ロックンロールだぜ、と以前から内田裕也が口をとがらして言うには、
ロックンロールというのは、
音楽以外の何かを示しているらしい。
生きる姿勢、根性、はぐれ具合。
だって、フォークだぜとか、演歌だぜって聞かないから、
きっとそうなのだろう。
で、ロックンロールとロックとどこか違うのか、
私にはよく分からないが、
理屈をこねると、ロックンロールは、R&Bのほぼ均等なエイト・ビートや、
ブルース・ジャズのシャッフル/スイングしたビート、
ブルースのコード進行や音階を応用した楽曲構成に、
カントリー&ウェスタンを混ぜたような音楽を指すらしい。
で、ロックは60年代以降に流行ったロックンロールの発展型とでも言おうか。
で、両者を区別するとややこしいので、この場合、異論もあろうが、
ロックンロールもロックも同義語として捉えさせてもらおう。
とにかくエレキギターとドラムを主体に、ガンガン歌い、踊る訳だ。
で、そのイメージは、クスリとかアルコール、そしてイカシタ女を連れ歩く、
そんな感じがする。
退廃的といえば、そんな感じ。
「明日のことなんか知らねぇぜ、分からねーなぁ」と、
ウィスキーをラッパ飲みしながらぼやいたりする。
故に、しっかりと人生計画を立てる人間は、ロッカーではないと言える。
明日をも知れぬリスキーな生き方こそが、ロックンロールなのだ。
私くらいの年齢になると、たまに年金のことが気になったりするが、
そんなことを考えること自体、ロッカー失格なのである。
なにしろロッカーは、破滅へ向かわなくてはならないのだ。
小金ができたらアパート経営をしようなどという輩は、
全くふとどきという他ない。
金を使い切って、とにかくやりたいことをやる。
後のことは一切考えない。
それこそ、ロッカーの鏡なのである。
あのキース・リチャーズは、薬漬けになって病院から退院した時、
「やった、元気になった。これでドラックができる」
と話したという。
また、シド・ヴィシャスは、
「俺は25になる前に死ぬ。死ぬ時までは、生きたいように生きてると思う」
とのたまった。
あらかた、ロックンロールな生き方って、こんな感じだ。
かようにロッカーたちは危険を顧みず、「いま」を生きる。
となると、矢沢や内田裕也って、ちょっと違うような気がする。
矢沢はロック的に生きているような気がするが、
マンション経営なんかに手を出しているようにもみえる。
内田裕也に至っては、ロックな生き方をしているというより、
いつ何を歌っているのかよく分からない、
更に商業的パフォーマンスのみが目立つように思える。
話を戻そう。
ロッカーである。
社会からはみ出した彼らが向かう先は、破滅だ。
だがその考え方、生き方の一端に、
ある種の純粋さが見えることがある。
それが人間らしいといえば、そのように映る。
例えて言えば、
掃き溜めの鶴のような、際立つデリケートさ。
人間のもつ特有の弱さが美しい神経線となって、
あの音楽を醸し出し、
それが彼らの存在を、唯一示しているのだ。
ジミ・ヘンドリックスが、
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理されるな!」
という言葉を残している。
真剣に生き方を模索すると、
人間はきっと矛盾だらけなのだろう。
それをロッカーたちは追いかける。
やはり愛すべきは、ロックな生き方なのだ。