戦争というもの

私の父は、いわゆる戦争の生き残りだった。

南方のように、ほぼ全滅させられたのではないが、

関東軍として、壊滅的な状態で、満州で終戦を迎えた。

そして、捕虜としてシベリアに送られ、

戦後数年経ってから、本土の土を踏む。

村でただ一人の帰還兵。

生きて帰ってやれやれと思ったら、

父を、まわりが白い目で見るという。

羨ましさか、怒りか?

誰も生きて帰ったことを、喜んでくれない。

変だなぁ、

生きて帰ってきてはいけないのか?

ただ素直に、父は思ったと言う。

「何故、死んで帰らなかった?

何故、英霊にならかったのだ?」

と、ある人に言われたらしい。

イキテイテスイマセン。

怖い時代、見苦しい人間達。

いまも、世界のどこかで紛争は起きている。

殺戮は、そう簡単になくなるものではないらしい。

ここのところ、近隣でキナ臭い情勢だ。

朝鮮半島は一色触発状態。

民主党のお陰で、日米安全保障条約とは何か?という

根本的な議論も、炙り出された。

人間の尊厳、命の軽さ。

そもそも、私は人間というものの本質が、

いまでもよく分からない。

ついでに言わせてもらえば、国とか国家とか

領土という線引きについても、疑問がついてまわる。

よく、偉い政治家や軍人が勇ましいことを発言したりするが、

私は、どうもこういう種類の人たちに嫌悪感を覚える。

「あんたがいつ死ぬかも知れない最前線で指揮をするのなら、

私も心を改め、考え直します」

なにはともあれ、放っといてくれ!

ついでに余計なことかも知れないが、

いまの若者のことも放っといてくれ!

私は、国のためという理由と根拠が、

まるで分からない人間だ。

ロックンロールだぜ!

頭でロックンロールが鳴っている。

どういう訳か、最近ロックンロールなのである。

最近のオヤジは、ちょっと騒がしい。

近所を歩いていたら、車庫に黒いワンボックスカーと

幼児用の自転車が置いてあった。

で、そのワンボックスカーのウィンドゥに、

でっかく「YAZAWA」のキラキラのプレートが飾ってある。

「おっ、子育て真っ最中でも、ここのパパは矢沢だな」と私。

と、玄関の扉が開いて、中からジャージ姿の若いお父さん、登場!

年の頃なら30代か?いや、いまはみんな若く見えるので40代かな?

ボサボサの茶髪にピアス。眉毛なんかちょっと剃ってたりしている。

こんな感じのお父さんに、工藤静香さんのようなヤンママの組み合わせって、

最近よく焼肉屋なんかでも見かけますね?

こんなんで子育て大丈夫か?とも思いますが、

まぁ、我が身を振り返れば「なんとかなるよ」だと思います。

なにも、身を固めて子供でもできたら、童謡と演歌ではないんであります。

髪の毛の色なんか、何色でもOKです。

子供に何を教えるか?伝えられるのか?

ちゃんと教えることを教えて、そこに嘘がなければOK!

ヤンキー父さんとヤンママで、お子様にはつまらん根性ではなく、

ちゃんと強さとやさしさを教えてくださいね!

勉強はさておいて、最低限のマナーなんぞも。

それにしても、最近アタマの中で、ロックンロールが鳴っている。

白髪も目立つようになってきたし、目の下にも疲れが溜まっている。

ちょっと無理して動けば、すぐ息が上がるし、思考する根気も、降下気味。

お腹のお肉も、全然格好良くない。

しかし、今頃になってミック・ジャガーが懐かしくなる。

クラプトンも若かったな!

「ハイウェイ・スター」を聴きながら、

第三京浜をかっ飛ばしていた頃の自分を思い出す。

そういえば、あの子、いま何してるんだろ?

元気かな?

気になる。

今年あたり、地元に帰ってクラス会でもやりてぇーなー

私という存在

私はどこからきたのか

教えて欲しい

瞬きほどの

時を紡ぐ生は

そして何処へ行く

なぜ旅立つ

この星

この深遠な宇宙

そしてこの空に

輝く星座

春は川の流れ

夏の太陽

枯れ葉色の

秋の夕暮れ

冬の朝の白い息

この体で笑い

苦しみ

この体で泣き

夢をみる

この世界の想いは

私に何を教える

生命を宿すこの力

生命を絶つこの力

この星の想いは

誰の意志なのか

そして

私はどこからきたのか

いまこのひとときも

死への旅立ち

それでも

生きている

時が流れる

心は叫んでいる

万物は

生まれる

そして

総ての生は

旅立つ

なぜ私は生まれたのだろう

なぜ私は死ぬのかな

この星

この深遠な宇宙

そしてこの空に

輝く星座

その彼方に

きっと

その答えが

あるのだろう

ダニエル

僕の世界が

まだこの目で見渡せる程の頃のこと

ラジオの雑音のなかから愛らしい歌声が聞こえてきたので

そっと耳を傾けると

聴いたこともない言葉が素敵なメロディーに乗って

僕の心を捕らえた。

後に、その歌声はダニエル・ビダルという女の子だと分かり

そのタイトル「天使のらくがき」というメモをもって

街のレコード店でそのジャケットを見たとき

僕はこの子に恋をした

来る日も来る日も

僕は部屋でレコードを聴いていた

ジャケットに写る彼女の笑顔を眺めながら過ごすひとときは

なにものにも代え難いしあわせなひとときだった

学校では好きな子がいたが

この子もまた はにかんだ笑顔がかわいく

大きな瞳が僕を惹きつけた

彼女と交際できるようになって

彼女を一度 僕の部屋へ招待した

僕はダニエルの歌を彼女に聴かせると

「素敵ね、この曲」とだけ言った

僕は嬉しくて嬉しくて

そのときの時間と空間は

いつまでも続いて欲しいと

真剣に願っていたのを覚えている

「天使のらくがき」は次第にヒットチャートを駆け上がり

トップテン入りを果たした

ダニエルは頻繁にテレビに映し出され

その魅力は万人のアイドルにふさわしく

隙のない美しさで誰をも魅了し

彼女はみんなの恋人になった

僕は相変わらずダニエルの歌を愛し、彼女を愛しながらも

同じ学校の彼女を次第に強く意識するようになった

あるとき、彼女と彼女が重なって見えたことがあった

実体と空想のなかで

僕はしばらく混乱し

そして学校の彼女とデートを重ねるうちに

僕は実体を愛するようになった

ダニエルはフランスの女の子

僕と同じ年だった

僕はその後

大学の第二外国語でフランス語を専攻したが

全くものにならず

それがいかにも自分らしくておかしくなった

学校の彼女はいま

僕の傍らで

忙しそうに朝食の支度をしている

ネット依存

ネットは、鏡の世界だ。

実生活と別の世界だが、

リアルな生活と似た世界、

いやそれ以上の途方もない世界が

広がっているようにも思える。

底なしだ。

欲しい情報は、ほぼ手に入る。

が、そこが怖い。

例えば、ネット以前。

本などで学んでいた時代は、

そこで分からない、不明なことは

本屋や図書館にでも行って調べるか、

人に聞くかとか、

まず行動を起こした。

それでも解決しないことは、

答えを求めて悩んだり、

さらに動いたりしたものだ。

また、あきらめるという選択肢もあった。

ネットは、いわゆる知識の宝庫なので

いまやネットを操る人は皆、知識人だ。

(どうでも良いものや間違った知識も満載だ)

知識は人を物知りにはするが、

そこに経験が加わらないと、

何の創意工夫もないままの

あたまでっかちが出来上がる。

ついでに、カラダだって鈍ってくる。

いつまでもパソコンの前にいる抑制のない人間は、

それこそ大切な時間の総てを注ぎ込んで

ネットに見入る。

なにしろ鏡の世界だから、

ネットの海原に漕ぎ出したら

帰ってこない人間は数知れない。

事の程を知ってる大人は、

生活の総量と時間のバランスを考える。

ネットの特性を知った上で、

夢中になっても、

心の陽が沈む頃に引き返し、

あとは、誰かと会話を楽しんだり、

散歩でもしたり、料理をつくったり、

スポーツでもやったりするのが

まっとうな人間というものだろう。

バランスを崩したネットの達人は、

パソコンやケータイの前であたまでっかちになり、

鈍ったカラダをもてあまし、

もはや鏡の向こうの世界の住人になってしまう。

いまや、こうした人間で溢れかえっている。

いろいろな事を知っている達人の知識は

たいしたものだと思うが、

五感は正常か?と言いたくなるような輩も、

最近、多々見かけるようになった。

例えば旅行。

ネットの達人は、実際の旅行なんかしないんじゃないか。

パソコンの前で、行く先の総てを調べた挙げ句、

もう旅行へ行ってきたような錯覚で、行動しない。

恋愛なんかも同じような要領で、

ネットの上で真剣な交際相手を探し始める。

付き合い始めたとしても、一度も会わずに別れたりする。

私たちはいま、ネット情報に支配されている。

テレビ、新聞などの情報には限界があるが、

ネットの中の情報は、途方もないコンテンツが仕組まれている。

そろそろSOSを発するべき時が来たのではないか?

ネットはいわばハサミと同じように語れる。

使い道次第で、私たちの生活も仕事も快適にしてくれる。

しかし、ネット依存人間などにみられるように、

使い方を間違えると、

生き方そのものが破壊されると思った方が良い。

そもそも、人が生きてゆくというのは、

毎日の生活一つひとつのリアルな行為の積み重ねであり、

行動と思考を繰り返すなかで、いろいろなものを学ぶように仕組まれている。

そこで五感が活動し、喜怒哀楽を繰り返し、実感を掴むものなのだ。

人は経験から学び、知識も経験を踏まえてはじめて、

知恵をものにする。

現代人は、バランスを崩してしまった。

私たちはいま、

知恵も肉体もおろそかにしてはいないだろうか?

さて、この文章は、自戒を込めて書いた。

毎日毎日、パソコン漬けネット漬けの私たちの仕事は、

一体何が実体で何がバーチャルなのかが、

一瞬見えなくなる時が、多々ある。

何処に線を引くか?何が境目なのか?

いつも気をつけながら歩いてはいるが、

危ない山の稜線をふらふらと歩くことも、時としてある。

今後、リアルな体験の少ないバーチャル人間は、

ますます増殖する。

生活実感のない人間、知恵なし人間が集まって

これからの社会を形成してゆくことになるのだろう。

そこに、確かな感情は機能するのだろうか?

血の通う社会は築かれるのか?

他人の痛みが分かる思いやりがあるのか?

自然に帰れ、とは

まさにいまの時代に叫ばなければならない

スローガンなのかも知れない。

アバターは痩せていた

先日、遅ればせながら「アバター」を観てきましたが、
感想は、なんというか、うーんと言わざるを得ないです。

映像なんか、とても頑張ってくれたんですが、
ストーリーがイマイチ納得いかないな。
というか、古典的で、ベタ過ぎ。

良くも悪くもハリウッド・ストーリーは、
テンプレートの使い回しで、この映画も
あっと驚く展開には程遠い。

がしかし、どんなにベタでも、やはりラストの
主人公とアバターの○○のシーンは、
こちらも織り込み済みなんですが、
ちょとカンドーしました(涙)

これ、映画のいいとこなんです。

で、全編、不思議な花や植物やとんでもない生き物の
オンパレードは、こっちも観ていてワクワクもの。
しかし、神聖なところや、
神のような存在のいる不思議な森の設定は、
うーん何かに似ているなと直感しました。

そう、ストーリー的にも、宮崎駿の「もののけ姫」と
被っているところが随所に見られましたが、
ジェームス・キャメロン監督は、
それを知ってか知らずか、
ビジュアル的にも似すぎている。

これは駄目だよー。

しかし、なんてったって、こちらは3D映画だ。
とんでもないメガネを、300円も払って
借りてるんだ!

飛び出す絵本ならぬ、立体映像なので、
違うんだなーと自らを無理に納得させる。

すげぇーって言えば勿論そうではある。
が、とにかく私は、
あのメガネにちょっと文句を言いたい。

あのメガネは、どの辺の人種を想定して
型どりしたのか知らないが、
あれ程、顔面に合わないものもめずらしい。

オレの鼻を潰す気か?

気が散って性がない。
途中、我にかえって回りを見渡したら
みんなのメガネ顔がウスラに見えて
そっちの方がイケテルと思った。

みんなの鼻がアバターに近づく。
そうだ!お前がアバターだ!なんてね。

で、この映画は、要するにどういう話かというと
非常に簡単ではありますが、
悪い土建屋と、のんびり暮らしている村人との戦いなんです。

これ以上語ると、ストーリーが透けて見えるので
言いませんが、文明と自然との対立物なのです。

で、注目のアバターというキャラについてなのですが、
私はいろいろ驚きましたね。

この方たち、実は人間の2倍くらいの背の高さなんですね。
知らなかった。でかい。

運動神経も半端なく、崖なんかずんずん駆け上がっちゃいます。

何を食ってんだろー?
我々人間としては、興味深々ですよね?

で、アバターはみんな痩せています。
太っているアバターは皆無です。
ウラヤマシイ!

何を食ってんだろー?
我々としては、興味深々ですよね?

で、最も特徴的なのは、あの顔。

鼻が平たく、目と目の感覚が離れ
目は、猫のような目をしています。

あれは、人相学的に言うと、
おおらかな性格の持ち主。
眉間があれだけ離れていれば
了見も広いというものです。

猫目は、勘の鋭さと感受性の鋭さをあらわし、
アバターとして、ふさわしい人相だと思います。

で、話しはズンズン逸れますが
映画館って、なんであんなに食い物や飲み物が
高いんだろ。
行く度に思います。

ポップコーンだってジュースだってボリ過ぎだろ?

あんな商売やってたら、そのうち誰も来なくなるぞ(怒)

値段だけじゃなく、メニューもイケテナイ。

お馴染みの洋物ばかりのメニューは、
きっとハイカラな映画館のイメージを崩したくないのは分かるが、
そろそろ、日本独自のうまいもんがあってもいいんじゃないか?

私個人の好みとしては、おにぎりやおでんが食べたいが、
なかには、焼き鳥や冷や酒を飲みながら映画、という方も
いらっしゃるのかも知れません。

はたまた、うどんや蕎麦を食いながら、なんていう方も?

ちょっと言い過ぎました。
しかし、いま映画館というのは
いや、映画そのものも含めて変わらなきゃいけないのかも知れません。

なんてったって、高いお金を払って行くのですから、
最高のコンテンツと空間、美味しいものがなくては、と思うのです。

いまや、各家庭で、好きなものをポリポリゴクゴクやりながら、
ハイビジョンやブルーレイ画質で、好みのコンテンツが観れるのです。

都合の良い時間に都合の良いものが鑑賞できる。

時間差さえ気にしなければ、レンタルで済ますこともできます。

敵はテレビであり、ゲームであり、ネット、アイフォンだったりと、
映画産業にとっては、難しい世の中となりました。

映画のライバルは増えるばかりなんですね。

すぐ観たい魅力あるコンテンツ、また行きたくなる映画館!

こういう、中身と器の同時発展形は、
どういう着地点が理想なのか、私には分かりません。

しかし、映画産業は、何か良い手を早急に
考えなくてはいけません。

風雲急を告げております!

映画ってホントに大変なんですね!

桜の頃

満開の桜が、風に散る。

この頃になると

私は、新しい教室と、

初めての職場の頃を思い出す。

転校してきて、私が見知らぬ仲間の前で

紹介される。

そして、緊張したのも束の間、

授業中の居眠りの癖が出るのもこの頃だった。

思い出したかのように、遅刻も始まる。

何処へ行っても怠惰な習性が抜けなかった私も

さすがに社会人になってからは遅刻が減った。

が、居眠りは続いていた。

これはどうしようもない。

病気だなと思った。

が、会社を辞め、独立してからは

遅刻も、仕事中の居眠りもなくなった。

調子がいいというか、現金な人間だ。

人は、自覚が生まれると頑張るものらしい。

お客様との待ち合わせも

約束の場所へは、遅くとも10分前には行く。

仕事中の居眠りは皆無。

我ながら、当たり前のマナーを身につけた。

自らを振り返って思うに、

自身の自覚がないと、人は流されるものらしい。

目的もなく彷徨っていると、やる気など出る訳もない。

その昔、飛行機で隣あわせたインドの青年と

どちらともなく話すことになり

お互い片言の英語でやりとりする羽目になった。

彼は、これからアメリカに渡って働きながら勉強をし、

絶対にアメリカン・ドリームを掴む、と私に話した。

そういう大きな事を考えもしなかった当時の私は、

軽い衝撃を受けた。

いま思い返しても、彼の鋭い目が印象に残る。

先日、花見の帰りに中国人が経営している店で

夕飯を食べた。

この店には、

中国のモンゴル自治区から来ている女性の従業員がいて、

行く度に、愛想を振りまいてくれる。

店のリーダーとして、彼女の他の従業員への指示も的確だ。

決して安くはないメニューだが、味は良い。

いつも繁盛している。

店が暇なときに、彼女と一度話しをしたことがある。

彼女は、家は貧しいらしいのだが、

親にかなりのお金を工面してもらい、

相当の覚悟で来日したそうだ。

そのはつらつとした笑顔からは想像もできないものを

彼女は背負っている。

絶対に失敗は許されないということらしい。

まして、つまんないとか飽きたなどという甘いものなど

あるはずもない。

彼女の目的は、日本のサービスを学ぶことだと言う。

中国に、つい最近までサービスという概念はなかった。

私も、彼女を見るまで、中国の女性の無駄(?)な笑顔は

見たことがなかった。

曰く、キメ細かい日本のサービスは凄いし、これを中国に

持ち帰ればビジネスになる、ということらしい。

決心の違いは、ここ彼処に現れる。

昨日、両脇が満開の桜の道を、クルマで走り抜けてきた。

風に舞う桜の花びらが、日差しのなかで踊る。

春の色模様だ。

春眠暁を覚えず

つい居眠りをしてしまいそうな陽気だが、

思えば、桜の散るこの時期ほど

身の引き締まる季節もない。

私が会社を興したのも、春だった。

長い髪の少女

長い髪の少女は

泣いた

ディブ平尾が

いなくなってしまった

アイ・高野が死んじゃったって

朝まで待てない

鈴木ヒロミツが

ある日突然いなくなった

「マドモアゼル」って

声をかけてくれた

岡本信が

二度と笑うことのない

眠りについた

長い髪の少女は

おとなになって

結婚して

子どもも大きくなった頃

ふと思い出した

嵐を観ても

GLAYを聴いても

いや

ミスチルでも

サザンでもなく

忘れかけていたもの

長い髪の少女が

長い髪だった頃に

唄った歌は

童謡のように優しかった

長い髪の少女が

長い髪だった頃に

唄った歌は

初恋の

あの人の歌だった

Sail On

怒ったり泣いたりも

もうやめて

考え事も困りごとも

投げ捨てれば

いいんだ

歩みを止める

積み重ねてきた

あらゆるものを

脱いでしまえば

心残りも

ないさ

この空を飛べたら

僕はもう帰らない

この空を飛べたら

みんな君にあげるよ

なけなしの金

なけなしの思い出

欲しいものは

何もない

あなたに告げるものも

ない

誠実であること

誠実であること

そんなもの

僕は裏切るだろう

そして

見損なって欲しい

いまはただ

この空を舞う

鳥のように

天に昇る

勢いのある

翼が欲しいだけなのさ

19歳の旅

言葉のかけらが降りてきては

それらがまとまらず繋がらない

ため息を吐くとふっと消える

窓ガラスの向こうの夜の空に

言葉がぶら下がっている

超能力でその言葉と交信してみたが

どうもいまの心境じゃない

違うんだよな、と思った途端

そのぶら下がりが地に落ち

きらきらとした都会の夜景は

色あせた

今度は時空を越え

あの頃のクラスメイトと会話を

交わしていると

やはりお前もかと言い

舞台はあの夏の日の話になる

あの夏の日

地元のチンケなガキが

アロハシャツをはだけて

喫茶店からたばこをくわえて

かったるそうに出てくる

もう何もやることがないな

蝉さえ鳴かないようなこの暑さ

この街

人もまばらな通りに

ふたりの目を引く張り紙があった

「豪華船旅でゆく沖縄」

アジア航空という会社がどういうものなのか

ふたりには興味がなかった

店内

話を聞いているうちに

どうせ暇だし、行ってみようかということになり

書類にサインをする

次の日から金を工面するため

横浜の港ではしけの荷運びの仕事をする

カンカン照りでの昼飯はビニール袋に入っていた

白飯とお新香と梅干し

コーラを飲みながら腹に飯を詰め込み

夕方ふたりはぼろぼろになって

金を手に電車に乗る

出発

竹芝桟橋で新・さくら丸に乗船する

本州の陸地に沿ってずっと航行を続ける

デッキで潮風にあたり

ビールをラッパ飲みしていると

吐き気がしてきた

初めての船酔い

船室に戻って寝込みながら

考えた

この先、俺たちは何処へ行こうとしているんだろう

一体、何をしようとしているのか

考えたが目眩がして

寝るしかない

ふたりで吐くのをこらえて

寝ることに集中した

二日目の朝

ふたりが船室の窓から

見たものは

いままで見たこともない

海と空の色

それは

夢のような夏の色だった

19歳の旅はこうして始まったが

あのチンケなガキの片割れはいま

川崎のとある会社の社長をしている

先日、半年ぶりに奴と話す機会があった

コスト、対中国市場の可能性と半導体デバイスの

展望について

「いまオレが社員のリストラ計画を作っていて

リストに出す名前を見る度に

うんざりするんだよな」と話し

もう嫌だよと吐き捨てた

戻りたいよな

あの頃に

相づちしか打てない

「19歳の旅」

そして

地元じゃ負け知らずのふたりが

横浜を出たのは

調度同じ頃だったような記憶がある

それから連戦連敗

やはり世間は広いと思った

東京で毎日続く他流試合

仕事そして子どもを育てて

生きてゆくということ

外の辛さが身に染みた

2杯目のコーヒー

なんとなく言葉がみえてきた頃

道に足音が聞こえる

夜が明け

いつもの喧噪が始まるのか

窓の外には

もう消えそうもない言葉が

浮かんでいる

洗面所でうがいをして

デスクに戻っても

たばこの煙を眺めていても

ついにその言葉は

消えることがなかった

コートを羽織って

外に出ると

暗がりの街並みの向こうに

薄い紅の空が

少しづつ

ゆっくり

広がりはじめ

星はうつろい

月はぼやけて

言葉だけが

輝いていた

もう一度だけその言葉と

テレパシーを試みてはみたが

憂鬱になることもなく

気が削がれることもない

それは

ビルの屋上の上にあっても

山の頂にあっても

色褪せることなく

私を魅了する言葉

19歳の旅

私の物語

19歳の旅ははこうして始まった

19歳の旅はここから綴られるのだ

そう

誰だって過去に生きられる

誰だって未来を夢見る

その言葉は

生きていることが

愛おしいことを

さも当たり前のように

語ってくれる