新月

 

新月の夜に

願いごとをすると叶う

そんな習わし

昔からの言い伝え

 

それはなぜ…

意味など導き出せない

 

とりあえずは願いごとを紙に書いて

すっと夜の窓辺へと差し出してみる

 

もっと楽な仕事がみつかりますように

別れてしまった妻が戻りますように

 

つまらない望みごと

だけどなにかいい予感がするなぁ

ちょっと嬉しい気になっている

 

願いごとをするとはそういうことなのか

 

見上げると夜空は漆黒かつ寒々しく

今夜は星さえでていない

 

月は明らかにそっぽを向いている

いや 宇宙の果てなどへでかけて

留守にしているに決まっている

 

この闇夜に乗じたのか

家のまわりを狐がうろつく

異様に光る複数の目

よそ者はかえれと警告している

しまいに雨さえ降ってきて

 

ああ そろそろ町へ下ろうか

 

 

うたがある

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

 

短編「猿番長殺し」(タイトルパクリ)

あまり大きな声ではいえないが、

先日私は衝撃的な話を小耳に挟んでしまった。

ああ、いまでも悪夢のような光景が頭に浮かぶ。

先日ご近所のAさん宅に上がり込んで、

と言っても頼まれごとで立ち寄っただけだったのだが、

新茶が入ったので一杯飲んでいったらということで、

お邪魔したのだが…

あれやこれやとよもやま話が高じ、

はあとか、そうですかとか私の返答も、

かなり平坦かつ不自然なものになってきた。

ここは山あいの静かな住宅街で、

東京・横浜方面への通勤もなんとか大丈夫という、

一応首都圏の一角ではあるが、

そうは言っても住宅街を一歩離れれば

うっそうとした山々が背後に鎮座する田舎である。

要するにここはトカイナカと呼ばれる地域で、

夜も6時ともなれば人通りも途絶え、

商店も皆無で、最寄りの駅からのバスは、

1時間に2本という不便さである。

という訳で、この住宅街も夕方ともなれば、

黒い山々が覆いかぶさってくるように、

その影を長く伸ばすのだった。

話もそろそろ尽きてきたし、昼も過ぎた。

腹も減ってきたので、

そろそろおいとましようと座敷を立ち上がり、

玄関でスニーカーに足を突っ込んでやれやれと

立ち上がろうとしたときである。

「そういえばさぁ」とAさんの奥さんが、

突然目を見開き、苦虫を潰したような表情で、

前のめりに私の肩を叩くのだ。

(ああ、また始まったなぁ)と

私は胸の内でつぶやく。

「ウチの対面の3軒先の空き家があるじゃない、

Bさんよ、Bさんとこの空き家ね、

あれ、まだ売っていないんだって。

でね、先日あそこの娘さんがあの空き家の掃除に来たんだって。

また住むらしいのよ。娘さん夫婦が。

でね、庭の木の枝や葉も伸びっぱなしだということで、

鎌を持ってきたらしいのよ。

でね、玄関を開けて中に入ったら、あんた、

猿がね、いたんだって。

もうビックリよね。

エライ大きいのがいたんだって。

そしたら向こうも驚いてキィッて歯剥いて」

Aさんの奥さんが金歯だらけの歯を剥いてみせた。

それは普段私が見たこともないおぞましい表情だった。

Aさんの奥さんの顔が上気してきた。

「えっ、それでどうしたんですか?」と私。

「でね、そりゃあもうお互いに驚いちゃってね。

そしたらさ、びっくりした娘さんがね、

無我夢中で手に持っていた、あんた!

その鎌をね、怖いねー、

猿に投げつけたらね、あんた、

その鎌の先が猿に当たったらしいのよ、

でね、それも怖いねー、

猿の頭にグサッてね、

刺さっちゃったんだってよ!」

Aさんの奥さんの顔が、

口いっぱいに梅干を含んだような表情に変化した。

「でさぁ、ぎぃえーとかぎょうえーとか

凄い声がして、あの娘さん、放心状態で

なにがなんだか分からないまま、

一目散に空き家を飛び出して、あんた、

あの家、それっきりなんだってさー」

私の脳裏に、

あの古いプレハブの家の台所が映し出される。

土地の広さは約40坪くらいだろうか。

建物の築年数は約40年くらいの、

当時はカッコよかったであろう、

しかしいまは、肌色の少し傾いた外観には所々に錆が目立ち、

門扉や柵はやはり錆で少し崩れはじめ、

古いブロックの階段の先にガタついた玄関ドアが、

たいした役目も果たさずに立てかけてある、

そんな記憶だ。

更に、私の脳が勝手に台所の様子を描く。

なにもないガランとした薄汚れた台所に薄日が差し、

流し台の下あたりだろうか、

その猿は額から血を流し、

薄い茶色の毛は血で黒ずんで束になって固まり、

両手両足をダランとさせ、

それでいてまだ半目を開け

こちらを見据えているのである。

「うーん、なんだか怖い話ですね。で、

その後あの空き家へは誰か入って、

室内の様子を確認したのですか?」

突然に覆いかぶせられた風呂敷を避けるように、

私の片手が平静を装おうとして勝手に動いている。

これが止まらない。

「冗談じゃないわよ、怖い怖いってね、

あれっきり誰もあの空き家へは行っていないんだって。

嫌だねぇ」

とAさんの奥さんは、もう笑っているではないか。

(この人のメンタルは一体どうなっているんだろう)

立ち直りの早いAさんの奥さん宅を後にし、

私はトボトボと歩きながら考えた。

そして確かこのあたりの猿には、

GPSが付いていることを思い出した。

数年前から急増した猿害により、

農家の畑が荒らされるだけでなく、

猿は住宅街にもしばしば出没していた。

これを問題視した地元の有志と

自治体が結束してつくったのが

「とっとと猿帰りなさい隊」だった。

そのとっとと猿帰りなさい隊は、

主な猿グループのボスを捕獲し、

GPSを付けて、再び放したとのこと。

これにより、山の猿たちが現在どこにいるのかが

一目瞭然となり、その傾向と対策によって、

猿害は激減したはずだったのだが…

しかし、猿社会にもやはりはぐれ者がいて、

こいつらはGPS通りに行動することはない。

単独行動でふらついているので、

どこで人が遭遇するか皆目分からないのである。

更に、これは私の経験と農業を営んでいる方から

聞いた話から導き出したはぐれ猿の印象だが、

奴らは人を避けるどころか威嚇するのである。

そして、はぐれ猿ほど、人を翌々観察している。

相手が子供であるとか小柄の女性だったりすると、

容赦なく近寄ってきて歯を剥く。

その被害は、ちょくちょく自治会報でも報告されていた。

私が遭遇したのはとある日の早朝だったが、

ちょうどAさんの奥さんが話していた

例の空き家付近だった。

最初は大きな猫か犬かと思ったのだが、

どうも朝日を浴びたその形容、姿は

まぎれもない大柄な猿だった。

私がその方角へ近づくと、

猿は大きな手を勢いよく上げたかと思うと、

今度は威嚇のためか、胸を膨らませて、

「それ以上俺に近づくなよ」と

警告しているようでもあった。

当然、この姿を見て

私は足早に今きた道を引き返したのだが、

朝日で逆光に映された姿は筋骨隆々で、

体毛がキラキラと光っている。

若き日のアントニオ猪木もかなわないであろう、

という印象だった。

ご近所の隠居しているおじいさんの話によると、

こいつは普段から民家の庭になっている木の実や、

家庭菜園の野菜なんかを食い荒らし、

どうやらその味を覚えたようである。

この大柄の猿が他のはぐれた猿を取りまとめて、

いわば番町のような地位に君臨し、

その縄張りを徐々に

住宅街の中に広げているということであった。

Aさんの奥さんの話を手繰り寄せる。

先のBさんの空き家で娘さんが遭遇した猿も、

相当大柄だったというから、これはひょっとすると、

Bさんの娘さんは、はぐれ猿の番長を

仕留めたのかも知れないとの結論に

私は達した。

今日は夜明け前から雨がしとしとと降っている。

昨日までの5月晴れはどこへやら、

どんよりとした厚く重たい雲が

この山あいの住宅街に垂れこめている。

私は、この季節にしてはめずらしく

厚手のジャンパーを羽織り、

いつもの散歩道を歩く。

散歩のコースは、

途中でBさんの空き家の前を通るのだが、

この朝は、ふとあの猿の死骸が頭に浮かんでしまった。

しかし朝の散歩3000歩をノルマにしている私の足が、

怖気づいて止まることはない。

なんといっても世の中は朝なのである。

これが薄暗い夜であれば当然コースを変えたであろうが、

私は頭に浮かんだ猿を必死で強制的に脳裏から削除し、

あたたかい日差しのなか、美しいバラが咲き乱れる

横浜の山下公園の情景を頭に浮かべた。

足取りは軽い。

ジャンパーに雨がはじく音がして、

グイグイと歩幅が広くなってゆく。

Bさん宅の空き家の横を通り過ぎるとき、

ふと気になってBさん宅の空き家に顔を向ける。

すると、少し開かれた朽ち果てた風呂場の小窓から、

包丁を額に差したままの猿が、

じっと恨めしそうにこちらを

見ていたのである。

これが現実の出来事なのか、

私が勝手に作り上げた妄想なのか、だが、

そうした事柄には一切触れたくないというのが、

現在の私の心境である。

恋唄

あの日から、

思えば12年も過ぎてしまった。

最近、またあの日のことが気にかかる日々が

続いている。

出張に託けて、再びこの駅に来てしまった。

吹き下ろす北風が胸を刺すように冷える。

線路の脇に植えられた木々の向こうに、

田園地帯が広がる。

ところどころに根雪が残り、

午後の陽を浴び、照り返している。

コートの襟を立て改札を出ると、

田舎町独特の駅前広場に出る。

人影はまばらで、

タクシー乗り場には暇そうなタクシーが2台、

客待ちをしている。

あの店のくすんだ壁紙が浮かんだ。

ロータリーを左へ曲がり、商店街を歩く。

朽ちていた薬局が新しく建て直されたらしく、

知らない若い女性が店の前を掃いている。

娘さんかな?

そんなことを思いながら足を速めると、

見慣れた店の看板が遠目に見えた。

真新しく拡張された歩道を歩きながら、

あの人のことを考えるが、

仕草、そしてはにかむような笑顔は、

もう、遠い日に封印されている。

大きなコーヒー樽が置かれた見覚えのあるドアをあけると、

静かなジャズが暗い店内の足元を這うように流れている。

ぼんやり見える店内の奥を覗くと、

目当てのボックス席が空いていた。

私は入口で手にしたライブのチラシを握りしめ、

そのボックス席に腰を下ろしてから、

「モカをください、ブラックで」

と代替わりしたと思われるマスターらしき人に、

何食わぬ笑顔で声をかける。

あぁと、ふと、ため息がもれた。

タバコに火を点け、

暗がりでチラシを見るふりをしながら、

やがて俯いて目をつむった。

私は、あのときの情景を、

丹念に蘇らせてみた。

それはとても些細なすれ違いが、

事の発端だったように思う。

「やはり東京に行くことになったよ」

「………」

佐恵が一瞬うなだれ、じっとこちらをみつめていた。

「どうする?」

佐恵の目に大粒の涙が光る。

「行きたい、だけど…」

「籍のことだろ、そのことなら心配ない

入れてから行こう、そうしよう」

「………」

「お父さんか、いやお母さんも駄目って?」

「何度話しても、

絶対に駄目だって…

頑として許してくれないの」

「…それで佐恵の結論は?」

「………」

俯いた佐恵の長い髪が一本一本光っている。

尖った赤い唇が震えている。

何度も話合った話題だったが、

やはり佐恵から快い返事を聞くことはできなかった。

今日が最後の話合いになることは、

あらかじめ、お互いの認識のなかにあった。

長い時間が流れたように思う。

冷めたモカをひとくち飲み、

僕は「分かった」とだけ答えた。

これが最後に交わしたことばだった。

それから3年ほどして、

地元の友達から、

佐恵が地元の名士の息子と婚約をしたことを知った。

しかし、後年、佐恵はこの名士の息子と離婚し、

ふたりの子を連れ、この町を出たという。

その後の足取りは、誰に聞いても分からなかった。

あの頃、まだ佐恵は私の連絡先を知っていただろうし、

住んでいる都内のアパートも教えてあった。

なぜ、この私を訪ねてこなかったのだろう?

私といえば、やはり一度結婚に失敗している。

それも佐恵より早く。

彼女はそのことを知っていた。

これは知人の女性から後に聞いた話だが、

佐恵は私の離婚の話を聞くと、

顔を伏せてすすり泣いていたという。

「どうぞ」の声に起こされ、

私は現実に引き戻された。

思い出のコーヒーカップに並々と注がれた

モカが運ばれてきた。

「あっ、どうも」

マスターらしき人の笑顔が

「ごゆっくり」と語っている。

ひとくち口に含んだモカの味は、

あのときより薄く感じられた。

そして、あったかいものがカラダを巡ると、

私はあることに思いを巡らした。

それは、まだ会ったことのない佐恵の

親御さんに会うことだった。

確か、佐恵の実家はまだこの辺りにあると、聞いていた。

彼女の親御さんは、

まずこの私を不審がるだろう。

しかし、私が事のすべてを話せば、

佐恵の手かがりが何か掴めるかも知れない。

こんな思いは、先ほどまで思い浮かばなかったのに…

モカの澄んだ苦みが、私の冷えた心に、

幾ばくかの勇気を添えてくれたようだった。

伏し目がちに笑う佐恵の笑顔が蘇る。

そして、動揺するとちょっと尖る小さな唇。

ふたりの子供か…

(佐恵なら、まあいいか、

良い子だな…)

レシートを握りしめ、

冷えた夕暮れの通りを更に奥のみちへ…

胸の迷いを打ち消すように、

大きくため息を吐くと、

私は佐恵の実家の方向へと歩き始めた。

(つづく)

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風の街  (小説)

5時を知らせるチャイムが鳴る。

いつものように、

いち早く職場の連中に軽く手を挙げ、

上着を掴んでビルの外へ出る。

「相変わらず息が詰まるな…」

いま自分が出てきたビルを見上げる。

古いイギリス様式のエントランスと、

その様式で飾った外観だが、

高く伸びたそのビルは、

県の機能をひとまとめにした

インテリジェントビルだ。

こんな一等地に派手なものを建てるから、

税金泥棒などとみんなから非難を浴びるんだ…

気がつくと、いつもの癖で、

私は苦虫を潰したような顔になっている。

ガス灯を模した灯りが並ぶ通りの雑踏を一歩脇に逸れ、

海方面へ向かって歩き出す。

今日はいつになく、浜風が強いな…

私は襟を立て、早足で歩く。

やがて人もまばらになり 

その店の灯りが見えると

私はポケットの煙草をまさぐる。

重い木のドアの真鍮の飾り物が

その店のオーナーの趣味だと聞いた。

龍が首をもたげているその姿から、

きっと縁起の良い昇り龍だと察する。

入口のドアを開けると、

囁くようなテナーサックスと

控えめなドラムの音が心地よい。

煙草をくわえ、店内を見渡す。

長く延びる床板の向こうは

客がまばらだった。

皆くつろいだ様子でソファに深く沈み込み、

グラスを手に、この店でのひとときを楽しんでいるようだった。

私は、年季の入ったアメ色の木のカウンターに座り、

ラムとトニックウォーターを頼んで

煙草に火を点ける。

海岸通り2丁目にあるこの店は、

ふと思い出すように、仕事の帰りに立ち寄る。

特別ジャズが好きな訳ではないが、

この店は気に入っていた。

本で少し調べると、どうもこの店で演奏されているものは、

スムースジャズというものらしい。

いつも静かに落ち着く音楽が流れている。

以前から居酒屋の煩さには辟易していたし、

そうかといって

勤め帰りに独りで飲む喫茶店のコーヒーも味気ない。

そんなときは此処へくる。

独り身の暇潰しには、恰好の店だった。

通い始めて半年後の夏、

私はこの店で、或る女性と知り合った。

その女性は若くて

私と不釣り合いとは思うが、

何故か気が合い、ここで逢うようになった。

彼女は栄子という名で、

近くの繁華街の片隅で

宝石とアクセサリーのお店をやっていた。

或る時、いつものように

私がカウンターでラム&トニックウォーターを飲んでいると、

入り口のドアが開き、

独りの女性が私の横に座った。

それが栄子だった。

彼女は座るなり、私と同じものを頼むと、

煙草を吸いながら

じっと音に聞き入っていた。

そして突然私に話しかけてきたのだ。

「このお店の名前、なんていう名前か知っています?」

「いや、そういえばなんという店だったかな」

「やっばりね、知らない人が多いんですよ」

彼女の話し方には屈託がなかった。

私は店の入り口を改めて思い浮かべたが、

看板のようなものは見当たらなかった。

そして気にもしなかった。

「名無しのお店でしたかね」

「いいえ、ちゃんとあるのよ」

「そう、なんていう名前かな」

「東風」

「トンフウ?」

「そう、東の風と書いて、東風」

彼女は、ここから東の方向は

海なのよね。そして、

海の向こうにはアメリカ大陸があるのよ、

と言った。

「しかし、東風って中国語の名前だね」

「そうよ、この店のマスターは

華僑、二世なのよ。

で、ジャズに溺れたってことらしいの」

「詳しいね」

「ええ、私ここのマスターの奥さんに

占いを教えてもらっているの」

「占い」

「この店の奥さんってね、大陸生まれで、

北京大学卒の超エリート。なのにお役人にもならず

ビジネスのチャンスも捨てて、

中国に古く伝わる占いの勉強ばかりしていたらしいのよ」

ところで、占いはお好きと、

彼女が突然尋ねたので、

まあとだけ応えて、

私は暇な時間を潰した筈だったが、

話はとても興味をそそるものだった。

栄子の話によると、

私の存在は、会う以前から知っていたと言う。

栄子がここのオーナーの奥さんから借りた

「華源」という鏡にある呪文を唱えると、

近く出会える人として、私がその鏡に

映し出された、と言うのだ。

「ほう、それは驚きだね?

その鏡に映った私というのは、

どんな恰好をしていたのかな?」

栄子が上体を引いて、

改めて私を眺めて笑った。

「だから、この恰好よ。

ちょっと冴えないグレーのスーツに、

紺のレジメンタル、

で、このカバンでしょ。

全く同じなのよ」

「では、なぜ私が

この店に居ることが分かったのかな」

「入り口の龍の真鍮が見えたわ。

それに、このアメ色のカウンターも。

ね、ここに間違いないのよ」

「まるで、FBIの透視捜査官だな」

「まあね、そういう訳で、あなたの隣に座ったの」

屈託なく、栄子が笑う。

私は、うなずくしかなかった。

その日、店を出ると、

店の横の橋げたに降り、

海に続く運河を独りで眺めてた。

風は相変わらず強く、

水面も揺れ、

映し出すビルの灯りがゆらゆらと

蝋燭のように揺れていた。

10月の風は、涼しく、

酔い覚ましにはもってこいの心地よさだった。

公務員を長く続けていると、

仕事の中身も、職場への行き帰りも、

すべてがパターン化されていた。

幾度か転職を考えた時期もあったが、

特別になにがやりたいというものもない。

一度、貿易というものに興味をもち、

幾つか資料を探しに本屋や図書館にでかけてはみたが、

覚えるものが多すぎて、

自分の手には負えないなと思った。

去年別れた妻は、

いま同じこの街で働いている。

私たちに子供はいなかったので、

2匹のミニダックスフンドを可愛がっていた。

その犬も妻に連れて行かれ、

現在私のマンションは、がらんと静まりかえっている。

私たちが別れた理由は、

いわゆる性格の不一致だろう。

彼女は、なにもかもが派手で、

一緒にでかけるときなど、

いちいち私の服装にケチをつけ、

それを直さない私に呆れ、

ついに離れて歩くようになった。

しまいには二人してでかけることもなくなり、

彼女はより派手さを増していた。

しかし、元々そうした女性ではなかった。

どちらかというと、

家に閉じ籠もり、

のんびり家事をこなしているのが好きな性格だった。

そんな彼女を表に出させたのは、

私がつまらない人間だったことに起因する。

なんの趣味もない、会話もロクにしない男が、

毎日毎日、朝8時に家を出て、狂いなく5時半に家に帰ってくる。

そして、楽しい話題を口にするでもなく、

食事を摂る他は、寝るまでテレビを観ていた。

こんな生活を15年も繰り返していて、

遂に彼女が反旗を翻したのだ。

積もり積もったうっぷんが一気に噴き出したのだろう。

いま思えば、

彼女は平穏な生活を望んでいたのは確かだが、

そこには、何か満たされたものがなければならなかったのだろう。

私には、その才覚ががなかったということだ。

メロウなピアノの音が退けると、

店内のどこからともなく静かな拍手が起こり、

BGMが流れて、少し明かりの数が増した。

振り向くと、一番奥の席で、

栄子が中腰でこちらに手招きをしている。

近づくと、

「先に来ていたのよ」

と私の鞄をとってお疲れ様と言う。

見ると、テーブルの上にずらっと石が置かれている。

「なに、これ?」

私が石をとって眺めていると、

栄子はジン・ライムの氷をかき混ぜながら、

「あなたのこれからを、今夜占おうと思って、

わざわざ店から持ってきたの」

「そう」

栄子の説明によると、

この石の占いは‘最後の判定’と呼ばれ、

一生に3回しか当たらないということだった。

私が職場のことで悩んでいたことを、

気にかけてくれての決断だったらしい。

どうする、という栄子のことばに、

私はすぐさま反応した。

「いいよ、観てくれよ。

その通りにするよ」

「本当にいいの?」

「いいよ」

タバコの火を消して、

私はその占いとやらを眺めることにした。

そして、他人事のように眺めてはいるが、

私はその結果に従うつもりでいた。

複雑な模様柄が彫られた銀製の皿に、

サファイヤ、トルコ石、メノウ、

水晶、ルビーの他、

名の知らない石も幾つか置かれている。

栄子が呪文のようなものを唱える。

私がぼんやり見入っていると、

心なしか、水晶がわずかに動いた気がした。

いや、酔ったかなと思う。

が、今度は透き通って光るルビーの小粒が、

心なしか動いているように見える。

そして、次第に皿の中のすべての石が動き出した。

呪文が終わる頃、

サファイアがジッジッと音を立てて、

それはハッキリと分かるほどに移動した。

気がつくと、

栄子の顔から流れるほどの汗が光っている。

それは不思議な感覚だった。

そして、栄子が銀の皿をみつめて、

話し始めた。

「あなた辞めたら、会社。

元々お役人が性に合っていないのよ。

本当はね、そういう人。

あなたは本来、とても自由なの。

自由な生活と自由な仕事が合っているの。

仕事でずっと辛かったのは知っていたけど、

あなたがこのままいまの所にいると、

そうね…

ハッキリ言うわ。

あなた、あと数年で、

あのインテリジェントビルから飛び降りることになるわよ」

あのことがあってから一ヶ月後に、

私は役所を早期退職した。

いまは、あのマンションも引き払い、

栄子のマンションに居候をしている。

この結末が後にどう出るか私にはよく分からないが、

いまは気が楽になり、笑い顔も増えたと栄子が言う。

そして、最近分かったことだが、

栄子は見た目ほど派手ではなく、

どちらかというと、暮らしは地味だった。

そしてなにより、

私といると心が落ち着き、

更に私といると楽しい、と言ってくれたことで、

私は救われた。

私も栄子と暮らすようになって、

少しづつ楽しみが増え、

また宝石やアクセサリーというものを知るようになり、

いまでは石の判別やその価値、

デザイン性なども分かるようになってきた。

年が明けたら、私も栄子に同行して

ふたりでネパールへ行き、

現地での石の初買い付けを経験することになっている。

自分の生活が、あの日から一転し、

すべてが移り変わってゆく。

このことがどうであるのかはさておいて、

自分の人生の転がり様が、自分でもおかしかった。

生まれて初めて、

ジャケットの下にピンクのシャツを着て、

昼間に、あのインテリジェントビルの横を通り過ぎた。

昼時とあって、あのエントランスからゾロゾロと人が吐き出される。

私はその風景を眺めながら、あの人たちが皆何を考えているのかが、

すでにさっぱり分からないようになってしまった。

そして、久しぶりに苦虫を潰したような、

かつての自分の表情を思い出し、

それがなんとも懐かしく思われた。

この道から、

いつも歩いていたように、

海風が吹いている海岸通り2丁目を過ぎて、

今日はその先のとあるビルの一室で、

インドから来た青年実業家と、

宝石の商談がある。

タバコをくわえ

ジャケットの襟を立てて歩いていると、

いつもの「東風」の店内から、

甘くやさしいジャズの音が、漏れ聞こえてくる。

橋のたもとの、

突堤に横付けされたボートが揺れているのを眺めながら、

私は生まれてからずっと海の近くにいたことに、

ふと気がついた。

沖に浮かぶ豪華客船の鮮やかな船体にはじける、

潮の動きの美しさを、

私は初めて見た気がした。

(完)

タイムトラベラー (短編適当小説)

病床に伏している老人がいる。病院だろうか。

クリーム色のワゴンの上に、一輪の花が差してある。

家族らしき人たちが、その老人の傍らで先生と話を交わす。

「もうね、いいでょ。やることはやりましたしね」

長髪の先生が、白い髭に手をやり、落ち着いた口調で話す。

そして、そうですねと、

奥さんとおぼしき老婦人が、ぽつんとつぶやく。

娘だろうか、彼女の手がベッドの老人の手を撫でる。

息子はずっと窓の先の景色をみつめている。

海の見える病院だった。

俺は、その後ろに立っていた。

あぁっ、と溜息をつく。

俺は、絶対に見てはいけないものを見てしまった。

が、遅かった。

病室でのやりとりを見た俺は、後ずさりし、

冷や汗をかきながら、廊下を突っ走る。

誰かが「走らないでください!」と怒鳴る。

「うるさい、俺はいま、自分の最後を見てしまったんだぞ!」

そうわめきながら階段を駆け下り、

そして俺は、アタマが真っ白になってしまい、

ふわっとした感覚とともに、

気がつくと、2012年のその日へ戻っていた。

ひえぇっ、

冷や汗をぬぐい、俺は水道の水をゴクゴク飲む。

…あの場面って!

一体あれは、西暦何年頃なんだろうかと考え、

いや、とかぶりを振った。

「そんなことは知らなくていいんだ」

冷静になるまでに1時間30分はかかったろう。

「やはり未来なんてところへは、特に自分の死に際なんて

絶対に行くもんじゃないな…」

少し冷静になって、改めてあの場面を思い出すと、

まあ日本という国も、この先あるらしいということが分かった。

息子も娘も元気だった。

それにしても、ウチの奥さんの老けぶりは凄いな。

そしてである。

自分も当たり前に死んでゆく姿を確認した訳である。

いまは信じられないが、である。

そうだ、人は死ぬんだ!

ビタミン剤を飲もうが、毎日身体を動かして頑張ろうが、

すべての人は例外なく、富も貧乏もすべて、

死に向かってきょうも生きているのだ。

俺は、数日前から控えめにしていたタバコをぷかりとやる。

その日は仕事が手につかず、ずっと考え込んでしまった。

そして、自分の禁じ手である未来へ行ったことを、

俺はひたすら後悔した。

死に際、というキーワードは今後一切御法度だな…

その日の晩、俺は古い友人と街の居酒屋へ繰り出し、

へべれけになるまで酔っぱらってしまった。

友人に、この病室で見たできごとを話すと、

彼は俺の話を悪いジョークでも聞くように軽くいなし、

次々と話題を変えてゆく。

店を出て自宅に辿りつくまで、

俺は2度ほどクルマに轢かれそうになった。

次の日の朝方早く起きた俺は、

延々と遅れた我が社のスケジュールに目をやり、

この先どうしたものかと考えていた。

そしてええぃと捨て鉢になっていたとき、

あることを思いついた。

そもそも、

いまの俺のスケジュールを圧迫しているのは、

あの日、適当な見積もりと締め切りを申し出た俺が、

すべての原因だったことを思い出した。

酔い覚めに飲んでいたコーヒー味の豆乳パックを放り投げ、

俺は例のパソコンのアプリを立ち上げる。

「タイムトラベラーVr.3プレミアム版」

ブラウザに美しいデザインのサイトが立ち上がり、

要求されたIDとパスワードを入れると、

幾つかのキーワードがある。

俺は、すかさずあなたのご希望の年月日、

と書かれたページへとジャンプする。

そして、約3ヶ月前の日時を入れる。

パソコンの画面に幾何学模様があらわれ、

インドの寺院で聴けるような不思議なメロディーが流れる。

しばらく経つと俺はウトウトし始め、

ハッと気がついたときには、A社の宣伝部のドアの前にいた。

俺は背広を着て、事前に送信した見積もり書を手にしている。

切れモノと名高い、A社宣伝部の青井さんがあらわれた。

そして、にやにやしながら、彼が第一声こう切り出したのだ。

「ホントにお宅、この見積もり安いね、

仕事も早そうだしね。

でさぁ、この値段と期日でホントに大丈夫?」

3ヶ月前、俺はこの日ここでこの青井さんに、

「もちろん、全然OKです!」

とへらへらしながら言い放ってしまったのだ。

相変わらずの俺の軽薄さが、現在の我が社の混乱の元なのだ。

で、俺はキリッとした顔で背広の襟を直し、

こう切り出す。

「見積もりはこの通りです。

間違いはございません。

でですね、締め切りのほうなんですが、

その後いろいろ考えまして

スケジュールを綿密に組みましたらですね、

ええ、もう2週間頂けると、

かなり完成度の高いサイトに仕上げることができるかと…

ううん、これはあくまでご提案ですが…」

青井さんの眉がピクッと上がった。

「ほほぅ、2週間延ばしか。

 完成度ね。

 出来が、あの打合せのレベルから更にアップしちゃう訳ね?」

「そそっ、そうですね、ハイ!」

俺はハイだけ、キッパリと言い放った。

気難しい時間が流れる。

そして青井さんが切り出す。

「いいよ、いいよ。ウチもその完成度に期待しましょ!

ウチはさ、そもそも下手なものは世間に出せないしね。

なんてったって業界一のリーディングカンパニーだから。

じゃあ、

世界一のいいものつくってよ。 期待しているからさ!」

俺はモーレツなプレッシャーを感じたが、

この際締め切りが延びるのならどうでもいいだろうと思い

「ありがとうございます!」と

深々とアタマを下げる。

そして俺は、

膝の上に出していたタブレットに映し出されている

「タイムトラベラー」のアプリ画面に、そっと目をやる。

赤く大きく書かれている「リターン」の文字に触れると、

突然景色が回り出し、耳がキーンと鳴った。

次の瞬間、今度は身体がふわっとして、

気がつくと俺は、

自宅の居間でタバコを吹かしていたのだ。

おや、あそうか、

青井さんとこの仕事、

2週間延びたんだっけ…

ヒヒヒヒッ!

手帳に、青井さんの会社のサイト制作の締め切りが、

2週間も延びたことを記す。

はい、これで余裕です。

俺は小躍りをし、この秘密の最新アプリに感心した。

なんと言っても、未来はいかん。未来へ行ってはいけないな。

そう、このアプリは、過去へ行って初めて価値が上がる。

ようしと、少し時間の余裕ができた俺に、

次のアイデアがひらめいた。

見覚えのある教室で、俺は席に座り、授業を受けていた。

あっ、清水先生だ!

思わず声を発した俺に、教室のみんなが振り返る。

オオオっっっ、みんな知っている顔顔顔。

久しぶりじゃん!

俺がニタニタしてみんなに愛嬌を振りまくと、

英語の清水先生が黒板を叩いて

「ビー・クワイアット!」と叫んだ。

いっけねぇ

みんながゲラゲラと笑い、

そしてし~んとなって、授業が進む。

俺はななめ前の飯塚さんをうっとりと眺めた。

やはりな、この女性だよな。

永い人生を歩んできた俺だが、やはりこの人が、

俺の人生史上の最高の女性に違いない。

俺は過去、このひとに振られてから、

常々人生が狂ったような気がしていた。

この敗北感は、中年になったいまでも引きづっていて、

なにか良くないことがあると、

どうせさ…と愚痴るのが俺の癖だった。

その元凶がいまここにいる。

この場面さえひっくり返せばと、

俺はつい力んでしまった。

「タイムトラベラーの有効時間は30分、

んんんんん、

あと15分で一世一代のアタックをしなくては…」

学生服の喉のところのプラスチックのカラーが、

ぐっしょりと濡れている。

手に異常な汗をかいている。

息が苦しい。

俺は思わず咳き込み、げぇっーと声を発してしまった。

と、そのとき、

人生最大のあこがれである飯塚さんがこちらをちらっと見て、

小さく、他の人には分からないように「チッ!」と言い、

軽くそっぽを向いて、なんと教室を出て行ってしまったのだ。

清水先生が飯塚さん、フェア?と訪ねる。

そのとき、チャイムが鳴った。

「あああっ」と俺。

時間がない!

みんながパラパラと席を立つ。

俺は教室を飛び出し、またまた廊下を突っ走る。

遠くに飯塚さんの清楚な後ろ姿がみえる。

と、俺はドスンと柔らかい壁のようなものとぶつかり、

その場に倒れた。

「馬鹿野郎!」

見上げると片山のドデカい図体がそびえている。

「謝れ!」

片山はこの学校の番長だ。

相変わらず怖いな…

俺が息を切らして小さく

「ススス、スイマセン」とつぶやく。

「気をつけろよな、このイタチ野郎!」

このコトバに、俺は割とカチンときてしまい、

いま現在の自分目線で反応してしまい、

こう言ってしまったのだ。

「君さ、口を慎みなさい。

 人には言っていいことと悪いことがあるのは、

 君も分かっているよね。

 そこんとこ、どうよ」

「なんだと!」

片山君がいきなり殴りかかってきた。

ひぇぇぇぇ。

そのとき、

廊下の先から、飯塚さんが振り返り、

ちらっと見ていたのは記憶している。

確か、少し笑みを浮かべていたような気がする。

次に目覚めたとき、

俺は保健室に寝かされていて、

懐かしい顔が、私に絆創膏を貼ってくれている。

おおっ、この美しい人は、

当学校のマドンナの早百合先生!

それにしても、目尻のあたりがヅキヅキとうずく。

鼻血も垂れている。

「バカね、片山君なんかと喧嘩して。

まあ、ちょっと腫れるかもしれないけれど、

大丈夫よ!」

「ええ、スイマセン。いや、

ありがとうございます」

先生の冷たく細い指が額に触れる。

ああ、この女性でもいいのかな?

そんなことを考えているうちに、

俺は飯塚さんのことはどうでもよくなってしまい、

もう彼女を追いかける気力も体力も

失せていた。

「早百合先生、僕、あの~」

そう言いかけた次の瞬間、

俺の身体はふわっとなり、

気がつくと俺は、自宅の居間で、

イチゴ味の豆乳を飲んでいた。

痛てててっっ。

チクショーと何度も言いながら、

俺はティッシュを鼻に突っ込む。

洗面所へ行って鏡を覗き込むと、

不思議と俺の顔に異常はない。

あれっ、顔が腫れてないな?

それにしても

やはり飯塚さんを追いかけるべきだったなと

後悔する。

早百合先生に気をとられ、

我が人生の痛恨のミスを犯してしまった。

がしかし、なんてったって、制限時間が短すぎるよな。

で、あの片山の奴は迷惑なんだよな。

あいつ今頃どこでなにしているのかな?

そんことを考えながら、

俺は、タイムトラベラーのマニュアルに目をやり、

メルアドをさがす。

そして、この制作者宛に、

制限時間の延長を要求する文面を延々と書いた。

へへへっ、俺の次のタイムトラベルは、

競馬場なんです。

もう、これですね、

ここしかないでしょ!

優勝馬が分かれば、遡って、

俺は馬券をガンガン買っちゃうからね!

そう、目標一億円!

俺、大金持ちになります!

俺の志は、どんどん下世話になってゆく。

そして、或る日、タイムトラベラーのアプリの制作者から、

謹啓と書かれた一通のメールが届いた。

メールを開いて、俺は驚いた。

そこには、こう書かれていたのだ。

謹啓。

この度は、弊社のアプリ

「タイムトラベラーVr.3プレミアム版」をダウンロードして頂き、

誠にありがとうございます。

さて、このアプリの時間延長のご要望に関してですが、

環境設定のバナーをクリックして頂くと、

制限時間は如何様にも設定可能となっております。

もう一度マニュアルをお確かめの上、使用されるようお願い致します。

さて、ダウンロード時の注意事項にも記しましたが、

このアプリは、あくまでゲームですので、

現実社会及び時空を移動するとは、

あくまでゲーム使用者本人の脳内で起こる変化によるものであり、

よって、現実社会及び時空の変化はみじんもありません。

上記注意事項を今一度ご確認の上、

当アプリを楽しんで頂けると、

私どもと致しましても嬉しい限りです。

今後、尚一層の精進を致すべく

新バージョンの開発を致しますので、

末永いご愛顧をよろしくお願い致します。

株式会社 MABOROSI

代表取締役 INCHIKI TAROU

(完)

花伝説(その4)

遠く巨大な洞窟のある山の麓で

老人は空を見上げていた

私の準備はできていた

老人が言うには

この巨大な穴から吹き出る風は

地の底から生まれる大地の息だと言う

この風に乗れば山を越え

遠くに見える峰を越えて

その地へたどり着けるという

その地に何があるのか

私にはいまも分からない

しかし

風に乗って空を飛んでいくとき

お前に分かるものがあると

その老人は言った

私は重いリュックを開け

羊の皮で縫った大きな羽のようなものを広げ

それを背にして

ひとつひとつの紐を

体にしっかりと括り付けた

風によろけ

そしてつまずく

しかし

失敗は絶対に許されない

これは私に課せられた使命なのだ

私は意を決し

勢い、風のなかに身を投げた

羽は森の木のツルと葉でつくったが

この強風のなかで

強靭なツルは泣くようにしなり

葉は裂けるようにばたついていた

風の強さに息が止まりそうになる

落ちかけた私の体が吹き上げられ

そして

空めがけて一気に上昇した

雨粒が激しく全身を打つ

羽は風を受け

そして山の頭上を越えた

ほうぼうの景色が見渡せる高さに達した

私を乗せたカイトの上昇は続き

羽はやがて穏やかな風をはらんで

いつしか雨雲の上に出ていた

辺りが急に明るくなり

太陽がギラギラと照りつけた

そして

見えるものは

私が生まれて初めて目にする

美しい景色だった

雲の波間は光り輝き

青い空の下に黄金色が広がる

雲の切れ間からは地上の街を見下ろせる

もし天国というものがあるとするなら

こんなところではないかと

私は思った

やがて

雲の上を流れる気流に乗り

私は東の方角へと流れて行く

陽光がきらめく雲海の上を

私は数日かかって飛び続けた

夜は星が広がり

月は煌々と照り

それはそれで

この世ではないような気がした

ある朝

カイトが誘われるように

下降を始めた

カイトがめざす所

それは私の街から遠く離れた

小さな島だった

海岸に降りた私は

カイトを外し

ずっと辺りを眺める

島は波打ち際からずっと平坦で

草原が広がっていた

そして島の中心に一本

私がめざすと思われる大木が鎮座する

見上げると

枝が無数に絡み合い

その先の葉は勢いよく生い茂り

隙間から不思議な赤い花が

覗いている

「慈しみの花だ!」

あの池の傍らで

老人が私に話した

あの伝説の花を

私はみつけたのだ

老人は言ったのだ

「慈しみの花は

この世にふたつとはない花なのじゃ

わしもいまだその花を見たことがない

おまえはそれを持って帰られよ

これはおまえの仕事である

その花の不思議な力は

誰をも穏やかな心にする力を秘めておる

さあ

後は言わんでも分かるな…」

(完)

花伝説

No.1

峠でひと休みしていると

一匹の子ギツネが

草むらからノロノロと出てきて言うには

この森を抜けた先に

あなたの探している老人が待っている、とのこと

腰をおろして食べかけのパンをかじる私は

やはりこの道に間違いがなかったと安堵した

赤い鳥が二羽、洋松の枝で鳴いている

キキキキッッっと、鳴き声が山を越えてゆく

森を抜けると

遙か峰の重なりが見える

中腹まで下ると池が見えた

傍らに、人影があった

木の幹に腰をおろしている

あのときの老人だ

背を向け、池を眺めている

私が近づくと

すでに誰だか分かっていたかのように

話し始めた

「やはり来たか」

老人は立ち上がると

こちらを向いて微笑み

白い衣をたぐり寄せると

杖を空にかざした

「しばらくぶりです」

私が言うと

「うん」と

分かっている風に

老人は背筋をピンと張り

歩き始める

薄暗い森をふたつ通り過ぎる

やがて視界がひらけ

次第に急斜面に広がる丘が見える

その丘から更に上を見上げると

反ったように天に伸びる

断崖のようなものがそそり立っていた

目を凝らすと崖の遙か遠い中程に

大きな穴のようなものが空いている

遠くに見えるその穴からは

絶えずヒューヒューというごう音が

ここまで届く

不気味としか言いようがない

その辺りの空気は

遠目に白じれて

突風が吹き出ているのが分かった

老人は再び杖をかざして

「あそこがそうじゃ」

と私に振り返る

「はい」

そう言い、私は背負っている大きいリュックに触れ

再度中身を確認した

崖の洞穴までは粗く削った階段のようなものが刻まれている

私の決意に変わりはない

「では」

「うん、気をつけるのじゃぞ」

私は老人に会釈をして階段を上り始める

「決して引き返してはならん」

「はい」

雲が低く垂れ込めてきた

上に登るに従い高い峰のつづらが見えてくる

それは緊張からくるものなのか

足はガクガクと震える

そして次第に息が上がってきた

私が背負っている荷物は20㌔はあろうか

そして不気味な音だけが次第に近づく

雨がポツポツと降り出してきた頃

ようやくその巨大な穴の真下へと辿り着く

洞窟の入り口は思ったより広く

飛行船位は飛べそうな大きさだった

中を覗くと暗闇が続き

どこまでも底なしのように思えた

ゴーゴーと吹き上げる風は

私を拒むように凄みを増し

それは地の底から吠えるような

人々の叫びのようにも聞こえた

私はふと

ここまでの道程を振り返ってみた

思い起こせば、私は以前

ふもとの街で

何の変哲もない花屋をやっていたのだ

この頃までは平和なときだった

しかし、あの戦争が始まったのだ

(つづく)

日付変更線 (story9)

前号までのあらすじ

(再び南の島で再会した二人は

孤島で一日を過ごす

それは僕にとって

忘れられない日であり

人生における或る決断の

きっかけとなる)

コロールに戻った僕たちは

一旦シャワーを浴びに

それぞれの所へと帰った

僕は部屋で

ジェニファーのことばかりを

考えていた

そして、あのゴーギャンのことも…

ポロとスラックスに着替え

再び彼女に会うために

ホテルのフロントに寄る

と、例の金髪女性が

「ジェニファーはとても素敵な子よ、

そしてロマンチック

あなたにピッタリだと思うわ」

と言って鍵を受け取る

とっさに僕は

「ああ、全力を尽くすよ」

と笑顔で返す

ホテルの前で

僕らは待ち合わせていた

今度は以前と違って

二人して堂々とでかけられる

木陰のベンチに寝転がっていると

ジェニファーの赤いTOYOTAが

ホテルの前に滑り込む

運転席の彼女は

赤い花をあしらったTシャツに

ホワイトジーンズをはいていた

「今度は僕が運転しよう」

「OK、頼むわ」

エアコンを切り

窓を全開にして

僕たちは

南へクルマを走らせる

遠くのリーフから

珊瑚礁にぶつかる波が夕日に光る

島の突端のカープレストランに着くと

今日はもうお客さんはいなかった

それは

波打ち際のガランとした駐車場を見れば

すぐに分かる

打ち寄せる波に揺れるはしご階段を降り

船内へ入ると

あのときと同じように

窓際のテーブルに座る

ジュークボックスから

カーティス・メイフィールドの嘆くような

独特の高い歌声が響く

僕たちは

簡単な食事を済ませ

ゆっくりと

バーボンを飲むことにした

話は、仕事、家族、都会と自然

そしてお互いの人生観へと移る

3杯目のバーボンが空になったとき

ふとジェニファーが

東京に好きな子はいるの?と

僕に尋ねる

「好きな子?

それは何人もいるさ

だけどそれだけさ

後は何もない」

それはloveではなく

likeだと彼女に説明する

「それは

あなたがやさしい証拠

寛容なのね」

彼女が皮肉混じりに笑い

バーボンの入ったグラスを置いて

宙をみつめる

いや、違う、

ジェニファー、それは勘違いだよ

僕は

改めて、彼女の魅力的な第一印象

そして彼女に対する熱い想いと

いまの素直な気持ちを話した

過去に幾度か、こうした場面で

自分の気持ちをはっきり伝えられず

いわゆる恋の敗者になっていたので

僕は酔いをできるだけ醒まして

冷静にゆっくり、すべてを話すよう努めた

そして

なんとか話し終わると

僕はぐったりして

窓に目をやる

あのときと同じように

ブイが

黒い波間に揺れて光っている

再び、酔いがまわってくる

ジェニファーが、突然隣に座った

そして僕にキスをすると

「あなたは誠実な人ね」と言った

「ありがとう」

それから僕たちは

時間を忘れるほどに

ずっと抱き合っていた

「一緒に暮らしてみようか?」

「それも、いいかもしれないわね」

大海原に浮かぶ小さなカヤックのように

僕の行方もまた大きく揺れる

或る出会いがあって

それが僕の生きる価値と重なったとき

きっとそれが

進むべき方向なのだ

二人で店を出ると

信じられないほど明るい満月が

海と遠くの島々を

影絵のように照らしている

南の島独特の

温かいスローな風が

二人の頬を撫でる

(僕とジェニファーの物語が

ここから始まるのだ)

時折

僕のアタマのなかで

ゴーギャンの自画像が

こっちを睨んで

笑っていた

(完)

日付変更線 (story8)

前号までのあらすじ

(再び南の島を訪れた僕は

日に日に蘇ってゆく

そして気にかかるのは

ジェニファーのこと

果たして美しい彼女は

まだこの島で暮らしていた)

ジェニファーと再会した2日後

僕は彼女とロックアイランドへ

でかけた

二人を乗せたシーカヤックは

穏やかな波の上を

滑るように進む

木々が生い茂る

小さなこんもりとした島が

幾つも見えてきて

その間を縫うように

漕ぐ

水に触れた風が

二人の汗を乾かし

暑さを柔らげてくれるので

僕たちは

なんとか漕ぎ続けられた

やがて

誰もいない白い砂浜が広がる

孤島に辿り着く

周囲が見渡せるほどの

小さい島だ

白いビーチの向こうに

一本の椰子の木が

風に吹そよいでいる

僕たちはシーカヤックを

浜へ引き上げ

中から手荷物を持ち

椰子の木の下にクロスを広げて

早速寝転がる

真向かいの大きな島には

白い大型クルーザーが停留している

「あれは?」と僕が指さすと

ジェニファーが

「世界中を船でまわっている

大富豪らしいの、

凄いわよね」と言ったが

その表情は

興味なさ気だった

ミラーの缶ビールを飲みながら

彼女が最近覚えたという

手作りの椰子蟹グラタンを食べてみる

「美味いね」というと

彼女が「ホント」と嬉しそうに笑う

「ホントさ、これは美味い」

僕は

東京の会社を辞めたことを話した

彼女は「そうなの」と言って

遠く波間の辺りを眺めている

「これからどうするの?」

「働くさ」

「そうね」

「この島の観光ガイドとかって

どうだろう?」

「ええ、いいんじゃない」

ジェニファーが少し笑う

僕は彼女に尋ねる

「ジェニファーこそ

なんでアメリカへ帰らないの?」

彼女が少し戸惑ったように間を置く

「例の彼は帰国したのよ」

彼女がキッパリと言う

「そう」

「私はね、いろいろ考えた末、この島に残ることにしたの」

「彼は?」

終わったの、と彼女が言うと、

飲み終わったミラーの缶を

白い砂の上に放り投げた

二人は沈黙し

長い時間が過ぎた

耳に囁く海風と

白いビーチに打ち寄せる波

遠いリーフの泡立ちの音が混ざって

この島の音楽になる

僕はこのとき

何故だか不意に

生きていることにとても感謝してた

それは生まれて初めての体験であり

とても不思議な感覚だった

ジェニファーが

「私ね、いま島の東にある浜で

お店を始めたの」

とつぶやく

「そう」

「店のオーナーがオーストラリアに帰国して

後は好きにしていいよって…」

「ふーん、大胆だね」

「金持ちだからね」

彼女がぺろっと舌を出す

聞けば

その店は簡単な食事と

ドリンクと島の花と

貝殻のアクセサリーを扱っているという

「おもしろい?」

「うん、とても」

ジェニファーが続ける

「お店ってね、やってみると大変なの、

結構朝からてんてこ舞い

なのに

あまり儲からないのが笑えるわ」

僕が

「この島に対する

国別ごとの観光客が求める

嗜好についてのマーケティング・プランを

作成してみようか?」

とふざけると、彼女は

「そのマーケティングという言葉は

聞きたくないわ」

と大げさに笑った

陽が波間に近づき

空と海がオレンジに色づいてきた

「そろそろ帰ろうか?」

僕が立ち上がると

彼女がおもむろにこう言った

「この話のつづきを

カープレストランでしない?」

「OK!そうしよう」

(つづく)