iPhoneとiPadの使用感

数ヶ月前、ガラケーをiPhoneに換えた。

ガラケーは通話のみと割り切っていたので、

換える必要はなかったのだが、

iPhoneを投げ売りしていたので、

好奇心でゲットしてみた。

一方、iPadは長く使っているので、その良さも

欠点も分かっているつもり。

両者は、まあ似た者同士なので、iPhoneの使い方にも、

別段、違和感はなかった。

iPhoneは、予想どおり軽くてコンパクトで

扱い易い。

が、如何せん文字もアイコンも小さすぎる。

これは分かっていたことだが、

やはり老眼の私には辛い。

だから、まず先んじてiPadを手に入れた訳だが、

こちらの欠点は、やはり重いことだ。

ネットやメールなど、読めない小さな文字などは、

ワンタッチで拡大できるので、高年者にもやさしい。

が、寝転がって見るときなどは、いい加減に腕が痛くなる。

ズシンとくる重みは堪える。

で、この両者の中間に位置するiPadminiに、

一時狙いを定めたことがあった。

と同時に、iPadminiと同等の大きさ・重さの、

ネクサスやKindleも視野にいれたことがある。

しかし、実際手に取ると、その調度良さそうな大きさと重さが、

逆に中途半端なことが分かる。

画面を見るにつけ、

なんというか、納得のいかない中途半端な大きさの画面で、

ここは、やはり重いが、

より画面の大きさなiPadに軍配が上がる。

また、通話のやポケットに入れることを想定すると、

やはりiPadminiでは、大きすぎる。

結果、こちらの用途においては、iPhoneのほうが良い。

で、これら7~8インチのものはあきらめ、

ガラケーとiPadで用途を棲み分け、しばらく利用していたのだ。

今回手にしたiPhoneに話を戻すと、

以前使用していたガラケーと比較すると、

格段に機能的に優れている。

通話音声、カメラ画質も高く、

なによりアプリがふんだんにあるので、

GoogleMapや乗換案内、ラジオとか、

必要なものは、ほぼタダで取り込める。

カーナビとしても使用可能。

そしてなにより、普通にネットが楽しめる。

iPhoneは、自分専用にカスタマイズできて、

オリジナルに使える楽しさがある。

これはiPadも同じだが…

ただ、iPhoneのメールは、

前述のとおり、文字が小さい。

外出先で、いちいちメガネを出す暇もないときは、

困りものである。

が、これらをiPadに同期させればデカ文字で見られるが、

こっちも前述のとおりの重量があるので、

それなりに落ち着いた場所で確認せねばならない。

こうなると、問題は自分自身の視力。

現代は、とにかく目をよく使うことが多い。

情報の大半も、視覚から入る。

自身、この夏は眼精疲労から寝込んだ経験もあるので、

日頃の目の酷使を反省した。

思うに、こうした社会で生き抜くには、

強靱な「目」が欠かせない。

文明の利器は、とかく目を酷使させられる。

こうなると、クルマと同じく、

もうスペックでモノを語る時期ではない。

何馬力出ようが、何キロのスピードで走ろうが、

それを操る人の感覚に意識が向かわないのであれば、

そのマシンは、ただのモンスターで終わってしまう。

技術が、如何に人に優しくなれるかか?

デバイスも、

そろそろそうした時期に来ていると思う。

目が疲れないディスプレイの開発、

見づらい画面や文字を感知し、

即座に対応する対応する技術。

近未来のメガネのようなスカウターも開発されてはいるが、

ゆくゆくのヒットの肝は、

軽量・小型化のみでなく、

如何に肉体に負荷をかけないで使用できるか?

案外このあたりにあるような気がするのだが…

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或る編集者の記録

その、気になる文庫本は、ビレバンの棚で寝ていた。

買い主を探す気もないように見えた。

タイトルは「編集者の時代」。マガジンハウス編となっている。

サブタイトルは、―雑誌づくりはスポーツだ―

良いタイトルだなと思い、私が強引に起こし、レジへ。

アマゾンでも見落としていたような本が、

街の本屋でみつかったときは嬉しい。

本屋にないものがアマゾンでみつかることもあるが、

これはそれほどの感激はない。

あったな、というだけ。

私たちは、買うスタイルを使い分けている。

売り手さんは上手く共存してください―

これが本屋さんに対する私の理想だ。

で、この本のまえがきを読むと、

「ポパイ」という雑誌が1976年に創刊されたことが分かる。

計算すると、私はまだ学生だった。

ポパイは、よくカタログ雑誌と評された。

アメリカの西海岸やハワイのライフスタイルを手本に、

そこで活躍しているモノを通して、これらを日本に紹介する、

当時としてはある意味画期的な雑誌だった。

この頃、私のまわりは皆、

ポパイファッションになっていた。

もっと遡ると、

お兄さんやお姉さん方はすでに平凡パンチの影響を受け、

アイビールックで街を闊歩していた時期があった。

あれもこれも、上記の本の編集者たちが仕掛けたものだ。

社名を平凡出版からマガジンハウスと変えてからも、

そのパワーは持続していた。

世の中のファッションやライフスタイルを変えるほどの影響力を、

彼らはもっていた訳だ。

なかでも、注目される編集者が木滑良久という人。

かなりの有名人で、

一時はテレビにも頻繁に出ていた。

彼が、これらの企画の元をつくった人と言われている。

彼の素材モチーフは、アメリカにあった。

現代に置き換えると、

私たちの知らないアメリカのオシャレなファッションや雑貨、

ライフスタイルなどをいち早く日本に紹介する、

ファウンダーというところか?

後年、私も雑誌編集者となったが、

この本に書かれているように、世の中の風向きを変える、

という華々しい経験は皆無。

マイナー誌だったので、だいたいが後追い状態。

これらの雑誌類とは編集方針が違うといえば聞こえは良いが、

金がない、人が足りない…いや、企画力と情報収集力、

更に編集力がなかったと言ったほうが正確だろう。

「編集者の時代」は、

ポパイの或る時期の編集後記を書き連ねただけのものだ。

しかし、年代と記事の中身を読みあわせると、

不思議なほど、その時代の空気が再現されている。

サーフィン、スケボー、ウォークマンスタイル、ラコステのボロ、

スタジャン…。これらの流行に加速をつけたのもポパイだ。

それは羨ましくもあり、読み進める程に、

ひとつの時代を築いた自負が感じられる。

(このグループが後に女性誌「オリーブ」を創刊する)

1977年8月10日の編集後記は、

ジョギングについて書かれている。

まず、ニューヨークのセントラルパークや、

ロスのサンタモニカのジョギング風景が紹介され、

それは都市のライフスタイルとしてカッコイイんじゃないか、と。

そして、海の向こうの彼らは、

生活のなかに自然にスポーツを採り入れているよと…

何気に日本の空気を変えようとしている。

翌月はこうだ。

「ポパイは理屈が大嫌い」

70年安保を経て、日本には、依然アカデミックの風が闊歩していた。

この時代の主役雑誌は、言わずと知れた朝日ジャーナル。

とにかく、政治を語れない奴は生きている資格なし、

のような時代もあった。

しかし、これに対するアンチテーゼが、

平凡出版の「平凡パンチ」であり、

その軽さを継いだのがポパイのような気がする。

新しい時代の訪れだった。

ポパイの他、ブルータス、オリーブ、

本の雑誌、広告批評、NAVI、ミスターバイク、ビーパル等、

創刊ラッシュが起きる。

景気は更に上向き、

雑誌編集者もエンターティナーとなってゆく。

前述した木滑良久がテレビに出ていたのも、

こうした背景からだろう。

他、嵐山光三郎さんや、先に紹介した「本の雑誌」の

椎名誠さんらが加わる。

「編集者の時代」のあとがきは、

後藤健夫さんというポパイの創刊メンバーの方が書かれている。

それによると、

木滑良久さんの口癖は「男は少年の心を忘れてはいけない」

だったそうである。

更に、海の向こうの「エスクァイア」の創刊編集長であった、

アーノルド・ギングリッチの言葉として、

「雑誌づくりは青年の夢だ」を引用している。

一時代を牽引したポパイは、いまも刊行されているし、

ブルータスと共に、またまた息を吹き返しているようにみえる。

一見、なんの主張もないような雑誌とみる向きもあるが、

作り手には、実に熱いものが流れているのが分かる。

雑誌とか本づくりとは、本当はこのようなものなのかも知れない。

つくっている本人が面白くない本など、なんの価値もない。

この本を読んでいて、

なんだか私も再び雑誌をつくりたいと思うようになった。

ネットに較べて、予算、人員の割き方も去ることながら、

その投資しただけの企画とこだわり、

そして直しの利かない真剣さを求められるが、

それだけの価値が、この仕事にはある。

ドンキな人たち

先日、訳あって普段は行かないドンキ・ホーテへと、

でかける。

で、そこで約2時間いる事となったのだが、

なんだろ、あの店に集まる人たちに、

ある一定の傾向がある事に気づく。

例えば、真っ白いトレパンに、黒のTシャツ。

短髪に鋭い目つき。

で、首にキンキラしたアクセだ。

私はたまたまその兄さんと目が合った。

と、目を細め、いきなり威嚇を開始だ。

(オメェは、野犬か?)

ひぇー。

闘争心丸出しのこの兄さん、

見たとこ、屋根の瓦職人と踏んだ。

(勝手な想像)

細身なのに筋肉隆々ですからね。

で、しばらくして威嚇を止め、

立ち去る兄さんの背中に、

今度は金色の虎がこっちを睨んでいた。

ゾゾッ!

さて次は、

すげぇ太った30代とおぼしきおばさん姉さん。

パンパンに膨れあがった黒ジャージに、

黒のタンクトップ。

これも凄いボリューム。

カゴに目一杯のポテトチップ他、ジャンクなお菓子を山盛りにして、

前をふらついている小学生位の我が子に、

「ほら、チンタラ歩いてんじゃねえよ!」

とひと吠え。

太っとい腕には、花びららしきタトゥが目一杯に広がっている。

なんだか怖ぇーって、思いましたね。

と、レジで前に並んでいるおっさんの他、

まわりに目を配り、ひと通りガンを飛ばす。

こちらもやる気満々の闘争系。

また、

iPhoneのケースを探していたら、

いました!

金爆っぽい兄ちゃんが、腰パンで、

鎖をじゃらじゃらさせながら、

やたら目を強調させた姉ちゃんの腰に手を回し、

スマフォのケースをいじり回している。

とああ、やっぱりねと思った。

二人は、ヒョウ柄のケースが気に入った様子で、

そこから離れようとしない。

こういうの好きなんだよな、この人たちって。

で、その辺りは、人の渋滞。

が、全く気にしないのが、

この店に集まる人たちの流儀なのか。

ああっと、ぐったりして駐車場へ戻ると、

すっかり夜のとばりが降りている。

で、よくよく観察するに、フツーのクルマが少ないのに気づく。

バリバリにキメた、金色のホィールのセルシオ。

そして、古いクラウンやクレスタなど、

いわゆる旧車といわれるピカピカのシャコタンが、

ざっと5台並んでいる。

軽自動車も様々な工夫を凝らし、

個性を競い合っている。

ピンクの毛足の長いものを敷き詰めたワゴンR。

また、LEDをふんだんに取り付け、夜景のなかで、

ラブホテルのような妖しい光を放つ、

やはり名称不明の軽ワゴン。

で、思ったが、

こういう人たちを引き寄せるドンキの魅力ってなんだろう?

これを幾ら考えても、分からない。

あと、この人たちは、普段どこにいて、

どこから集まってくるのかということだが、

これもまるで推測が立たない。

この傾向は、全国一律なのだろうか?

はたまた、都会の傾向、首都圏の傾向、

いや、地方の特異性なのか。

とにかく、ドンキを好む人たちには、

共通して、古き良き昭和のヤンキー魂が感じられる。

気迫と根性では負けないぜ、の湯気が上っている。

が、気になるのは、

こういう人たちがこんだけ集まる店って、

相当数のトラブルが考えられるが、

そういう話もあまり聞かないな。

そこもついでに分からない。

いまの世の主流は草食系と言いますが、

ことドンキに限り、それは当てはまらない。

皆、ガンガン自己主張しています。

喧嘩上等です。

やられたら、10倍返しの半沢直樹みたいな奴ばかりです。

みんな、日本をなめるなよ!

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相変わらずの、クラウン。

このところ、トヨタのCMを観ていて、

なんか腑に落ちない。

他の人はどうか知らないが、私的にかんに障るというか、

観ていて不愉快になる。

それは、ピンクのクラウンがデビューしたあたりから。

ドラえもん編がスタートだったと思うが、

その頃はまだ良かった。

しかし、たけしが秀吉、キムタクが信長役のCMが始まった頃から、

違和感が出る。

確か千利休役の鶴瓶も出ていたから、

話もでかいが、ギャラだけでも凄いだろう。

さすが、トヨタだ。

スケールが違う。

このシリーズのバージョンは多彩だが、

ひょっこりひょうたん島編では、

3人の偉人?が東北・岩手の海沿いを眺めて、エラソーに話す。

で、キムタクがひょっこりひょうたん島のテーマソングを歌うのだが、

そのヒューマンな歌詞に、この3人が浮いている感じ。

そもそも、生臭い歴史を生き抜いた3人の役柄から、

それは醸し出されるのかも知れない。

こうしてクラウンのCMは、

いろいろなモチーフを使って天下人がロマンを語ってゆくのだが、

CMが新しくなる程に、相変わらずというか、更に偉そうなのだ。

で、今度は松嶋菜々子だ。

彼女が例のピンクのクラウンを運転していると、

後ろから黒塗りのクラウンが追いつき並走する。

秀吉の亡霊のように、

黒いクラウンを運転しているたけしがつぶやく。

「人間は体力が衰えると他の力が欲しくなるんだよ」

「だから男って偉くなりたがるんだ」(松島菜々子)

「でも気がついた。衰えない力もあるって」(たけし)

「まさか愛なんて言わないでしょうね?

いつからそんなハイブリッドな人になっちゃったの。

クラウンみたい」(松島)

「スイマセン」(たけし)

まず、秀吉にもの申す松島は、一体誰なのか?

そこは、実は私はどうでもいいのだが、

きっとたけしにもの言う訳だから、

単純に松島菜々子あたりの大物女優?を充てたのだろう。

で、思い起こすに、

このクラウンのキャンペーンコピーは、

「権力より愛だね」だった。

しかし、私に言わせればこのCMの根底に流れているのは、

欲深い奴のいやらしさだ。

クラウンからは、やはり権力の臭いは消えない。

だって、いまさら愛かよ…

クラウンが生まれ変わったということだが、

実は、それがもはや困難なことを、このCMは教えてくれる。

だから、妙な違和感が残るのだ。

ここで言う、ハイブリッドな人というのは、

実は「権力も愛も、何もかも手に入れたい」という、

そんな人のことを指しているようにも聞こえる。

だから、秀吉なのだ。

なるほど、クラウンなのかと合点がゆく。

繰り返すが、今度のクラウンのコンセプトコピーは、

権力より愛だね

の筈。

しかし、何故このCMがかんに障るのかが、

私はだいぶ後になって分かったのだ。

それは、

クラウンに乗る人が、

実は「権力も愛もすべて欲しい」人と、

本音ではささやいている。

そのようにしか受け取れないのだ。

同類の仕事をしているので、

広告類は割と好意的に観ているつもりだし、

その苦労も分からないでもない。

だからこそ、クラウンのポジションが如何に難しいか、

そこがひしひしと伝わるし、このCMの狙いは良くとも、

戦術でコケているように思える。

だから、相変わらずのクラウン。

実は、なにも変わっちゃいないのではないか、と。

イマニクラスト

イマニクラスト、と書くと、何だろうと思う。

スタイリストのような職業名だろうか?

いや、

フェミニストとかロマンチストとかと似ている。

ちょっとカッコイイ。

○○ストは、文化の薫りがする。

が、エクソシストもいるではないか。

あれは怖い。

でですね、イマニクラストとは、

実は、居間に暮らすと、である。

下らないでしょ?

私は5年くらい、

ずっとイマニクラストを経験したことがある。

ふーん、なんで?

と思うだろうが、居間が便利だったから…

それだけだった。

そもそもイマニクラストになった原因は、

ひょんなことだった。

夜が更け、夕食後にウトウト寝てしまう。

で、家人に起こされても、起きない。

当初は私も2階のベッドで寝ようと思い、

必死で頑張ったが、気がつくと朝になっている。

こんなことが続くと、

本来のものぐさな性格がしゃしゃり出てしまい、

まあいいかと思ったら気が楽になり、

そのまま居間に居着いてしまった、という訳だ。

イマニクラストになるのは、簡単だ。

居間には、一年中付けっぱなしのエアコンがあった。

夏は快適。冬は暖かい。

台所に近いので、つまみ食いができる。

飲み放題。

パソコンもテレビもある。

音楽も自由に聴ける。

で、イマニクラストである。

だから、居間で暮らした5年間は、

布団とかベッドに寝たことがない。

いつも電気カーペットの上でゴロゴロしていた。

「身体壊すわよ」と、しょっちゅう奥さんに叱られていたが、

私は頑なにこのライフスタイルを固持した。

わりと頑固。

で、思い出すに

その頃はいつも起きていたし、いつも寝ていた。

そんな曖昧な感覚。

夜中に家人が起きてくると、寝ていた私も「よう」と起きる。

朝、家族がみんなで飯を食っていても、横で寝ている。

簡単に言うと、すげぇ迷惑な奴だったのである。

たとえば、喧嘩しても仲直りなんかしていなくても、

絶対に顔を合わすハメとなる。

だって私はいつも居間にいる、イマニクラストだったから。

普通の生活に戻ったきっかけは、震災だった。

いろいろなことを考え、自分の人生とかも考え、

エコを考え、健康も考えて、

イマニクラストをやめた。

イマニクラストは生活にメリハリがない。

ファジィだ。

常に仕事、常に休憩、常に寝ているのだが、

なんというか、

一日、一日という刻みが曖昧な上に、

時間の連続性に、いい加減うんざりするのだ。

翻って、ケジメのある生活というものは、

寝る前に、一日が無事に過ごせたことに感謝して就寝する。

朝、今日もベッドで爽やかに目覚められたことに感謝する。

となる。

ケジメのある生活は、再起動ができる。

ここんとこ、大事。

だから辛いことがあっても、一晩寝れば、

なんとか再び立ち上がれる。

心機一転という心境の変化も期待できる。

メリハリの利いた生活というのは、

要は、生きているありがたみが実感できるのだ。

私はイマニクラストを経験して、

やっとそのことに気がついた。

面倒臭い、便利だ、だけの物差しで、

人生のすべてを計っていると、

そこに大きな落とし穴が口を開いている。

イマニクラストが私に教えてくれたことだ。

ゴミの山を、宝に変える魔法。

以前、論語に関する本を何冊か買って読んでいた。

が、どれも難しいか、断片的な物言いで、

どうも論語の全体像が掴めないでいた。

ウィキペディアでみても、いまひとつ

物足りない。

或る日、本屋でふと論語の特集をやっている

ムック本が目に留まる。

これが秀逸の出来で、その編集力に恐れ入った。

そもそも論語とは、から始まり、

その歴史や時代背景、

孔子の生い立ちや人脈等が

コンパクトにまとめられている。

ひとつひとつの語彙の解釈も簡潔で、

そのことばの奥深さもみえてくる。

断片的に知っていた論語に関する知識が、

すっと頭のなかで繋がる。

図解やイラスト、デザインも丁寧で、

これは、ネットではまず出せない味わいと思った。

本として実体として存在しているのも、好感がもてる。

やはり紙はいいなぁと…

気になる箇所に印を付ける。

読みかけのページに折り目を入れる。

こうして、私のオリジナルになるのだな、と実感。

最近、一時より本の買い物も増えている。

なぜか大判のムック誌が多いが、よくよく思い返すと、

誌面のビジュアルと編集力が魅力なのだろうと思う。

ネットの世の中だが、いい加減疲れることが多々ある。

というのも、前述した編集力が、

どこも欠けているのだと気づく。

紙の良さも、改めて納得。

が、それ以上に、やはり編集力なのだ。

良い雑誌をみるにつけ、

話題、コンテンツのまとめ方、デザイン、写真――

――どれをとってもプロの仕事だなと感心する。

これらが有料なのは、考えてみれば当たり前。

一時、フリーというベストセラーも出たし、

ネットを始め、情報や知識はタダという風潮がある。

しかし、良いコンテンツに対して敬意を払い、

その対価を支払うというのは、

極めて自然な行為だ。

紙かネットかという議論は、この際置いといて、

私が言いたいのは、ずばり編集。

世の中に転がっているタダ情報を、

どう組み合わせ、どこにポイントを置くか?

また、それをどう見せると魅力的なのかを、

編集のプロは心得ている。

今後、編集力は、ますます需要が増すだろう。

良い素材は、巷に落ちている。

後は調理次第で、料理の出来は

どうにでもなる。

うまい料理をつくるには、

編集力がものを言う。

若い人たちがこれから学ぶとしたら、

私は「編集」をオススメする。

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涼しい景色

南部鉄風鈴も、金魚風鈴も、

その音が涼しい。

きっとあの音が、風の存在を伝えるからだろう。

すだれに加え、今年はよしずを買った。

これを日当たりの強いサンルームへ立てかけると、

目にも涼しい。

東南アジアのリゾートへでも出かけた気分になれる。

去年はゴーヤでグリーンカーテンをつくったが、

今年は時機を逸してしまった。

室内を見渡すと、居間の明かりが暖色系で暑い。

冬は良いが、夏は発熱しているようで、

それだけで室温が上がる気がする。

そこでホームセンターへ行ったときに、

涼しげな色のLED電球を発見。

我が家の居間で試すことにした。

幾分居間が涼しくなったように感じる。

が、欠点もある。

まず、食事のときのおかずの色が良くない。

あまりうまそうに見えないのだ。

特に、刺身に顕著だ。

そういえば、食品の撮影を何度か経験したが、

あれは、うまそうに見せる工夫が随所にあった。

あったかい料理に見せる湯気。

冷えた飲み物を表現するグラスの水滴。

いろいろあるが、基本はライティングだと、

プロの方が話していた。

これは料理の撮影だけでなく、

女性を撮るときも同じである。

特に肌の色は、ライティングでどうにでもなる。

そういう意味で、

夏を涼しげに演出するのに、LEDは最適品。

だが、目の前におかずが並び、

奥さんの顔を見ながら飯を食うとなると、

なんでかアダムス・ファミリーという映画を思い出すのだ(汗)

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届く、パーソナル・マーケティング例

沖縄地方の特産には、いろいろなものがある。

シークァーサー、サーターアンダギーとか、

チンスコウ、ソーキそば、海ぶどう、そしてもずくなど…

以前は、沖縄の泡盛もよく飲んだ。

残波という泡盛は石垣島のものだが、

これはうまいしネーミングが気に入っていた。

残波…リーフで波が砕ける様子が目に浮かぶ。

雰囲気からしてうまい。

久米仙という酒もまた、名前良し、味良し。好きだったな。

沖縄には一度しか行ったことはない。

隣の与論島という島も行ったが、

ここはサトウキビ畑と珊瑚礁のリーフが美しい。

この島で泡盛を初体験した。

ベロベロに酔ったが、何故か翌朝は爽やかだった。

で、飯もうまい。

この辺りの食い物とか酒はいいね、という印象から、

後年通販を利用していろいろ試したことがある。

あるときウコンのDMが来て、

これはなんだかカラダによさそうと、頼んだことがある。

当時は酒ばかり飲んでいたので、ウコンはいいですよと、

確かそんなことが書かれていた。

で、ときは流れて私も酒を飲まなくなり、

こうした特産品も飽きた。

が、相変わらず電話がかかってくる。

DMも届く。

これは他でもよくあることだが、

ここの売り込みの特徴は、

なんだか他と違っていやらしさがないのだ。

DMの中身を取り出すと、直筆の手紙が入っている。

印刷かなとよく確かめると、直筆である。

うーん、やるな。

で、ふんふん感心していると、頃合い良く、

わざわざ沖縄から電話がかかってくる。

○○さん、お元気ですかとか、

最近おからだの具合は、とかコチラが買う意思がなくても、

嫌みなく話してくる。

こうなると私の警戒心も解かれて、

一応話しますよね。

それがマニュアルに沿った話でなく、

世間話なんかを織り交ぜ、

気がつくと沖縄の知り合いの人と話している。

そんな気になってしまう訳。

アドリブが利いているのだ。

DMの中身一式は、あるひとつの流れに沿ったもので、

そのセットに目新しさはない。

が、直筆の手紙というのは、どこも面倒なので避けて通る。

電話にしても、テレマーケティングのテーゼというのがあって、

それに則ってかけている。

が、他はもっと事務的かつスピーディーである。

そのあたりが他と違う。

まるごとひっくるめて沖縄なのである。

ビジネスにしては、かなりユルイ。

が、しっかり私に届く。

いまはまるで欲しくないものばかりなのに、

なんか買うものはなかったかなと、

再度DMをながめていた。

今度はきっと買ってしまう、だろう。

快く無駄金を使うであろう、

パーソナル・マーケティングの仕掛けなのでありました。

センス良く暮らす

いつか大きな家に住んで、贅沢をしたい。

高いブランドものを身につけ、悦に入る。

成功者は、大型高級車に乗るもの。

上記のような価値に捕らわれている人がまだいる。

ある意味、分かり易い。

あまり考えなくても出てくる答えだ。

しかし、もうそんな時代ではない。

これを読んでいるあなたは、

とっくに気づいているのではないか?

それが、センスというもの。

文化が成熟すると、人はお金の価値の先に何があるのか、

その事を考え始める。

お金の先にあるもの…

例えばそれを、心地よく生きること、と定義付ける。

どう心地よく生きるかは人それぞれだが、

それを追求する行為が、グッドセンスに繋がる。

よくよく自分の生き方をみつめる人だけに

良いセンスが訪れるようにできている。

モノをみるとき、

それはプライスではなく、自分の目で確かめる判断力が問われる。

ブランドに左右されることなく、

モノの価値を公平に判別する眼力が必要になる。

手かがりは、自らの価値観しかない。

これは、人間関係にも当てはまる。

人を色眼鏡で見ない。

他人の噂を信じない。

自分がその人をどう思うか。

そうして人間関係を築いてゆくことが、

その人固有の広がりをみせる。

これらを総じて良いセンスと言う。

自らの物差しを頼りに、

世の中を歩くことは、かなり勇気がいる。

もし、自らのセンスが良くなければ、

そのようなモノと人に囲まれる。

そう考えると、もはや他人事ではない。

これからの時代に必要な能力がセンスだ。

センスの善し悪しは、

だいたいに於いて、その人の生きてきた履歴に由来する。

だから、センスが悪かろうと致し方ない。

そのように暮らしてきた歴史があるからだ。

そして人はあるとき、何らかのきっかけで、

それを見直そうとすることがある。

賢い人は自らの暮らしを棚卸しするだろう。

過去と向き合い、これからを考え、

人生のツーリストとしてどう進んでゆくのかを、

自ら企画する。

そうして自分の方向性を変える。

自ずと価値観も変わるだろう。

態度や行動が変化し、習慣が変わる。

習慣が変わると、生き方に変化があらわれる。

こうした過程で、その人なりの価値観が再構築され、

人のセンスは変わる。

人は毎日センスを問われている。

無意識であろうとなかろうと、人は刻々と判断して、

そうして暮らしているのだから。

センス良く暮らすとは耳障りの良い響きだが、

これはよくよく考えると、

心地よく生きるための、ひとつの知恵とも言える。

年をとると…

だいぶ以前の話。

夕飯を食いながらテレビを観ていた。

たまたま点けたチャンネルが、

歌番組だった。

テレビは、実はどうでも良かった。

気晴らしに観ただけだった。

はじめは聴き流していたが、

ふとその歌詞が気になりだした。

そしてじっと聴き入ってしまい、

しまいに、涙が溢れた。

ああ、

年をとったなと思った。

懐メロは幾度となく聴いてはいたが、

あまり古いものは私も知らないし、

そうした歌は、私の親の世代の歌のように思われた。

二葉百合子の「岸壁の母」も、

私の親の世代がよく唄った歌だろう。

若い頃から、

この歌がテレビから流れると、

陰気な気分にさせられた。

そして、すぐチャンネルを回していた。

大嫌いな歌だった。

私は、戦争を知らない子供たち、のひとりだ。

しかし、こうして中年になり、

両親もいなくなり、

また人の親となって永く生きていると、

なにか他の景色がみえてくる。

それは流行りものでなく、

浮き沈みするようなものでもなく、

情というか、

人生に対する愛おしさとでもいおうか。

人ってつくづく不思議な存在だと思う。

いろんなものを背負って

そしていつかは去ってゆく…

生きるおかしさも

捨てたい悲哀も、

人は抱えきれないものを

幾つも幾つも背負い、

一体、何処へ行くのだろうかと…