを米軍がジープで表れ、汚い子供たちが

「ギブミーチョコレート」というシーンがあった。

これは、分かりやすいといえばそうだろうし、

そうしたシーンは日本の敗戦の伝説風景にもなっている。

いわばひとつの記号なので、誰もが理解できるように使われたのかも知れないが、

こんなシーンをよく使ったものだと、今更ながらNHKの感性を疑う。

つくり手は、こうして物語をスタートさせ、

戦後の日本はどんどん良くなり、女性の生きる場が増えたとでも言いたいのでしょうか?

私は、このシーンに関して、

この国の人間としてのプライドはないのかと、つくり手に問いたいのですが…

梅ちゃんは、今日もこれからも日毎に偉くなっていくし、

主人公役の堀北真希の人気もうなぎのぼりの現在、

私はただのひねくれた感想を書いているに違いないが、

こんな平和な話がいまの私たちに残すものは、

果たして安心・平和なのか?

この時代だからこその梅ちゃん先生なのか、

こんな時代に梅ちゃん先生なのかよ、なのか、

毎朝そこを計りかねている私は、

やはりただの変わり者なのかな。

生きているということ

生きているということ

それは

せせらぎの如し

天馬のように駆けること

雫に似て瑞々しく

湧き上がる雲と

のびやかな勢い

石のように踏まれ

削られても

このひと魂

天空にあり

生きているということ

それは想い馳せ

考え倦ね

更に悩み深くも

その体躯で知ること

知るも分からず

帰るも還えらず

共に可笑しく

氷のように凍てつくも

このひと魂

天空にあり

前へ

前へと

生きているということ

生きているということ

ノンアルコールビールという市場

広告&メデイアから離れ、今日は商品企画の話から。

ノンアルコールビールが登場したとき、果たしてこんなものが売れるのか?
こうした予想は誰もがしていたように思う。

パチモン、偽物。

当初はネガティブなイメージがつきまとっていた。
が、意外にも、ノンアルコールビールは、欧米では古くからあった。
アメリカの禁酒法とか宗教上酒を飲まないアラビア諸国への輸出とか。

そうした需要だから、やはりメジャーな商品にはなり得ないし、少しづつ廃れていく。

しかし、日本におけるノンアルコールビールのポジションは、
そうしたネガティブを次第に払拭しつつある。

メーカーとしては、それなりの調査に基づいたうえでの決断なので、
売る自信があったのは当然のことと思う。
が、英断には違いない。
冒険的マーケティングという用語があるのだろうか?

私の酒飲みの友人は、この飲み物を邪道と斬り捨てる。
が、或るときからアルコールを止めた私としては、
ノンアルコールビールは、気になる存在だった。

そもそも、アルコールを止めた一端が、自宅が駅から離れていて、
クルマが手放せなかったのが一因であり、
深夜のタクシーのバカ高さに呆れたことに始まる。
重ねてその頃、アルコールを飲むと鼻が詰まって苦しくなる症状を発症、
自然と飲む気が失せていった。

以来、酒は止め、あれ程足繁く通った酒場へも、
ピタリと行かなくなってしまった。

が、性分は変わらなかった。
或るときから、酒場に未練が出てきた。
やはり、あの雰囲気が落ちつくことが分かった。
それが大衆の焼き鳥屋だろうと気取ったバーだろうと、
どこでもOKということも確認。
最近はよく、食事の際に、ちょっと立ち寄るようになった。

ドリンクは当然ノンアルコールビールとなる。

私的には、タイムリーな飲み物であり、味も遜色ない。
酔えると言ったら嘘になるが、それに近い気分を味わえる。

ノンアルコールビールは、そのポジションが微妙な位置にあり、
性急に考えると、ネガティブまたは不要のものと考え勝ちだ。
が、よくよく考えると、そこに商機はあったのだ。

そのキメの細かいマーケティングは、
私たち日本人にしか発想し得ないものとも思える。

例えば、お酒の飲めない人たちに、飲むというスタイルとマインドを味わってもらう。
また、お酒を飲まなければならないシーンで、飲めない人がそれなりに飲めるもの。

かようにこの商品は、場とシーンで、
そこにどんな商品があるとみんなハッピーか、から発想されている。

パイは多くはないが、その市場は確実に存在する。
そこに、新しいライフスタイルも垣間見える。

そこを掘り当てたのが、日本のノンアルコールビールという商品なのかも知れない。
冒険的マーケティングの勝利だ。

スパンキーの時事放談

大飯原発再稼働に反対するデモは、

なぜテレビでは一切やらないのだろうか?

小林幸子ばかりを追いかけている場合ではないのです。

原発の是非は後にしても、まず報道すること。

議論を深めるきっかけって大事だと思います。

メディアってホントに信用ならない。

意図的な無視、見て見ぬふりは、犯罪と同等だ。

これは見過ごせない。

ツィッター、ユーストリーム。

この辺りでチェックいれると分かります。

飛行機とヘリコプターが合体したような

米軍のオスプレイ。

以前より事故率が高いことで有名だった。

が、オスプレイが今度、沖縄に配備されるという。

酷いとは思いませんか?

そもそも構造的な欠陥があるともいわれており、

なぜいま沖縄へ?

首を捻るばかりです。

1977年に米軍機が横浜で墜落したとき、

私の家は、墜落した地点と数㌔しか離れていませんでした。

現在も、厚木基地周辺には所用で出掛けますが、

あの爆音ときらりと光る機体には、

嫌悪を覚えます。

消費税法案が可決された。

野田という人は一見ダチョウ倶楽部の上島竜平に似ているが、

表情をみると、笑えません。

この人を観察していると、なにかに取り憑かれたように、

可決までの道程は強引だった。

まあ、社会福祉という観点で考えれば、

老人が増え続け、働き手が減っているこの国に必要な税とは思うが、

先にやらなければならない行政改革はどうしたのか?

で、誰もが避けて通る公務員改革。

化け物組織をいじくるのは、政治家にとって鬼門だ。

私は以前、或る公益法人のコンサルをしていたが、

これとて同じようなもの。

ひとつ新しいことをやろうとすると、

足をすくわれ、策に引っ掛けられ…

彼らの企みは、そのおとなしい外見からは想像もつかない程に、

次々に巧みな手を打ってきます。

まさに、

羊の皮を被ったオオカミでして…

日本の近海から、続々と天然資源が見つかっている。

まず、新潟県沖からメタンハイドレードという

油田が見つかった。

面積では、海外の大油田に匹敵する規模という。

また、日本の最東端にある南鳥島周辺の海底で、

いま話題のレアアースが見つかった。

レアアースといえば、現在は中国が独占し、

世界市場を操っているが、この貴重なものが

日本でも採れることとなる。

このままいけば、日本は資源大国だ。

私たちにしてみれば、信じられない認識の転換となる。

で思うのは、資源のある国は狙われる、ということ。

過去を振り返っても、戦争と資源が絡んでいる例は多い。

アメリカ、中国、ロシアーーー

こうした大国が、指をくわえて黙ってみていると思います?

そういう意味で、この国は新たな火種を抱えました。

これを危機と考えるのは、ひねくれ者の発想でしょうかね。

親父の誕生日

今日は死んだ親父の誕生日だ。

蟹座のB型ーーー

これが何を意味するのか分からないが、

私のアタマにインプットされている親父のデータだ。

元帝国陸軍上等兵ーーー

生き残ってくれてありがとうと親父に感謝したい。

公務員として一家を支えてくれた。

思えば、人と馴染まないクセに、人一倍集団のなかで

生きていたように思う。

思い出すと、60代の親父の姿が浮かぶ。

いや、40代か。

白いシャツに太い綿の作業ズボン。

腰に手ぬぐいをぶら下げている。

笑っているが、喋らない。

サツキの盆栽の手入れをしている。

元々喋らない人だった。

いや、死んだ人は喋らないものだ。

でも、

笑っている親父が、サツキの手入れをしている。

私の手帳には、親父の遺言のようなものが挟まっていて、

たまに見る。

書道の師範免許をもっていたので字にはうるさかったが、

私が手にしている手紙は、誤字が多い。

晩年に書いた、その衰えがみてとれる。

この手紙を書いた1年後に死んでしまったが、

親父は、自分が建てた最後の家を、お袋の或る事情で

手放さなければならないことに、未練を残していた。

そして、生涯のなかで唯一、

お袋のことを真剣に思いやった時期でもあった。

先日、姉とお袋が住むマンションから、親父のメモがみつかった。

親父がお袋に宛てた手紙だ。

生まれ変わってもお袋と結婚したい、とあった。

お袋を定期的に病院へ連れて行くが、

お袋は一度、

「あの人」という呼称で親父の話をしていて、

遠い知り合いの話でもするかのようだった。

思えば、親父はずっと外の人だったように思う。

お袋は親父の後を付いて歩く人だったが、

裏切られた人でもあった。

晩年、親父がお袋をみていたとき、

お袋はそっぽを向いた。

私はいまになって、親父もお袋も心底好きだし、

親父もお袋も私のことを好きでいてくれている、

と思っている。

ホントに、家族なんだ。

今日は親父の誕生日なので、線香をあげようと思う。

「お袋には、よく言って聞かせるよ、親父!」

冬景色宗介、沿線の景色を斬る!

ご無沙汰です。

田舎住まいの自営業

景色評論家の冬景色です。

このところ、事務仕事が増え閉じこもっておりました。

イケマセンネ?

私は元々、何処へ行くにもクルマでした。

が、最近クルマの運転が面倒でして、

先日も奥さんよりパスモというものを貰い、

説明を受け、用を足しにでかけたのでありました。

何のことはない、

最寄りの駅より電車に乗って出掛けたのですが、

まあ、驚き、疲れた一日でした。

私の場合、最初の難関は改札。

ちょっと緊張しました。

で、恐る恐るパスモをかざすと、

ピッで通れちゃうんですね?

ああ、この話はまた、後日致します。

でですね、

クルマでよく通る景色を電車より眺めていますと、

明らかに首都圏の景色の変貌に驚く訳です。

クルマを運転しているときはチラ見ですが、

電車の場合はガン見ですから…

変貌というのは、ここ10年とみましても、

首都圏からあからさまに緑が減り、

更に土を掘り起こしたりして、

わずかな余白を埋めるように、

マンションや建て売りが、

これでもかというほどに建てられています。

日本の人口は減っていますが、

首都圏では明らかに増えていますね?

でないと、こんな状態にはなり得ない訳でして、

私からすると、息の詰まる景色となる訳です。

極めつけは、敷地10坪、日当たりゼロの建て売りとか、

いま流行の駅前のタワーマンションでしょうか?

見上げて思うに、

私はあんなところで安眠できない!です。

この景色に住むことを想像するに、

私的に考えますと尋常ではない、となります。

都市の美しさというものを通り越し、

ブロイラー都市という皮肉も出て参ります。

「大きなお世話だ」との声が聞こえますが、

いや、この状態はまずいです。

防災上の問題はその道の専門家の言われる通りですが、

何というか、人としての勘ですかね?

本来、生き物として兼ね備えている本能のようなものを、

こうした環境下で過ごしていると喪失してしまう。

そんな気がしてならないのです。

たまに郊外に出て、自然と触れあい、

「いいねぇ」って感心していてもですね、

やはり人は日頃の環境です。

(元々お住まいの方は、

こうした変化に気づいているような気がしますが…)

「なんか最近だるいなー」とか

「いらいらするなー」とかが過ぎるようでしたら、

あなた、それは都会病かも知れません。

もちろん、全国津々浦々まで、

だるい人やいらいらしている人はいるでしょうが、

その方たちは、処々の不具合でしょう。

そうした方も、もちろん都会にもいます。

が、それを差っ引いても、

環境に起因する病は多いと思います。

よく

「田舎に住むなんて冗談じゃないよ」と息巻いている人がいますが、

この人の言っていることをじっと聞いていますと、

「便利」というキーワードと、

都会に住むステータス感のようなものに酔っているのが

よく分かります。

あと、仕事にまつわる恐怖ですかね?

これらをまぜこぜににして、都会は成り立っているのでしょう。

ああ、飲み屋の数の多さも見逃せませんね。

ここは、私も引っかかるところ。

羨ましい限りです。

で、よくよく考えてみると、

東京なんかでも都心の方が緑が多い。

皇居とか、代々木公園とか新宿御苑とか…

あとは、

余白がない景色が広がる訳です。

(例外は井の頭公園、砧公園、駒沢公園、等々力渓谷とか、

いや結構あるな?)

問題なのは、

都心を中心に広がるドーナツ上の景色でありまして、

ここは通勤圏と見事に重なっていますね。

鑑みるに、その方たちの人生設計は、

この辺りから発想され、限られた価値観の中で、

そこそこの一生を過ごすと推定されるのでありますが、

それは景色を見ても明らかなように、

ちょい損な選択のように私には思えます。

偉そうなことをほざいていますが、

私自身、ドーナツ圏内の横浜生まれの横浜育ちで、

若いときは、仕事のために、

多摩川を沿うように走る大井町線沿いにずっと住んでおりまして、

便利を堪能しておりました。

裏を返せば、それしか選択肢がなかったのであります。

で、このとき、思い起こすにですが、私は無意識下で

田舎を見下したようないやーな人間であったような気がします。

で、ここでやはり浮上するのが、やはり仕事の問題でして、

ここをクリアしない限り、ドーナツからは逃れられない。

(ああ、スイマセン、

逃げたくない方は対象外ですので、スルーしてくださいね!)

言い換えれば、ドーナツの景色の問題は、

就職問題とおおいに被っているのでありまして、

その壁を如何に飛び越えるかで、

新たな選択肢も増えると申せましょう。

例えばですよ、

田舎の海の見える丘の上に居を構え、

午前中は、書斎で潮風に吹かれての本社とのテレビ会議。

午後は、タブレットを片手にぷらっと近所の松林の公園へ出掛け、

或るプロジェクトの企画書を仕上げる。

とか…

(なんか、出来過ぎ。嘘くさいですね?)

いまは社会も企業事情も大きく変わりつつあります。

在宅勤務も増えて参りました。

インフラも、鉄道、道路だけでなく、

ネットを始めとする情報インフラも整いつつあります。

あとは、社会の認知と新たな価値の創造。

これに尽きるのではないかと…

とまあ、

今回は景色から推測する仕事の話にスポットを当てましたが、

景色は人生観で変わるとは、少しおおげさに過ぎますかね?

そんな感慨を抱いたのでありました。

さて、

私たちも、人生の景色を真剣に考えないとイケマセン。

大きなお世話とお思いでしょうが、

この冬景色宗介、割とおせっかい、

真剣です!

スパンキー自選詩

河原の石を積み上げて

それが

人の背ほどになったら

石は石でなくなり

それは霊的な存在となる

湖面の静かな日にカヌーに乗り

パドリングを止め

遠くをみていると

水底より魑魅魍魎が

寄ってくることがある

焚き火の炎に

知らぬ顔が映ることがある

よく見ると

それは錯覚ではなく

彼らもまた

媒体というものを

欲っしている

自由であることは

とてつもない勝利に聞こえるが

ときに自由は

過酷な試練を用意する

飼われるのが羨ましくなるのは

そんなときだ

雨が降り

日に照らされ

風に吹かれて

今日も生きる

僕たちは

紛れもない虫けらだ

地震があって

津波がきた

台風が過ぎて

竜巻が起こって

辛くて悲しくて

とんでもないことばかり

怒っているのは

地球の方なのか

生き物はみな

不思議な営みをしていて

その一部である僕も

自身のこともよく分からない

他を想像しても

やはりそれは

分からないことなのだ

恐竜と同じ僕たちは

地球の総てを支配して

そして滅びる

いつかどこかの星で

僕たちのことが

教科書に載る

即仏即神というものがあると聞くが

そんなものはない

あるのは僕たちの願いと

目の前に広がる

荒涼たる荒野だけだ

泡沫のようにはかない

僕たちの人生だけれど

瞬きほどの輝きを求めて

今日も生きる

そう

蛍のようにね

目が覚めると

総ては夢だった

僕はコーヒーで覚醒し

電車に乗り

また新たな悪夢に

突入する

蛾の雄も雌も

明かりをめざす

その異常なまでの執着は

都会に生きる

男と女に似ている

僕たちは勉強すべし

でないと

見るもの聞くもの総てに

惑わされるので

いつ死んだのか

誰も教えてはくれない

美しい人は

ただそれだけで価値があるが

その妖怪のような気性は

きっと神さまの罰に

違いない

君の瞳は10000ボルトか?

堀内孝雄(アリス)のヒット曲「君の瞳は10000ボルト」。

この曲は、資生堂のアイシャドーのCMに使われた。

いや、正確に書くと、この曲はCMのためにつくられ、

思惑通り、商品もヒットしたということになる。

いまから、かれこれ三十数年前の話だ。

そもそもこの楽曲は、或るコピーライターの発案から生まれた。

それに、谷村新司さんがイメージを膨らませて歌詞をつけ、

堀内孝雄さんが曲を作った。

そのコピーライターの名は、土屋耕一。

広告業界に長居していて

この名を知らない人は、まずいないだろう。

彼の代表作に、微笑の法則というのがある。

これも柳ジョージ&レイニーウッドがヒットさせている。

他、ピーチパイ(竹内まりや)、A面で恋をして(大滝詠一)等、

いまでは考えられない、ことばの力をみせつけた人だ。

彼のことばのセンスは、私が思うに、

美的に優れていたこと。

そしてなにより洒落が効いていた。

「軽い機敏な仔猫何匹いるか 土屋耕一回文集」(誠文堂新光社)を

読むと、彼のことばの操りの妙がみれる。

・なぜ年齢を聞くの

・あ、風がかわったみたい

・肩のチカラを抜くと、夏

・ああ、スポーツの空気だ。

・太るのもいいかなぁ、夏は。

・女の記録は、やがて、男を抜くかもしれない。

これらは、彼のセンスが光る代表的コピー。

何気ない文なのに、気にかかるものがある。

なぜか、心に響いて余韻が残る。

彼が或る雑誌のインタビューに応えていた。

それによると、君の瞳は

1000ボルトではなく100000でも1000000でもなく、

君の瞳は10000ボルトなのだそうだ。

それは理屈ではなく、勘。

そんな主旨のことが書かれていた。

現在は、コピーライティングも

セールスレターのように、

ダイレクト・レスポンスが求められる。

緻密になったといえば、その通り。

実利といえば、致し方ない。

が、余韻が残るものがない。

たとえ、花より団子でも

うまい団子は喰いたい。

それがコピーセンスの差になるのだと思う。

海辺の家の思い出

そこには、古いソファがあった。

木の足と手掛けが細工され、布は古びてはいるが、

ビロード地に薔薇の花が描かれていた。

きっと親戚の家なのだろうと、僕は思う。

広い居間には誰もいない。

僕は廊下のほうからこの居間を見ている。

陽射しが居間の椅子まで伸びて、

静かな時間が流れている。

遠くから、波の打ち寄せる音がかすかに聞こえる。

ちょっと湿った家だということに気づく。

ああそうだ、

僕は、人がやっとすれ違がうことができる細い坂の階段を昇って、

この家に辿り着いたのだ。

僕が立っている廊下には、

洋風の箪笥のようなものが置かれていて、

その上に、ガラスのドームで覆われた金色の時計が、

振り子を回している。

中に、金の歯車が幾つも動いていて、

そこから伸びた4つの金色の美しい金具が、

一定の間隔でぐるりと回る。

陽は少し赤みを帯びている。

夕方だなと思った。

なぜ、この家には誰もいないのだろう。

それでもなんの不安も感じない僕は、

ゆったりとした空間のなかで、

夏の終わりのような季節に、

この洋館の午後を楽しんでいた。

居間の真ん中には、

古びた大きなステレオが置いてあり、

結局僕は、後にこの居間で、一枚のレコードを聴いている。

それは、僕がこの居間でどうしても聴きたかった一枚で、

そのためだけに、

遠い自宅から、電車を乗り継いでわざわざ訪れたのだ。

レコードを回すのは、午後にしようと思っていた。

陽の美しい日を選ぼうと決めていた。

金色の時計は、そのときまで廊下の箪笥の上にあればいいと思った。

居間に座り、

おとなになった僕は、柔らかい夕陽を浴びて、

金色の時計を手にしながら、幼い日を懐かしんだが、

一枚のレコードに、僕の涙はとめどなく流れて、

この家の住人は、

やはり

その日も帰ってこなかったのだ。

eブックメデイアの進化

電子書籍が広まっているが、世間の反応はさまざまだ。

制作コストが低いので、当然売価も低く抑えられている。

他、かさばらない等、良い反応もあるが、

当然ネガティブな評価も多い。

曰く、やはり本は紙に限るというアナログ派の意見が、

多勢を占める。

電子書籍の軽々しさに較べれば、実体も重さもリアルな書籍は、

やはり権威もありそうだ。

今後、大事な本は書籍で、ちょいと読む本はeブックで。

こういう人たちが増えている。

弊社も電子書籍関係企業とのアライアンスがあるが、

それによると、クラウド上に本棚を設置し、

好きなときに好きな本をダウンロードして読む。

そんな感覚。

で、本棚のアイコンもいろいろデザインできるが、

やはりクラッシックなデザインを好む傾向がある。

これも振り幅の大きさを物語っている。

で、弊社が推し進めたいのは、企業パンフレットとか、

改訂が頻繁に起きるマニュアル類をターゲットにしている。

これらの印刷コストや改訂コストを考えると、

印刷会社様には悪いが、費用が掛かり過ぎ。

こうした分野で、電子書籍は威力を発揮する。

版権の絡んだものとか、著名なものは扱わない。

要は棲み分ければ良いというのが、弊社の姿勢だ。

デバイスは、ほぼなんでもOK。

いろいろなチョイスに応じますが、

御社でもひとつ検討しません?