19歳の旅

言葉のかけらが降りてきては

それらがまとまらず繋がらない

ため息を吐くとふっと消える

窓ガラスの向こうの夜の空に

言葉がぶら下がっている

超能力でその言葉と交信してみたが

どうもいまの心境じゃない

違うんだよな、と思った途端

そのぶら下がりが地に落ち

きらきらとした都会の夜景は

色あせた

今度は時空を越え

あの頃のクラスメイトと会話を

交わしていると

やはりお前もかと言い

舞台はあの夏の日の話になる

あの夏の日

地元のチンケなガキが

アロハシャツをはだけて

喫茶店からたばこをくわえて

かったるそうに出てくる

もう何もやることがないな

蝉さえ鳴かないようなこの暑さ

この街

人もまばらな通りに

ふたりの目を引く張り紙があった

「豪華船旅でゆく沖縄」

アジア航空という会社がどういうものなのか

ふたりには興味がなかった

店内

話を聞いているうちに

どうせ暇だし、行ってみようかということになり

書類にサインをする

次の日から金を工面するため

横浜の港ではしけの荷運びの仕事をする

カンカン照りでの昼飯はビニール袋に入っていた

白飯とお新香と梅干し

コーラを飲みながら腹に飯を詰め込み

夕方ふたりはぼろぼろになって

金を手に電車に乗る

出発

竹芝桟橋で新・さくら丸に乗船する

本州の陸地に沿ってずっと航行を続ける

デッキで潮風にあたり

ビールをラッパ飲みしていると

吐き気がしてきた

初めての船酔い

船室に戻って寝込みながら

考えた

この先、俺たちは何処へ行こうとしているんだろう

一体、何をしようとしているのか

考えたが目眩がして

寝るしかない

ふたりで吐くのをこらえて

寝ることに集中した

二日目の朝

ふたりが船室の窓から

見たものは

いままで見たこともない

海と空の色

それは

夢のような夏の色だった

19歳の旅はこうして始まったが

あのチンケなガキの片割れはいま

川崎のとある会社の社長をしている

先日、半年ぶりに奴と話す機会があった

コスト、対中国市場の可能性と半導体デバイスの

展望について

「いまオレが社員のリストラ計画を作っていて

リストに出す名前を見る度に

うんざりするんだよな」と話し

もう嫌だよと吐き捨てた

戻りたいよな

あの頃に

相づちしか打てない

「19歳の旅」

そして

地元じゃ負け知らずのふたりが

横浜を出たのは

調度同じ頃だったような記憶がある

それから連戦連敗

やはり世間は広いと思った

東京で毎日続く他流試合

仕事そして子どもを育てて

生きてゆくということ

外の辛さが身に染みた

2杯目のコーヒー

なんとなく言葉がみえてきた頃

道に足音が聞こえる

夜が明け

いつもの喧噪が始まるのか

窓の外には

もう消えそうもない言葉が

浮かんでいる

洗面所でうがいをして

デスクに戻っても

たばこの煙を眺めていても

ついにその言葉は

消えることがなかった

コートを羽織って

外に出ると

暗がりの街並みの向こうに

薄い紅の空が

少しづつ

ゆっくり

広がりはじめ

星はうつろい

月はぼやけて

言葉だけが

輝いていた

もう一度だけその言葉と

テレパシーを試みてはみたが

憂鬱になることもなく

気が削がれることもない

それは

ビルの屋上の上にあっても

山の頂にあっても

色褪せることなく

私を魅了する言葉

19歳の旅

私の物語

19歳の旅ははこうして始まった

19歳の旅はここから綴られるのだ

そう

誰だって過去に生きられる

誰だって未来を夢見る

その言葉は

生きていることが

愛おしいことを

さも当たり前のように

語ってくれる

沈殿

土壺の深い底で

這い上がることのできない

おとこがずっと見ていたものは

世間のつまらない縁取りだった

ざわつく欲望と札束で

頬を叩かれた

人前で

またある時は

あの人と向きあっって

それしらい事を話さねばならぬ

振る舞いも嘘だらけだ

と思った

「ならぬ」が追いかけてきて言うには

お前は完璧だろ?とつまらない事を聞く

あなたの眼は節穴ですか?

何も話したくないですね、

と「ならぬ」に返す

私は閉じこもっていたいと

思った

なんどきも自分の周囲をグルグルと廻っている

汚いサタンを葬り去らない限り

きっとこのまま

真っさらな自分という人間とは

出会えないような気がしたので

いっそ、サタンを殺すことにした

土壺の深い底に立ち

縁を見上げると

空が見える

風が吹いていて

長い枝から伸びた新緑が

のびやかに揺れている

這い上がる力がない訳ではないことは

誰より自分が知っている

孤独が好きだと言えるほど

強くもないし

望んでもいないのだが

しかし

語るものがおとぎ話ではいけない

せめて血と肉と

私の体を通り過ぎたものが

欲しい

じっと

座して伏して

暗闇のなかの正体を知る

いまは

目をつむって眠りにつこう

果たして

消えた夢

沈殿した夢のなかの風景は

いつもいつも

一点を凝視している

悲しいくらいに愚直な

18歳の私だった

普通である、ということ

今日は天気がいいので

窓の外が明るい。

パソコンを前にして

なんだか、そわそわする。

外が気になる。

「どう、今日は暖かい?」

買い物から帰ってきた奥さんに

さらっと聞く。

「そうね、もう春ね。向こうの山も

ちょっと霞がかかっているみたい。

動いていると汗ばんでくるわよ」

「ふーん」

気のない返事はしてみたものの

内心穏やかではない。

貴重な土曜日だというのに

朝から残務整理だ。

「まだ、かなりかかるの?」

「うーん、いや何とかするよ」

12時を回ったので、奥さんが

トーストとハムと卵のペースト、

そして簡単なサラダと紅茶を用意してくれる。

テレビをつけると、カウントダウン・TV。

まあ、私はどうでもいいんだけど、

東京の新トレンドスポットなんかを紹介している。

奥さんが、「ふうーん、ふうーん」と頻りに

関心している。

「美味しそうだね?」

私が水を向けると

「でもやっぱり高いわね。東京は」

「そうだね」

カーテンの向こうがまぶしい程にきらきらしている。

庭に、鳥の鳴き声が聞こえる。

「散歩、行こうか」

「いいの、仕事?」

「月曜日に早く起きて片付けるよ」

食事を済ませて、

一応、家の中の主な家電のスイッチを切る。

スニーカーを履いて表に出ると

私の頭の仕事のスイッチも切れた。

近所の家の屋根や外壁が

日差しで照り返っている。

「なんだか、牢獄から出てきたような

感じだな」

私がつまらない感想を言うと、奥さんは

ケラケラと笑った。

住宅街の西は、高い丘の上のようになっていて

下の国道が見える。

その向こうに山が連なり、

ゴルフ場の辺りの緑も、

心なしか色づきが濃くなったようだ。

空に、雲がぽかんと数えるほど浮かんでいる。

ふたりで、雲のかたちについて、

山の色づきについてや、

たわいない話をいくつか交わして、

住宅街の家々の前を歩く。

ひとの家の庭先の花を見て、奥さんが

「綺麗ね」と言う。

散歩のときは、なぜか実家の話や

子供のことや、リフォームしようか?

なんていう話題も飛び出したりする。

大方、どうでもいいような大事なような

そんな話ばかりだが、こうした時間が、

最近、私には愛おしいと思える。

普通の家に住み、何のことはない普通の生活。

普通に家のローンが残っていて、

人並みの預金残高なのだろうか?

思えば、何もかも普通なのだが

さて、この普通ということは

一体どういうことなのかと、ふと考える。

この定義は、割と考える程に難しく、

意外と奥が深いことに気がついた。

思えば、結婚して子供が生まれ

独立して、もう駄目だ、ということも

何度かあった。

家族の病気も危機も幾度かあった。

数年前に父がいなくなり、奥さんの母親もまた

いなくなってしまった。

が、いまはふたりの心もだいぶ癒え、

とりあえず普通の状態に戻った。

上をみれば切りがない。

下をみてもきりがない。

私がこの頃ぼんやり思う

「普通」というこの毎日の繰り返しが、

とみに愛おしいのに気がついたのは

つい最近のことだった。

光る海

ベランダの戸を閉めると

ひだまりと静けさ

FMから懐かしいサーフィンU・S・A

ふと仲間のことを思い出す

今頃どうしているのだろうと

急に気にかかる

元気で働いているだろうか

結婚したのかな

お子さんは

もうこの海に裸で入ることもないが

あの頃の夏は

いつも仲間と泳いでいた

あどけないみんなの笑顔だけが思い浮かぶ

まだ海が透き通っていたあの頃

ソファに腰掛け小さな漁船を追いかける

二艘みつけたところで

光る海のまぶしさに目をつむる

ゆっくりと溶けてゆく時間

消えない思い出

取り戻せない時

静かなソファに

白いあの夏が

宿っている

自分も仲間も

埃ひとつなく

悩みも美しく

この海のように

そこにはただ夢だけが

輝いていた

冬景色宗介、現る!

どうも!

景色評論家の冬景色宗介です。

お久しぶりです。さて

横浜の観光スポットであるみなとみらいの夜景は
一体どこから見ると最も綺麗で美しいか?

この一年の間、私は仕事でこの辺りに来る度に、
常にこの課題に果敢に取り組んで参りました。

端からみれば、つまらない事やってるな、とお思いでしょうが
本来、研究というのはかなり地味なものです。

そこをご理解頂きたいなどとは申しませんが、
結果としてかなり興味深い内容となりましたので
ご一読頂きたいと思います。

まず最初に、
私は新しい横浜を少し引き気味で見てみようということになり、
山下公園前の幾つかのホテルに泊まり、横浜港の夜景を満喫したのですが、
みなとみらいを眺めるには、ちょっと遠くに引きすぎた感がありました。

みなとみらいが見えることは見える。が、ちょい遠いので、ランドマークや
観覧車も迫力がない。良いんですが、海を正面とすると、
みなとみらいは、港の左に位置しているので、ちょうど視界の
端ということもあり、画面的には鶴見辺りの工業地帯がメインになる訳です。

この景色もなかなか捨てがたいものがあり、
やはり日本の高度成長期の礎を築いた京浜工業地帯を見るにつれ、
幼い頃、この辺りに住んでいた私の遠い記憶が呼び起こされる訳です。

あっ、済みません。皆さんには関係のない私事でございました。

で、この山下公園辺りは、夜になると人通りもかなり少ないので、
スターホテルの1Fにあるイタリアン・レストランが
静かで空いていてムードも満点。オススメです。

うめぇ、うまくないは別です。私の感想を言わせてもらえば、
パスタなんかはフツーでした。
しかし、山下公園沿いの道路に面した窓際のテーブルで、
キャンドルなんか点けてくれる店内の雰囲気は、上々と申せましょう。

しかし、オトコ同士はキモいので、ヤメテ頂きたい。

さて、この並びには、老舗ホテル・ニューグランドの他ホテル・モントレや
ゆうぽうとなんかがありますが、私はいまはなきバンドホテルに
一度でいいから、泊まりたかった。

バンドホテルは、私の伝説のホテル。
私がまだ若かりし頃、おにいさんやおねえさん世代が集まり、
生バンドが入って踊り語る、横浜でもハイセンスなポイントでした。

ニューグランドは、何といっても旧館がオススメです。
シックで落ち着いた部屋と使い込んだ家具類は、
クラシック・ホテルでしか味わえない気品と優雅さがあり、
ゆったりとしたときの流れを満喫できます。

さて、
山下公園あたりからの新スポットの景色が遠いということもあり、
後日、私は宿泊場所を関内へと移動いたしました。
まず、横浜球場の横にある横浜ガーデン。ここは関内というより中華街寄り。
ここの部屋の窓からの眺めはカナリイケテルのですが
目の前の横浜球場のライトがかなりキテイマス! まぶしい。
構図的には、ランドマークタワーとそれに連なるビルの感じがほどよい重なり具合で
みなとみらいの近未来を醸し出しているんですがねぇ。

で、今度はぐっと近づき、馬車道辺りのホテルからの景色をチェックすることに
致しました。ホテルルートインからの景色はまあまあ。というより、私はいつも
高層階を取るのですが、夜は目の前の横浜歴史博物館の、まるでドーモのような
屋根を見るにつけ、イタリアのフィレンツェで見たドーモにそっくりなのに驚き、
ここは外国か? と自分に突っ込みを入れてしまいました。

で、このルートインの近くにホテル・リッチモンドがあり、ここから見上げるみなとみらいは
なかなかグッドなのでした。眼下に馬車道のにぎわいがあり、
みなとみらいもかなり近景なので、ビル群と観覧車の明かりの競演も美しく
見いいて、かなり絵になります。

しかし、もっとズームアップのすげぇ景色はないのか、という方のために
ホテル・ナビオスがオススメです。ここでは街側のお部屋をリザーブしてください。
横浜コスモワールドが目の前。観覧車なんか、窓枠からはみ出てしまう迫力なので
近景を好まれる方には、絶好のホテルです。

ところで、あなたは気づきましたか?
お前は、どのホテルからみなとみらいがよく見えるのかという話ばかりじゃないか、
という、この私のレポートを?

そうなんです。
もっと、表に出て、ぐいぐい歩き回り、がんがん走り回って汗をかいて、
まるで記者がスクープを取る如く、猛獣のようなハングリー精神はないのか?
といわれそうです。

ベストポジションを探るという努力を、私は全然しないんですね。

なぜなら、いつも疲れているからです。
しかし、ちょっと外出して、凄いポジションもみつけたのでありました!

それは、馬車道から港方面に歩き、5分くらいのところに万国橋という橋がありまして
ここへ来ると視界がぐっと広がり、海と高層ビル群が一気に視界に飛び込んで参ります。
吹く夜風は海風で、いつ来てもホントに心地よい。
で、眼前に色とりどりにライトアップされた観覧車がズームアップされ、
背後にインターコンチネンタルホテルやクィーンズスクエア、パシフィコ横浜、
万葉倶楽部、パンパシフィックホテル、そしてランドマークタワーが
にょきにょきと天をも突くようにそびえ立っております。

そうです!
ここが、現在の横浜の観光スポットみなとならいを最も綺麗かつ美しく見せる
ベストポジションなのです。
しかし、真冬は死ぬほど寒いので、まあ、3分が限界でしょう。
さっさと帰ってください。

で、これまた偶然なのですが、みなとみらい限定でなければ、さらに美しい景色を
私は発見致しました!

それは、この万国橋より先にあるワールド・ポーターズという
戦艦のようなショッピングモールがあるのですが
偶然ここの上階の駐車場にクルマを止めていたことがあり、夜クルマに戻ろうとすると
なんと、ここから見える横浜港の夜景が絶景!

港の湾に沿ってオレンジの明かりが、もう満点の星の如く煌めき、
その明かりが遠く本牧の辺りまでにじんでいる。
眼の先には、ベイブリッジが架かり、この橋のライトアップの美しさも必見です。

遠くは、川崎の鹿島田辺りだろうか?
その向こうは都心のビル群までかすんで見えるのであります。

こうなると、私こと冬景色宗佑、景色評論家冥利に尽きるのであります。

ここ地元横浜に生まれ、早半世紀。
東京の世田谷にも15年ばかりお世話になりました。
現在は、丹沢山系の片隅で、仙人のような静かな暮らしを営んでおります。

しかーし、我が生を授かりました横浜の地を忘れたことなど一時たりとも
忘れたことなどないのでございます。

「街の明かりがとてもきれいね横浜」なのです。

さて、次回は山梨県か静岡県辺りのお話を書きたいと思いますので
また、お会いしましょう!

景色評論家の冬景色宗介でした。

コレデイイノダ

ユルさ加減がほどほどに良かった
「笑っていいとも!」が
最近はイマイチ面白くない。
すげぇマンネリなのも、了解済み。
なんと言っても、バブル前?
いや約30年位前からやっている超長寿番組だから
その辺はOKだけど
この番組は、以前は、マンネリや
ユルさのなかにあって
常に笑いに対するチャレンジ精神のようなものが
あったような気がする。
それが最近、私にはみえないんだな。

で、裏でも観ようものなら、
アクの強いみのもんたに代わり、
最近では、微妙な立ち位置の中山の秀くんが
番組を取り仕切っている。
彼にしてみれば、絶好のポジション確保!
このMCは、
向こう30年位は誰にも渡さないゾ、
というオーラが、
その目力からピッピッと放たれていた。
この手の番組は
たまにチラッチラッと観る程度だが、
日に日に中山くんのみのもんた化が進行している。
その口調、おちゃらけぶり、
なんだかつまんねーギャグが、おばさん受けする。
ツボはオッケー、
オリジナルなんかねぇーんである。

はたして、
私の疲労したオツムを快く癒してくれる
ヒルメシ時の番組は消えたので、
最近ではFMに切り替え
空中なんぞをゆらゆら見ながら
ラーメンなんかをすすったりしている(怖)
が、気づくとまたテレビを観ていりするから
恐ろしい。
これがテレビなのだ。

で、
ストレスがピークに達する夕方なんかは、
私はもう仕事を一切拒否しちゃうときがある!
こうゆうときは、小鳥のさえずりや、波の音、
はたまた宗次郎のCDなんかがベスト
と思っていて実行したことがあるが、
全然駄目で、辿り着いたのが、
なんと夕方のニュースだった。

スクープまがいのテンションで話す
安藤優子さんも、、久々に観ると貫禄がついた。
そして寄る年波に勝てないのは明白で
TVのハイビジョン化と相まって
その様相はかなり作り物化のような
厚メイクが目立つ。
でもそれはそれでイインデアル。
誰でも年はとるのだ。許そう!

ココロの広い私は、
そんな彼女を笑顔で受け入れます。
彼女は若い頃、
雑誌「J・J」のモデルをやっていたらしいので
その美貌の片鱗はちらちらみえるのだが
いつの間にか、
政策通らしきコメントを垂れるにつれ
嫌な大物感が漂うのは、私の錯覚か?

で、気になる天気予報になると、
いつも思うんだが
イイ男かイマイチ男なんだか不明の石原良純が
早口と妙な音程で
気圧配置なんかを分かりやすく説明してくれるのだが
そんなことはどうでもよくなるような
彼のピチピチホワイトジーンズは
誰がセレクトしたんだ?
あと、ん十年前に流行ったような
セーターはどこで買ったんだ?

もう、天気予報なんかどうでもいいんで、
石原くんが気になるな。

ご存じ、石原くんは誰もが知る、
生粋のおぼっちゃまである。
おぼっちゃまの考えていることはわからん。
おぼっちゃまのセンスなんか
全然わかんねぇーんである。

生きる世界が違うなーと、
私なんか妙に納得してしまうのである。

あっ、明日の天気はなんだっけ?聞き漏らした、
ということで
急いで大御所NHKへ、リモコンをピッ!

と、出ました!やせ形の無難なオトコ、
平井さん!

彼の天気予報は
その行き渡るような天気の全体像から
細かい分析、そして
「何故雨が降るのか、いまからその説明を致しましょう」
という丁寧な流れに好感なのだが、
彼の天気のエキスパートとしてのちょっと偉そうかつ、
自信満々な口調が、このところ、
どうしても私の鼻につく。

そんなことはどうでもいいんだが、
このNHKの天気予報が
次の日、なんだーというように、
当たらないことが多々ある。
という訳で、あれこれ気象についてこねくり回す
平井さんの自信過剰ぶりが鼻につくんである。

それにしても、こんなことを書いていると
「お前、ホント暇そうだな」と言われそうだが
コレ、私のストレス解消法。何も考えなくても
テレビはいろんなことを教えてくれるので、
アリガタイ。

いまや、ネットに押され、視聴率激減のテレビ。
そのビジネスモデルが危ぶまれているといわれる
テレビだが、私に言わせれば
まだまだテレビは面白いのだ!

見方を変えれば、テレビの良いところは
まだまだいろいろある。
突っ込みどころも満載だ。
優良なコンテンツの急が叫ばれているが
そんなものはいらないんじゃないか?

テレビはこれてでいいんである。
だいたいでイインデアル。
テレビは私の逃げ場所なのだ。

テレビは疲れた現代人を癒す
テキトーな「箱」でイイのだと思うんです。

だって利口なテレビって、怖いでしょ。

伝説

どこまでも吹く風

曖昧な空間に

ひとつ板を浮かべ

想いを描いたという

一振りで、山をひとつ

指先をちょっと押し当て

海を深く

そしてあのひとは

愛をひとつふりかけ

世界を創った

という

そのわずかな

残りカスのなかから

お互いが出会って

私たちに続く道は

開けた

鳥も虫も花も

空も雲も大地も

過去も未来も

愛し合い、憎しみ合い

殺し合い、助け合い

夢を育み

明日を信じ

絶望し

息絶え

それでもなお生きてゆく

それでもまた死んでゆく

あのひとが

私たちに伝えた

ひとつのものがたり

いまだ見たこともない

誰も辿り着かない

その彼方に

真実はあると

そこに夢があり

そこにもやはり

失望があり

だから皆ただ歩くのみだと

だから生きるものも

死したものも

なおめざすのだと

あのひとは

生きるものすべてに

あの世のすべての想念に

絶え間なく

語りかけるのだ

フォトフレーム

僕にとって

あの日は

世界がひっくり返るほどの

驚きと

よろこびに溢れていたのだけれど

いまになって思えば

君は

あの日あのできごとに

あくびのでるような

退屈さを覚えたことだろう

僕はあらん限りのことばで

君に伝えようとしたんだよ

微笑んだ君は

たいして語ることもなく

OKってそれで

遠くをみつめていたね

(不確実なあるいはうつろい)

ただ、あの笑顔だけは

いまさら取り消さないで欲しい

(悪夢のなかで泳ぐこと)

おとなになりなさいって

君はよく言ってたが

おとながなにを考えているのか

僕に教えて欲しい

だって

おとなは愛し合わないのかい?

おとなはホントのことを語らないのかい?

(あるいは武器として)

君にとっては面倒なことだけれど

それがせめてもの愛だろう?

僕にしてみれば

悲しいけれど、それでも

ちっぽけな

愛なんだろうと思う

(滑稽なおとことテーブルの上の写真)

さようなら

ひこうせん

青く澄みきった空に

ひこうせんが浮かんでいる

黄色いひこうせん

もう小さくみえるひこうせん

ときおりキラッと光ると

徐々に小さくなってゆく

「おじいちゃん、見てみな。ひこうせんだよ」

車いすに座っているおじいちゃんも

空を見上げる

僕とおじいちゃんの指が

ひこうせんを追いかけてゆく

まぶしそうにおじいちゃんの目が笑って

そしてしばらく空を見上げていたおじいちゃん

車いすを押して部屋に戻ろうとすると

おじいちゃんは

「ばあちゃんが乗っておった」

とつぶやいて頭をさげていた

部屋に戻るとおじいちゃんは

這うようにして仏壇に体を寄せ

まだ新しいおばあちゃんの位牌に

ずっと手を合わせていた

お地蔵さん

お地蔵さんは、子供が大好きだ。

昭和30年代のこと。

小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。

当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、

私は歯も数本抜けていた。

しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。

放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。

同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも

通う羽目になった。

耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、

いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、

例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を

繰り返すだけだった。

怖いのは歯医者だ。

昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。

中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。

当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、

痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。

で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。

とても偉かったのだ。そして、怖い。

私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、

急に腹が減るのだった。

当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。

いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは

そんなものだった。

いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、

途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。

木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは

いつも笑っているようにみえた。

見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、

山盛りになっている。

私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて

その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、

しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。

次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、

前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。

私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、

不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。

ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、

お地蔵さんは笑っているようにみえた。

そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。

歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。

私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、

母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。

帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。

私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。

すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。

私は訳が分からず、

「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」

と泣いて母親に抗議した。

「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。

母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、

必死に謝っていた。

幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。

そして、延々と説教された後、

我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。

後にいろいろなことが分かった私だが、

あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、

お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。

あのやさしい目。

毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。

いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、

私は、手を合わせて頭を下げてしまう。