「19才の旅」No.5

 

グアム島で失態を演じたボクは、

早々に次の島へ逃げた。

 

いや、先を急いでいただけなのだが、

客観的に捉えると「逃げた」と言えなくもない。

 

パラオへ向かう途中、ボーイング727は、ヤップ島へ降りた。

まるで、空の各駅停車だ。

 

上空から見たヤップ島はヤシの木しか

見当たらない。

建物とか人工物がほとんどないような印象。

これから降りるであろう滑走路を見下ろすと、

真っ白で光を照り返している。

727の機体が接地するとガタガタと激しく揺れる。

 

そこはまだ未舗装で、

サンゴとか貝殻が敷き詰められていた。

 

滑走路の横にバラックの掘っ立て小屋がひとつ。

そこが空港にある唯一の建物だった。

 

窓側に座っていたボクは、外に広がる景色と、

そこに集まっている島のひとたちをみて、

たちまち釘付けになってしまった。

 

掘っ立て小屋に連なる木の柵には、

たくさんの人が突っ立って、こちらを凝視している。

 

その向こうは広大なヤシの木の原生林が密集している。

 

ボクたちと同じように、Tシャツに短パンの若者もいるが、

腰みののようなものしか身につけていないおばさんや

お年寄りが、かなり目立つ。

 

建物の横には、直径2メートルもあるであろう

大きくて丸いかたちをした石が置いてあり、

よくみると貨幣のような彫りが施されている。

 

浮き足だってしまったボクは、

まるで夢遊病者のようにタラップを降りてしまった。

 

我に返るとボクは、その大きな石の前に立って、

その彫りをじっと観察していた。

 

そして事件が起きた。

 

ボクはそれから興味津々のまま、

あたりを見渡し、観察し、

しばらくウロウロと歩きまわっていた。

そして、島の虜になっていた。

 

ため息を吐きながら

タラップを上がろうとすると、

後ろから「ストップ!」との声がする。

振り返ると、

制服を着た現地の警察官とおぼしき男が、

ボクに拳銃を向けていた。

 

パスポートを見せろと言う。

ボクはパスポートと旅券を機内に置いたまま、

機外に出てしまっていた。

 

「パスポートは機内にある」

たいして通じない英語と身振り手振りで、

必死で事情を説明した。

「この飛行機に乗ってパラオに行く予定だ」

 

相手はなぜだか余計に怪しんで鬼の形相になり、

ピストルを握る腕をグッと伸ばしてきた。

 

ちなみに、そのときのボクの格好ときたら、

その種の人間に全く信用されそうもない

ヒドい格好をしていた。

 

3日は洗ってないような汚れた、

そして首のところがほどけたTシャツに、

ブルーのこれまたヨレヨレになってしまった半ズボン姿。

髪は潮でパサパサで、伸ばしっぱなしだった。

(外見は結構大事なのだ)

 

警察官とボクたちのやり取りで、

この小さな空港の空気がガラッと変わってしまった。

それは自分でもハッキリと分かった。

 

ふとみると腰みののおばさんたちも、

驚きの表情をしている。

島の若者たちもこちらをにらみつけている。

 

ああ、絶体絶命だなと思った。

 

一旦疑われると、悲しいかな、

それは言い訳するほどに逆効果だった。

 

相手は、ボクがハイジャック犯ではないか?

そんな疑いを抱いたようなのだ。

 

膠着状態がしばらく続いた。

 

すでに飛行機は、タラップを外すような作業に入った。

ボクは無言で727の機体を眺めていた。

いい考えが全く浮かばない。

なにしろ、言い訳がなにひとつ通じないのだから。

 

万策が尽きてうなだれていると、

タラップを駆け下りてくる一人の男性がいた。

この蒸し暑い熱帯地方にもかかわらず、

白い麻のようなスーツ姿に帽子を被っている。

 

顔をみると、どうも日本人のようだ。

 

彼は流暢な英語で、

そのガードマンだか警察官だかと、

激しい言葉の応酬をし始めた。

 

ボクはそのやり取りを他人事のように眺めていた。

(何が起きたのだろう?)

 

しばらく眺めていると、

お互いは次第に理解しあったようで、

重い空気のようなものも徐々に薄れてきた。

そして彼らは急に穏やかな表情になり、

笑顔を絶やさずに握手をしている。

 

白いスーツの人が、

ボクのほうをちらっと目をやり、

薄笑いを浮かべてうなずく。

 

ボクはようやく自体を把握できた。

 

「そうか、そうだったのか」

そんな頷くような仕草をして、その警察官のような男は、

物騒な拳銃をしまった。

 

諦めかけていたボクに、突然光が差したのだ。

 

ボクを救ってくれた恩人は、

日本のある大手の商社マンだった。

彼は機内ですでにボクをみて知っていた、

とのこと。

座席もすぐ近くだったのだ。

 

後で聞いた話だが、

次にこの空港に降りる飛行機は、

一週間後だと教えられた。

 

(ああ、この人がいなければ、

ボクはあと7日間、

この島を抜け出せなかったことになる)

 

それは、想像するだけでもゾッとした。

 

ボクを助けてくれた、

名も言わぬこの白いスーツの商社マンは、

突然、ボクのスーパーヒーローとなっていた。

(当たり前のことだけど)

 

座席に戻ると、彼がボクにこう言う。

 

「ここはね日本ではないんだよ、

気を張ってリラックスできるようになると

いいんだけどね」

 

ことばがみつからないボクに、

彼はずっと笑顔で接してくれた。

 

反省と同時に、

いつかはこの商社マンのように、

かっこいい旅人になれたらと、

憧れのような気持ちがしばらく続いた。

 

 

グアム島に続いて、このヤップ島でも、

ボクはヘマを仕出かした。

 

甘すぎるボクの認識が、また事件を起こしてしまった。

 

そして、ボクは再び旅を続けることができた訳だが、

このとき以来、自分の内部に、

自らに対する疑念のようなものが生じていた。

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.4

 

船旅で、念願の沖縄へ到着したボクたちは、

2日目にひめゆりの塔へ出かけ、

島のおばあさんから、悲惨な戦争の話を聞かされた。

 

なのに、それは申し訳のないほどに、

聞けば聞くほど非日常的な気がした。

話はとても悲惨な出来事ばかりなのに、

どこか自分の体験や生活からかけ離れすぎていて、

どうしても身体に馴染んでこないのだ。

 

その驚くほどのリアリティーのなさが、

かえって後々の記憶として残った。

それは、後年になって自分なりに

いろいろなものごとを知り、触れるにつれ、

不思議なほど妙なリアリティーをもって、

我が身に迫ってきたのだから。

 

そんな予兆のかけらを、

ボクは後年、グアム島とトラック諸島のヤップ島で、

体験することとなる。

 

(ここまでは前号に掲載)

 

沖縄の旅から5.6年後だったろうか、

南の島好きのボクはパラオをめざしていた。

途中、グアムに行く手前で、

ボクの乗る727はサイパンへ降り立った。

機内にあったパンフレットをパラパラとやると、

バンザイクリフという場所が目に入った。

 

「バンザイクリフ?」

 

バンザイはあの万歳なのか?

実はボクの思考はそこまでだった。

その時分、ボクはあまりにも無学に過ぎた。

何も知らないことは、罪である。

 

戦争の末期、アメリカ軍に追い詰められた

日本軍及び島に住む民間人約1万人が、

アメリカ軍の投降に応じることなく

「バンザイ」と叫びながら

この島の崖から海に身を投げた。

 

あたりの海は赤く染まったという。

 

そこがバンザイクリフなのだ。

 

ボクは時間の都合で、

バンザイクリフへは行かなかった。

いや、そもそも興味がなかった。

戦争の歴史さえ、ボクは知らなかったのだ。

 

後、パラオでその話を知ったとき、

ボクの思考は、観光という目的を見失い、

しばらく混乱に陥ってしまった。

 

話を戻すと、

サイパンの次の目的地であるグアム島で、

その事件は起こった。

 

レンタカーを借りて島中を走り回ったとき、

ボクは道に迷ってしまい、適当な道を左折した。

すると大きなゲートに出くわした。

 

そこは米軍基地で、のんきなボクはクルマから降りて、

道を聞こうとゲートに近づいた。

と、ゲートの横から軍服に濃いサングラスをかけた

大柄の女性兵士がこちらに歩いてきた。

 

なんと、この兵士はボクに自動小銃を向けている。

何かがおかしいと思ったボクは、

無意識にホールド・アップをしていた。

 

女性兵士は全く笑っていないし、

とても厳しい表情をしている。

近づくに従い、

兵士は自動小銃を下げるどころか、

こちらにピタリと銃口の照準を定めたように思えた。

 

急に動悸がして、嫌な汗が噴き出した。

 

「すいません、道に迷ってしまって」

ボクが片言の英語で笑顔を絶やさずに話す。

 

すると

「クルマに戻ってバックしろ、さっさと消えろ!」

 

ヒステリーとも思える剣幕で、

この兵士はこちらに銃口を向けて、怒鳴っているのだ。

 

ボクはクルマに戻って、とにかく必死でクルマをUターンさせる。

バックミラーで確かめると、この兵士はボクが元の道に戻るまで、

ずっと銃口を向けていた。

 

一体、何ごとが起きたのか、

ボクはしばらくの間、

理解することができなかった。

 

なんとかホテルにたどり着くと、ボクはベッドに転がり込んで、

しばらくグッタリとしてしまった。

 

ようやく落ち着いてきたところで、

自体が徐々にみえてきた。

 

要するに、ボクやボク以外の誰でもいいけれど…

 

のんきで平和に暮らしていると思える、

そのすぐ隣で、

自体はボクたちの想像の域を超え、

生死にかかわるであろう、

いろいろな出来事が起きている、ということ。

 

世界のどこかで、緊張はずっと続いていたのだ。

 

ボクは自分の無知さに呆れ果てた。

 

―バカな日本人―

 

その代表のような人間が当時のボクだった。

 

戦争は実はいつもどこかで起きていた。

いつもどこかで起きようとしていた。

それは皮肉なことに、

いまも変わらないまま続いている。

 

ボクの繰り出す愚かな行為は、

その後も続いた。

 

(続く)

 

 

「19才の旅」No.2

 

やっと掴んだ「旅という逃げ場」で、

ボクらは出ばなをくじかれていた。

 

5,500トンという当時では大型の客船、新・さくら丸。

この船に意気揚々と乗り込んだのはいいが、

ボクらはのっけからその客室A-Bという

ごくスタンダードな部屋のベッドで、

頭痛と吐き気に耐えることとなった。

 

人生初の船酔いは、思ったより重症だった。

ボクは考えることをあきらめた。

(将来のことなど知ったことか!)

 

ひどい目眩がしてきたので、

ここはやはり寝るしかなさそうだ。

布団を被って、目をつむる。

 

時間はどのくらい過ぎたのか。

いつしかボクは寝ることに成功していた。

 

結局ボクらは、朝まで全く何も話せなかった。

そんな余裕などあるハズもなかったのだが。

 

翌朝、なんとか立ち直ったふたりは、

昨日の反省から決めごとをつくった。

 

・アルコール禁止

・デッキに出たらとにかく近くの波を見ない

・船の揺れに逆らわない

・遠くの景色や空だけを眺める

 

浅知恵にしては、以後、酔うこともなく、

この船旅は快適なものとなった。

 

同じ船旅をしている幾つかのグループとも仲良くなれた。

東京から参加した年上の男性ふたり組。

そして東京から来たという同年代とおぼしき3人の女性グループ。

横浜組のボクたちも加わり、なかなか面白いグループができた。

 

7人は不思議と気が合う人ばかりで、

船内ではよく行動を共にした。

 

デッキでバカ騒ぎをしたり、

ラウンジではカップヌードルを食べながら、

みんなでコーラで乾杯をして、

どうでもいい話題で盛り上がっていた。

 

後、東京から参加した年上の男性ふたり組とは、

何年か手紙のやり取りをした。

特に、「イガちゃん」と呼ばれていた人とボクは懇意になり、

船上で、人生の先輩としていろいろな話をしてくれた。

 

彼は長距離トラックのドライバーで、

角刈りでいつも真っ白いBVDのTシャツを着ていた。

日焼けして顔の彫りが深く、口数は少ない。

が、笑うととてもかっこいい笑顔になった。

 

ボクが何気なく、

ちょっと将来に不安があるようなことを

口走ったことがきっかけで、

彼はポツポツと自らの青春を話してくれた。

 

ボクは、イガちゃんが聞かせてくれた

幾つかの体験話に心を惹かれた。

そしていつの間にか、

自分が深く悩んでいたことさえ、

忘れかけようとしていた。

 

彼はとても知的で、

深い洞察をする人だった。

ただ高学歴だけのつまらないインテリとは違い、

ことばに、体験した重みと説得力のようなものがあった。

 

彼はよく気難しい表情で遠くを眺めていた。

それはとても印象的なショットとして、

ボクのアタマのなかで映像化された。

 

イガちゃんのもう一人の相棒は、

身体がでかくて色白でぽっちゃりとした好男子。

アパレル関連で働き、連日帰宅は深夜で、

いい加減疲れたとよくこぼしていた。

彼の名はもう忘れたが、女性あさりはなかなかのもので、

まあそういう人だったが、

このふたりがなぜ親友なのかは謎だった。

 

それにしても旅は不思議なことの連続だと思った。

あの夏、7人はあの船に偶然乗り合わせた。

そして思いがけなくも、皆は波長が合い、

かけがえのない時間を共有することができたのだから。

 

あれから永い年月が経過したが、

あの船上での輝くような時間は、

もう二度と訪れない。

 

旅って、きっとそういうものなのだろう。

 

旅は、偶然がもたらす化学変化だ。

だから、人はときとして旅立つのだ。

 

暑いあの夏。

ボクらはつい数日前まで、

夢をなくして路頭に迷っていた。

が、なんとか旅へでかけるという行動に出た。

 

そしてボクのなかの、丸山のなかの何かが、

めまぐるしく活動を開始したのだ。

(続く)

 

 

 

どすこい桃太郎の大冒険

 

桃からうまれた桃太郎は、

おじいさん、おばあさんにとてもかわいがられたのは良いが、

その度合いが過ぎたのか、わがままな少年に育ってしまった。

 

年をとったふたりの畑仕事や焚き木とりもいっさい手伝わない。

で、村の悪仲間のキジ夫やワン次郎と、

山のなかで一日じゅう相撲ばかりとって遊んでいた。

 

その頃、村に鬼があらわれた。

そして、年ごろの娘を次々にさらっていってしまった。

 

村人たちが集まって、緊急会議がひらかれた。

この村は年寄りばかりで、話は行き詰まる。

が、なんとしても娘たちを救わねばと、

一同は知恵を絞った。

 

そして腕っぷしの強い桃太郎の名が幾度かささやかれた。

 

家に戻ったおじいさんがその話を桃太郎に伝えると、

「鬼退治だって? そんな奴知らねえし…」と

むげもない返事が返ってきた。

 

「だけど桃太郎や、あの村のはずれの鶴さんとこの娘さんも

昨日の夕方から行方知れずなんだそうだ」

 

それをきいた桃太郎は驚いて顔をあげた。

「ええっっっ、ゆきちゃんがいない?

みつからないのか?」

 

「そういうこった。困ったこまった」

 

おじいさんが話している最中なのに、

既に桃太郎は家を飛び出し、

村の裏山へと走っていた。

 

猿仙人のすむ山奥の掘っ立て小屋まで半時、

桃太郎は全力で走った。

 

掘っ立て小屋の前で、

猿仙人は横の川で獲れたばかりのイワナを焼いていた。

 

「おお桃太郎、久しぶりじゃなぁ、これ食うか?

それとも相撲の奥義でも学びにきたか?」

 

「猿仙人さま、村でとんでもねえことが起きているらしいんだ。

ゆきちゃんがゆきちゃんが…」

 

桃太郎が泣きじゃくっている。

 

「ゆきちゃんがどうしたんじゃ?

あの娘はたしかお前と所帯をもつ約束をしたときいていたが…」

 

「そのゆきちゃんが鬼に鬼に…」

 

猿仙人はことの次第を知ると、

夜どおし桃太郎に激しい稽古をつけ、

相撲の奥義を伝授した。

 

そしてヘトヘトになりながらも

夜明けに村へ戻った桃太郎は、

悪仲間のキジ夫やワン次郎をたたき起こし、

鬼がすむという鬼ヶ島をめざすことにした。

 

道を急ぐ三人。

 

桃太郎がゼイゼイしながら口を開いた。

 

「キジ夫、鬼ヶ島ってどこにあるか知ってるか?」

 

「チョロいっすよ、この道を一日歩き続けると

あの山の峰のてっぺんあたりに着くっす。

そこから海がみえたら、

青々と木の生えた島がひとつぽかんと浮かんでいて、

それが鬼ヶ島って話っすよ」

 

「お前よく知っているな?」

「地理、誰にも負けないっす」

 

「桃太郎さん、これ!」

ワン次郎がさっきからワンワンとうるさく

何かを突き出していた。

 

「なんだよその包みは?」

ワン次郎が風呂敷を広げると、

なかにはおいしそうなきび団子が

びっしりと詰まって入っているではないか。

 

「おおワン次郎、すごいぞ! うまそうだ」

 

「話をきいて母ちゃんが急いでつくってくれてたっすよ」

 

一日じゅう山道を歩き続けた三人は、腹ぺこ。

 

やっと峠にさしかかり、そこから

確かに鬼ヶ島があることを確認した三人は、

切り株に腰をおろしてきび団子を一気にたいらげた。

 

さて、

キジ夫は腰に刀を差している。

相撲はからきし弱いが、もともと武家の出である。

 

あるとき一族のひとりが不始末を起こしてしまい、

家が落ちぶれて村にやってきたのだ。

が、剣術だけは心得ていた。

 

ワン次郎というとなんの特技もないのだが、

怒り出すとウウウッとうなりながら

噛みつくクセがある。

その噛みつきが痛いのなんのって。

 

そんな訳でワン次郎は怒りさえすれば、

すごく強い見方になってくれる。

 

陽が沈む頃、

浜で即席で組んだイカダを漕いで、

三人は鬼ヶ島をめざした。

 

三人が島に着く頃、

鬼ヶ島では酒宴の真っ最中だった。

 

村でさらった娘たちを木につるして火を囲み、

それを眺めながら鬼たちがベロベロに酔っ払っていた。

 

木の陰からそのようすをみたワン次郎が

ウウウッと唸った。

 

鬼の形相になったキジ夫が刀を抜いて、

刃をギラギラさせている。

 

そして、いつ後を着いてきたのか、

どうやってここまで来たのか、

猿仙人が白装束姿で立っているではないか。

アタマには、ロウソクまで立てている。

 

「わしも加勢しようぞ、一世一代の鬼退治じゃ!」

 

「おお、仙人さままで来てくださるとは!」

 

桃太郎は、感激で涙と鼻水がどっとあふれた。

 

そして鬼たちのようすを見計らい、

桃太郎が気勢をあげた。

 

「鬼たちをやっっけてやる、みんな行くぞ!!!」

 

 

ベロベロに酔っ払った鬼たちを、

キジ夫の剣が次々に切りつけた。

 

猿仙人はというと、大きな鬼を軽々と投げ飛ばしている。

 

その後をワン次郎が足といわず手といわず

ところ構わず鬼にかみつく。

 

その鬼たちを一匹づつ、

桃太郎が火のなかに投げ込んでいった。

 

それをみていた村の娘たちから、

感激なのか恐怖からなのか、

ギャーギャーと叫び声が島にこだまする。

 

炎が大きく舞い上がり、

鬼を焼く煙がモーレツな勢いで煙幕をはった。

 

そして島は巨大なバーベキュー場と化した。

 

 

鬼をひとり残らず退治した四人は、

吊された娘たちの縄をほどき、

島の木々に火を放った。

 

そしてイカダを3往復させて島を離れたのだった。

 

 

元きた峠まで戻った一行は、

丸焦げになった鬼ヶ島を遠くに眺めながら、

食べ残した鬼のバーベキュー肉を切り株に広げ、

皆で舌鼓をうった。

 

そして村には再び平和が戻った。

 

桃太郎はゆきちゃんと所帯をもち、

年老いたおじいさんやおばあさんに代わり、

畑仕事や焚き木とりに精を出すようになった。

 

相変わらずキジ夫やワン次郎と、

相撲稽古は続いてはいるが…

 

という訳で、めでたしめでたし

 

歌があるじゃないか

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

ブルーレモンをひとつ リュックに詰めて

 

君の好きなブルーレモンをひとつ

リュックに詰めて僕は町を出たんだ

 

あの町では永い間もがき苦しんだが

結局 退屈な日々は寸分も変わらなかった

 

とても憂鬱な毎日

それは安息のない戦いと同じだった

 

いま思えば平和に見せかけた戦争は

すでに始まっていたのだろう

 

僕は町で予言者のように扱われた

それは来る日も来る日も

これから先もなにも起きないと

僕が町の連中に断言したからだ

 

僕にしてみればすべてが予測可能だった

同じ会話 同じ笑い あらかじめ用意された回答

そして疑問符さえも

 

気づいたときすでに戦いは始まっていたのだ

それはひょっとして町の時計台の針が

何年も前からずっと動いていなかったことに

関係があるのかも知れない

 

不思議なことに

そのことには誰も気づいてはいなかった

 

僕らは町に閉じ込められていたのだ

 

どんよりと曇った夏の日の夕暮れ

僕は町の図書館の地下室の隅に積まれていた

破けた古い地図とほこりに汚れた航海図を探り当てた

それをリュックに詰めて町を出たのだ

 

思えば 町の境には高い塀も鉄条網もない

しかし 誰一人そこから出る者はいなかった

そして外から尋ねてくる者も皆無だったのだ

 

 

町を出て二日目の夜

僕は山の尾根を五つ越えていた

途中 汗を拭いながらふと空を見上げると

青い空がどこまでも続いていた

それはとても久しぶりの色彩豊かな光景だった

 

そして相変わらず僕は

誰もいない一本の道を歩いている

 

この道はどこまでも続いているのだろう

 

道ばたに咲く雑草の葉の上の露が

風に吹かれて踊っている

すぐ横をすっとトンボが過ぎてゆく

 

光るその羽を見送ると

僕はようやく肩の力が抜けた

 

ため息がとめどなく口を吐く

 

歩きながら僕は考えた

いつか町へ戻れたのなら

僕はこのいきさつをすべて君に話すだろう

すると君は深い眠りから目覚める

そしてようやくふたりの時計は

再び動き出すのだろうと…

 

それは希望ではあるけれど

とても確かなことのように思える

 

何かを変えなくてはならない

その解決へとつながるこの道を

僕は歩いている

それはいつだって誰だって

独りで歩かなくてはならない

 

誰に言われるまでもなく

自然にあるがままに

 

 

新月

 

新月の夜に

願いごとをすると叶う

そんな習わし

昔からの言い伝え

 

それはなぜ…

意味など導き出せない

 

とりあえずは願いごとを紙に書いて

すっと夜の窓辺へと差し出してみる

 

もっと楽な仕事がみつかりますように

別れてしまった妻が戻りますように

 

つまらない望みごと

だけどなにかいい予感がするなぁ

ちょっと嬉しい気になっている

 

願いごとをするとはそういうことなのか

 

見上げると夜空は漆黒かつ寒々しく

今夜は星さえでていない

 

月は明らかにそっぽを向いている

いや 宇宙の果てなどへでかけて

留守にしているに決まっている

 

この闇夜に乗じたのか

家のまわりを狐がうろつく

異様に光る複数の目

よそ者はかえれと警告している

しまいに雨さえ降ってきて

 

ああ そろそろ町へ下ろうか

 

 

うたがある

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

 

短編「猿番長殺し」(タイトルパクリ)

あまり大きな声ではいえないが、

先日私は衝撃的な話を小耳に挟んでしまった。

ああ、いまでも悪夢のような光景が頭に浮かぶ。

先日ご近所のAさん宅に上がり込んで、

と言っても頼まれごとで立ち寄っただけだったのだが、

新茶が入ったので一杯飲んでいったらということで、

お邪魔したのだが…

あれやこれやとよもやま話が高じ、

はあとか、そうですかとか私の返答も、

かなり平坦かつ不自然なものになってきた。

ここは山あいの静かな住宅街で、

東京・横浜方面への通勤もなんとか大丈夫という、

一応首都圏の一角ではあるが、

そうは言っても住宅街を一歩離れれば

うっそうとした山々が背後に鎮座する田舎である。

要するにここはトカイナカと呼ばれる地域で、

夜も6時ともなれば人通りも途絶え、

商店も皆無で、最寄りの駅からのバスは、

1時間に2本という不便さである。

という訳で、この住宅街も夕方ともなれば、

黒い山々が覆いかぶさってくるように、

その影を長く伸ばすのだった。

話もそろそろ尽きてきたし、昼も過ぎた。

腹も減ってきたので、

そろそろおいとましようと座敷を立ち上がり、

玄関でスニーカーに足を突っ込んでやれやれと

立ち上がろうとしたときである。

「そういえばさぁ」とAさんの奥さんが、

突然目を見開き、苦虫を潰したような表情で、

前のめりに私の肩を叩くのだ。

(ああ、また始まったなぁ)と

私は胸の内でつぶやく。

「ウチの対面の3軒先の空き家があるじゃない、

Bさんよ、Bさんとこの空き家ね、

あれ、まだ売っていないんだって。

でね、先日あそこの娘さんがあの空き家の掃除に来たんだって。

また住むらしいのよ。娘さん夫婦が。

でね、庭の木の枝や葉も伸びっぱなしだということで、

鎌を持ってきたらしいのよ。

でね、玄関を開けて中に入ったら、あんた、

猿がね、いたんだって。

もうビックリよね。

エライ大きいのがいたんだって。

そしたら向こうも驚いてキィッて歯剥いて」

Aさんの奥さんが金歯だらけの歯を剥いてみせた。

それは普段私が見たこともないおぞましい表情だった。

Aさんの奥さんの顔が上気してきた。

「えっ、それでどうしたんですか?」と私。

「でね、そりゃあもうお互いに驚いちゃってね。

そしたらさ、びっくりした娘さんがね、

無我夢中で手に持っていた、あんた!

その鎌をね、怖いねー、

猿に投げつけたらね、あんた、

その鎌の先が猿に当たったらしいのよ、

でね、それも怖いねー、

猿の頭にグサッてね、

刺さっちゃったんだってよ!」

Aさんの奥さんの顔が、

口いっぱいに梅干を含んだような表情に変化した。

「でさぁ、ぎぃえーとかぎょうえーとか

凄い声がして、あの娘さん、放心状態で

なにがなんだか分からないまま、

一目散に空き家を飛び出して、あんた、

あの家、それっきりなんだってさー」

私の脳裏に、

あの古いプレハブの家の台所が映し出される。

土地の広さは約40坪くらいだろうか。

建物の築年数は約40年くらいの、

当時はカッコよかったであろう、

しかしいまは、肌色の少し傾いた外観には所々に錆が目立ち、

門扉や柵はやはり錆で少し崩れはじめ、

古いブロックの階段の先にガタついた玄関ドアが、

たいした役目も果たさずに立てかけてある、

そんな記憶だ。

更に、私の脳が勝手に台所の様子を描く。

なにもないガランとした薄汚れた台所に薄日が差し、

流し台の下あたりだろうか、

その猿は額から血を流し、

薄い茶色の毛は血で黒ずんで束になって固まり、

両手両足をダランとさせ、

それでいてまだ半目を開け

こちらを見据えているのである。

「うーん、なんだか怖い話ですね。で、

その後あの空き家へは誰か入って、

室内の様子を確認したのですか?」

突然に覆いかぶせられた風呂敷を避けるように、

私の片手が平静を装おうとして勝手に動いている。

これが止まらない。

「冗談じゃないわよ、怖い怖いってね、

あれっきり誰もあの空き家へは行っていないんだって。

嫌だねぇ」

とAさんの奥さんは、もう笑っているではないか。

(この人のメンタルは一体どうなっているんだろう)

立ち直りの早いAさんの奥さん宅を後にし、

私はトボトボと歩きながら考えた。

そして確かこのあたりの猿には、

GPSが付いていることを思い出した。

数年前から急増した猿害により、

農家の畑が荒らされるだけでなく、

猿は住宅街にもしばしば出没していた。

これを問題視した地元の有志と

自治体が結束してつくったのが

「とっとと猿帰りなさい隊」だった。

そのとっとと猿帰りなさい隊は、

主な猿グループのボスを捕獲し、

GPSを付けて、再び放したとのこと。

これにより、山の猿たちが現在どこにいるのかが

一目瞭然となり、その傾向と対策によって、

猿害は激減したはずだったのだが…

しかし、猿社会にもやはりはぐれ者がいて、

こいつらはGPS通りに行動することはない。

単独行動でふらついているので、

どこで人が遭遇するか皆目分からないのである。

更に、これは私の経験と農業を営んでいる方から

聞いた話から導き出したはぐれ猿の印象だが、

奴らは人を避けるどころか威嚇するのである。

そして、はぐれ猿ほど、人を翌々観察している。

相手が子供であるとか小柄の女性だったりすると、

容赦なく近寄ってきて歯を剥く。

その被害は、ちょくちょく自治会報でも報告されていた。

私が遭遇したのはとある日の早朝だったが、

ちょうどAさんの奥さんが話していた

例の空き家付近だった。

最初は大きな猫か犬かと思ったのだが、

どうも朝日を浴びたその形容、姿は

まぎれもない大柄な猿だった。

私がその方角へ近づくと、

猿は大きな手を勢いよく上げたかと思うと、

今度は威嚇のためか、胸を膨らませて、

「それ以上俺に近づくなよ」と

警告しているようでもあった。

当然、この姿を見て

私は足早に今きた道を引き返したのだが、

朝日で逆光に映された姿は筋骨隆々で、

体毛がキラキラと光っている。

若き日のアントニオ猪木もかなわないであろう、

という印象だった。

ご近所の隠居しているおじいさんの話によると、

こいつは普段から民家の庭になっている木の実や、

家庭菜園の野菜なんかを食い荒らし、

どうやらその味を覚えたようである。

この大柄の猿が他のはぐれた猿を取りまとめて、

いわば番町のような地位に君臨し、

その縄張りを徐々に

住宅街の中に広げているということであった。

Aさんの奥さんの話を手繰り寄せる。

先のBさんの空き家で娘さんが遭遇した猿も、

相当大柄だったというから、これはひょっとすると、

Bさんの娘さんは、はぐれ猿の番長を

仕留めたのかも知れないとの結論に

私は達した。

今日は夜明け前から雨がしとしとと降っている。

昨日までの5月晴れはどこへやら、

どんよりとした厚く重たい雲が

この山あいの住宅街に垂れこめている。

私は、この季節にしてはめずらしく

厚手のジャンパーを羽織り、

いつもの散歩道を歩く。

散歩のコースは、

途中でBさんの空き家の前を通るのだが、

この朝は、ふとあの猿の死骸が頭に浮かんでしまった。

しかし朝の散歩3000歩をノルマにしている私の足が、

怖気づいて止まることはない。

なんといっても世の中は朝なのである。

これが薄暗い夜であれば当然コースを変えたであろうが、

私は頭に浮かんだ猿を必死で強制的に脳裏から削除し、

あたたかい日差しのなか、美しいバラが咲き乱れる

横浜の山下公園の情景を頭に浮かべた。

足取りは軽い。

ジャンパーに雨がはじく音がして、

グイグイと歩幅が広くなってゆく。

Bさん宅の空き家の横を通り過ぎるとき、

ふと気になってBさん宅の空き家に顔を向ける。

すると、少し開かれた朽ち果てた風呂場の小窓から、

包丁を額に差したままの猿が、

じっと恨めしそうにこちらを

見ていたのである。

これが現実の出来事なのか、

私が勝手に作り上げた妄想なのか、だが、

そうした事柄には一切触れたくないというのが、

現在の私の心境である。

恋唄

あの日から、

思えば12年も過ぎてしまった。

最近、またあの日のことが気にかかる日々が

続いている。

出張に託けて、再びこの駅に来てしまった。

吹き下ろす北風が胸を刺すように冷える。

線路の脇に植えられた木々の向こうに、

田園地帯が広がる。

ところどころに根雪が残り、

午後の陽を浴び、照り返している。

コートの襟を立て改札を出ると、

田舎町独特の駅前広場に出る。

人影はまばらで、

タクシー乗り場には暇そうなタクシーが2台、

客待ちをしている。

あの店のくすんだ壁紙が浮かんだ。

ロータリーを左へ曲がり、商店街を歩く。

朽ちていた薬局が新しく建て直されたらしく、

知らない若い女性が店の前を掃いている。

娘さんかな?

そんなことを思いながら足を速めると、

見慣れた店の看板が遠目に見えた。

真新しく拡張された歩道を歩きながら、

あの人のことを考えるが、

仕草、そしてはにかむような笑顔は、

もう、遠い日に封印されている。

大きなコーヒー樽が置かれた見覚えのあるドアをあけると、

静かなジャズが暗い店内の足元を這うように流れている。

ぼんやり見える店内の奥を覗くと、

目当てのボックス席が空いていた。

私は入口で手にしたライブのチラシを握りしめ、

そのボックス席に腰を下ろしてから、

「モカをください、ブラックで」

と代替わりしたと思われるマスターらしき人に、

何食わぬ笑顔で声をかける。

あぁと、ふと、ため息がもれた。

タバコに火を点け、

暗がりでチラシを見るふりをしながら、

やがて俯いて目をつむった。

私は、あのときの情景を、

丹念に蘇らせてみた。

それはとても些細なすれ違いが、

事の発端だったように思う。

「やはり東京に行くことになったよ」

「………」

佐恵が一瞬うなだれ、じっとこちらをみつめていた。

「どうする?」

佐恵の目に大粒の涙が光る。

「行きたい、だけど…」

「籍のことだろ、そのことなら心配ない

入れてから行こう、そうしよう」

「………」

「お父さんか、いやお母さんも駄目って?」

「何度話しても、

絶対に駄目だって…

頑として許してくれないの」

「…それで佐恵の結論は?」

「………」

俯いた佐恵の長い髪が一本一本光っている。

尖った赤い唇が震えている。

何度も話合った話題だったが、

やはり佐恵から快い返事を聞くことはできなかった。

今日が最後の話合いになることは、

あらかじめ、お互いの認識のなかにあった。

長い時間が流れたように思う。

冷めたモカをひとくち飲み、

僕は「分かった」とだけ答えた。

これが最後に交わしたことばだった。

それから3年ほどして、

地元の友達から、

佐恵が地元の名士の息子と婚約をしたことを知った。

しかし、後年、佐恵はこの名士の息子と離婚し、

ふたりの子を連れ、この町を出たという。

その後の足取りは、誰に聞いても分からなかった。

あの頃、まだ佐恵は私の連絡先を知っていただろうし、

住んでいる都内のアパートも教えてあった。

なぜ、この私を訪ねてこなかったのだろう?

私といえば、やはり一度結婚に失敗している。

それも佐恵より早く。

彼女はそのことを知っていた。

これは知人の女性から後に聞いた話だが、

佐恵は私の離婚の話を聞くと、

顔を伏せてすすり泣いていたという。

「どうぞ」の声に起こされ、

私は現実に引き戻された。

思い出のコーヒーカップに並々と注がれた

モカが運ばれてきた。

「あっ、どうも」

マスターらしき人の笑顔が

「ごゆっくり」と語っている。

ひとくち口に含んだモカの味は、

あのときより薄く感じられた。

そして、あったかいものがカラダを巡ると、

私はあることに思いを巡らした。

それは、まだ会ったことのない佐恵の

親御さんに会うことだった。

確か、佐恵の実家はまだこの辺りにあると、聞いていた。

彼女の親御さんは、

まずこの私を不審がるだろう。

しかし、私が事のすべてを話せば、

佐恵の手かがりが何か掴めるかも知れない。

こんな思いは、先ほどまで思い浮かばなかったのに…

モカの澄んだ苦みが、私の冷えた心に、

幾ばくかの勇気を添えてくれたようだった。

伏し目がちに笑う佐恵の笑顔が蘇る。

そして、動揺するとちょっと尖る小さな唇。

ふたりの子供か…

(佐恵なら、まあいいか、

良い子だな…)

レシートを握りしめ、

冷えた夕暮れの通りを更に奥のみちへ…

胸の迷いを打ち消すように、

大きくため息を吐くと、

私は佐恵の実家の方向へと歩き始めた。

(つづく)

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