BigDogとAndroid

興味と同時に薄気味悪さを感じるのが、

ロボットの進化である。

遂にここまできたかと…

軍事用に開発されたBigDogは、

一見、その動きが滑稽だが、

コイツが兵団となって人を襲ったりしたら、

かなり恐ろしい。

が、人に代わって荷役や災害時に活躍してくれれば、

なかなか頼もしいのだが…

↓これは偽物です!

一方のAndroidは、その進化の方向により、

何をめざしているのか、

そこが私にはいまひとつみえない。

人に似た、ロボット。

受付嬢、新しいアイドル?

スキャンダルは起こさない。

たぶん。

また、孤独な人が、

新しい家族として迎入れるというのも、

そのうちありそう。

もう少しで、ロボット主導の時代がくる。

それは、想像するに、

共存共栄することで実現する良好な社会。

が、彼らが良くない企みでネットワークを組めば、

私たちを支配することも可能だろう。

ここが相変わらず、人のもつ矛盾なのだが、

包丁の使い途と同じく、

未来は人の良心に委ねられている。

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おとなって?

最近つくづく思うことだが、

おとなって演じるものなんだ、ということ。

だって年食ったって、

アタマの中ってそうそう変わらない。

最近になって、ようやくそれが分かった。

生きていれば、誰もがそれなりに社会に揉まれ、

いろいろな場でいろいろな人と出会い、

喜怒哀楽を重ねる。

で、世の中を見渡して、

他人を思いやることも覚えた。

が、何かが、相変わらずガキなんだなぁ。

変わらない。

変われない。

脳内年齢は、二十歳前後というところ。

まあ、人の親になって、曲がりなりにも子供を育て、

少し社会的に偉くなったりすることもあるけれど、

そうした場に出て、言っていることもやっていることも、

それなりの体面でしかない。

それがおとなと言えばそうなんだろうが、

その程度でして…

顔のシワが増えたって、白髪アタマでも、

根っこのところが、ガキの頃と変わらない。

強いて挙げればだが、ムカシより用心深くなった、

臆病になった、

そして、時間に限りがあることを実感するようになった。

それでもなお、落ち着いた振りをしている訳。

私ら、年いった人間はしかし、

一応永く生きている分、

なにかしらの修行に似た経験をしている訳で、

総じて我慢を強いられ慣れている。

会社で、街で、家庭で…

こういうのを年の功というのだろうか。

で、得たものは、ずるさ。

これを知恵と置き換えることもできるが、

そうしてエセおとなは、戦争を始めたりもする。

だから、知恵って、おとなの特許なのだ。

体力がなくなって、アタマでっかちになり、

ずるさが身についたとも言える。

落ち着いた物腰というのも、一見、理性的。

いつもにこにこしている輩も、

なにもいい人な訳じゃない。

或る忘れ物を取りに引き返すのを、止めただけなのである。

だからおとな諸君、

悟ったような自分を、かいかぶらないように!

そして子供諸君、おとなをあまり敬わないように!

思慮深くみえるのは、

実は、それだけ演技に磨きがかかっただけ、

なんですから!

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やなせたかしさんのこと

中学のときに好きな子ができて、

横浜駅の近くで画詩を一枚買い、

その子にプレゼントした。

画詩には、簡単なイラストに添えて、

こう書かれていた。

あるいちにちが

あった

海を見ていた

ただそれだけの

ことなのに

その日のことを

おぼえている

モノクロの絵が素敵だった。

鉛筆で水平線が簡単に描かれていて、

丘の上に人が立っている。

後ろ姿だけ。

絵も詩もシンプル。

なのに惹かれるものがあった。

やなせたかしというサインがあったが、

私は後年その人のことを知った。

それから遡ること数年、

小学校の校庭で遊んでいたとき、

校内放送から流れた歌が、

ふと耳に留まった。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

言われるとおり、太陽に向かって手をかざしてみると、

確かに手が透けるように赤く見えた。

ミミズも友達という歌詞が不思議に思えた。

父親になって、

子供たちの付き合いで、

テレビでアンパンマンをずっと観ていた。

バイキンマンとドキンちゃんがいつも悪役なのだが、

どこか憎めないキャラクターだった。

アンパンマンが雨に濡れると、

正義の味方なのにヘナヘナになっていた。

人気の秘密が、少し分かったような気がした。

やなせたかしさんの名が世に出て、

本格的に活躍し始めたのは、60代からだと言う。

彼の本を数冊持っていて、

そのなかに印象深いものがある。

「僕のように、

あまり才能に恵まれていない者は

ゆっくり走ればいい。

『あきらめるな!』と自分を叱咤しながら

目の前1メートルぐらいの地面を見て

走り続けるというやり方です」

「悲しいとき、絶望しそうになったとき、

握り拳をつくってみてください。

そして、握り拳で涙を拭くのです。

そうすれば、もう一度生きてみよう、と

立ち直ろうとする自分が、

涙のなかから生まれてくるのです。」

『やなせたかし 明日をひらく言葉』(PHP研究所 刊)

私のなかで、

やなせたかしと言う人は、

漫画家である前に、

詩人であり、

凡人が生きるに値することを教えてくれた、

先生のような人だった。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます

合掌

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いきいき健康講座「ジャンクフードの食い方」

或る本で読んだが、

いまは人が死んでも、

昔のようになかなか腐らないそうである。

嘘のような本当の話だ。

その原因はというと、永年食物からとりこんだ防腐剤だという説がある。

或る本としたが、

確か養老孟司さんの著書だったように思う。

中国の食品汚染は有名だが、我が国だって分からない。

というか、すでにいろいろなものが入っている。

例えば、商品を長持ちさせる、味を良くする、見た目を綺麗にする。

そんな目的で、食品添加物が混ぜられている。

他、農薬は言うに及ばず、

放射能に汚染された食品も出回っているのかも知れない。

これらを徹底的に排除するには、

生産から流通経路までが明らかなものを選ばなければならない。

しかし、こうした商品に限って値段は高い。

これは、富裕層のみ可能な選択。

また、外食で済ませなくてはならないこともある。

この場合も、身元の確かな食材を使用しているか否か、

そこは怪しい。

とまあ私たち庶民は、

食品添加物や他の汚染物質にまみれたものをせっせと食っている。

それを避けて通る訳にはいかない。

私はよくジャンクフードを食うが、

あるときから、

この避けられない汚染から身を守るためにはどうしたら良いか?

そのことを突き詰めて考えたことがある。

結果、こういう結論に達した。

まず、脳を騙す、という行為。

なぜこの結論なのか、だが、

まず人間は、ネガティブなもの・事柄に出会うと、

身体が拒否する。

こわばる。

この所見は、元を正せば、脳の仕業だ。

結果、例えば汚いものを食ったりすると、

後で悪心がしたりお腹が痛くなったりする。

これは、汚いものが悪心や腹痛を誘発したのではなく、

ほとんどの場合は、脳がそうさせている。

で、本当にバイ菌やウィルスが入った場合の症状だが、

この場合も、頑として脳がノーと指令すれば、症状は軽く済む。

これは、ある程度本当らしい。

広義のフラシーボ効果だ。

また、食中毒に関してだが、

あれも症状の酷い人とピンピンしている人がいる。

これが抵抗力の差だとしたら、その差は何なのか?

これも答えが明快で、身体の健康度や疲労度の差に加え、

性格の差で決まる。

要は、「平気、たいしたことない」と考えている人の症状は軽い。

このように、メンタルは身体を左右する。

で、ここから理屈は一気に飛躍し、

脳とメンタルの話に移る。

前述のように脳を騙すとしたが、

正確には強いメンタルをもてば、怖いものはない。

という訳で、強いメンタルの前では、

食品添加物も汚染も毒が効きづらい、

という理論が成り立つ。

その一歩手前に、現在の私は立っている(?)

腐ったものを美味いといって食う………

これはちょっとオーバーだが、

サバイバル的には必要な知識だ。

また、添加物のごってり入ったジャンクを、

健康食品を採るようにありがたくいただく。

さらに、汚染された食材をよしよしといって、

天に感謝しつつ食う姿勢。

このようにして、

我々はなにものにも負けない健康体を築くことが必要だ。

気持ちひとつ!

鍵はメンタルが握っている。

これは疑いようがない。

余談だが、これをコピー的に表現すると、

あなたのカラダは、あなたのメンタルがつくる。

または、

カラダって、実はメンタル。

となる。

さて、こうした強靱なメンタルを如何につくるかだが、

ここで、私のアイディアを紹介しよう。

まず、なにごとも我慢する習慣をつける。

これは言い換えれば、欲望に勝つ精神力を鍛えること。

そして、極めつけは貧乏と借金だ。

これらの辛酸を舐め尽くし、それを乗り越えると、

不思議と怖いものはなくなる。

同時に、根拠のない自信も育ち、

神がかり的なことさえ体得できる体質となる。

以上が、私が現在研究中の理論なのだが、

どうだろうか?

皆さんのご意見を伺いたい次第である!

本日は本音で…

スター伝説。

スターっていうのは辛いものだと思う。

南沙織だって百恵ちゃんだって、いまは伝説である。

どんな生活しているか、ほぼ皆知らない。

が、素人が思うに、

あまり人が集まるユルイところではしゃいだり、

のんびり羽なんか伸ばしてはいられないだろう、

ということ。

通報とか写真とか報道とかある訳で、

あの可愛いかった娘がとんでもばあさんに、

なんて見出しが躍る。

そこは、例え億の金を貰っていても、

本マグロが幾ら食えても、

ちょっと辛いんじゃないだろうか?

この生活は死ぬまで続く。

一般人をですね、まあ天気に例えれば、

うす曇りのような人生なのか知らんけれど、

スターのように、あまりにコントラストの強い、

ピーカンのち豪雨、というようなのもどうかと…

黒柳徹子とか吉永早百合張りにいけばいい。

森光子、森繁久弥然り。

タケシとか健さんのようになれば、これは官軍だ。

が、大半の元スターが食うためか目立つためなのか、

整形の他いろいろ小細工までして、

テレビのバラエティなんぞで、

恥も外聞もなくプライバシーを晒し、

晩節を汚すことを厭わない。

赤木圭一郎、坂本九、夏目雅子、

そして裕次郎。

いまでも永遠のスターであり続ける。

ジェームス・ディーン、グレースケリー。

この人たちも、皆若くしていなくなってしまったが、

全盛期の輝いた伝説だけが残る。

皮肉なことだなぁと、つくづく思う。

日本、自立。

いま思えば、彼は不思議な人だ。

野田という元首相のおっさんだが、

選挙ボロ負けを覚悟して、

一体なにをムキになっていたのか。

ここは謎である。

消費税を上げるといって、頑なだった。

増税の道筋をつくるとして、

周囲の意見も聞かなかったという。

この一点に於いて彼は一途だった。

誰かに頼まれたのか、と私は勘ぐりましたが。

で、挙げ句、民主党はご覧の通り。

それはそれで良かった。

で、行政改革に関して、

彼もしくは民主党は、全く無能だった。

そこに手をつけず、

原資を消費税に求めたのだろう。

片手落ちの政策に皆が納得する訳がない。

が、この法案が通ったとき、

野田さんは晴れやかな顔をしていた。

震災後の復興に遅れを生じさせ、

また尖閣の対中国政策では戦略的な考えもなく、

その弱みを突かれた。

この一連の流れをみても腹立たしい。

で、替わって登場した自民党の阿倍さんだが、

みんながこの政治家を、

手放しで喜んでいる訳ではない。

時代がうねるとき、ああいう人は必要だ。

その一点に於いて彼の存在が光っている。

が自民党も相当の悪役揃いで、

元を正せばとんでも利権集団のように思える。

これは、この政党の過去が示している。

こうなると、

この国の利を考えて行動している政治家は、

ほんのわずかではないかと思えてくる。

でなければ、

日本はいろいろな意味で、

とっくに自立している。

もちろん、外交、軍事に於いてもだ。

猿との攻防

元来、猿が嫌いだ。

以前、伊豆の波勝崎で、

猿の集団に囲まれたことがある。

どんなに手を出されても相手にせず、

決して目を見ないこと。

この原則どおりにその場を切り抜けたが、

かなりアタマにきた覚えがある。

これは思うに、

猿と人間の近親憎悪から生じるもののようだ。

人間でも猿顔の方とは縁が薄い。

過去、ロクなことがなかった。

きっと相性が悪いのだろう。

で、先日ベランダへ出ると、

さっと走ってゆく何かがいた。

とっさのことで一瞬アタマが働かなかったが、

その後ろ姿を見てカッときました。

我が家の庭に猿が佇んでいたのである。

更に腹立たしいことに、

コイツ、途中でこっちを振り返り、威嚇を始めたことだ。

私の知り合いの農家で、こんなことがあった。

畑を荒らされ、罠を仕掛けた。

犯人はイノシシらしかったが、

猿がかかった。

で、一晩放っておいたところ、

翌日に警察が来て、

動物虐待の容疑をかけられたという。

嘘のような話だが、本当だ。

猿も大変と思います。

生きる事情は皆同じ。

元を正せば、我々がいけないのも承知だが、

なんだかイライラするな!

でですね、

奴等をよくよく観察すると、

どいつも筋肉隆々なんです。

で、すげぇ毛深い。

とこれは関係ないが、

とにかく鍛え方が違うのである。

参ったな、というのが本音。

贅沢は素敵だ!

地球温暖化、そしてエネルギーが枯渇する懸念から、

そもそもエコは始まった。

当初、エコは悪く言えば、単なるブームに過ぎなかった。

が、やがてその地位は安定し、

現在はしっかり足が地に着いている。

というより、エコ度はいま、さらに加速している。

シェールガス供給にメドが立とうが、

メタンハイドレートが出ようが、

地球全体で、温暖化阻止、

もったいない運動は推進されている。

例えば、クルマ。

私がたまに行くカーデイーラーでも、

ショールームに展示してあるクルマは、

どれも排気量を下げ、

車体の軽量化と燃焼効率、Co2削減に知恵を絞る。

特に、燃費の善し悪しは、

買うか否かの最大の焦点となる。

ハイブリッド車も現在は全盛だ。

クルマの魅力や価値観も相当変わった。

だから、

大排気量で疾走するスポーツカーなんぞ、

いまや時代遅れ、と私は思っていた。

が、世の中は広い。

多様化の時代なのである。

エコとは全く無縁のクルマもどっこい健在のようで、

それが時代遅れなのかというとそうでもなく、

そうした市場はしっかり形成されている。

この場合、ただデカイだけのクルマなら、

アメ車の話だけで充分だが、

そのアメ車だって、ダウンサイジングしている。

そんな時代の流れのなかで、

価格面でも仕様でも全然エコじゃないクルマが、

幾つか存在する。

例えば、欧州のスーパー4WDがそれだ。

レンジローバー・イヴォーグは、45°の急勾配でも難なく登るし、

50㎝の水深でも走り続けられる設計になっている。

で、車体価格が600万円弱。

贅沢。

そんな坂、どこにあるのかとか、

いつ水の中を走るのかなどと、

野暮なことを言ってはいけない。

いまこのクルマは、欧米や日本でも飛ぶように売れているのだ。

で、お馴染みのベンツやポルシェも、

大排気量4WDを発売した。

ポルシェに至っては380馬力の怪力を秘めているというから、

これは贅沢というよりも無駄のようにも思えてくる。

現実的に考えて、いま世界の道路で、

この怪力を試す機会は皆無と思う。

で、車体価格だが、

ベンツCLSシューティングブレークが1000万円弱~1800万円。

ポルシェカイエンSハイブリッドが、1113万円。

私からすれば、まず4WDっていうのが、そもそも贅沢である。

あと、こんなに高額で、ローンなんて組めるのかとか、

そういうセコイことしかアタマに浮かばない。

ポルシェは驚くことにハイブリッドだが、

それにしてもリッター10kmを稼げるのは、

高速巡航の場合だけらしいということ。

うーん、贅沢!

で、もっと凄いのがフェラーリ。

4人乗れて、荷物もいっぱい積みたいと誰が言ったか知らないが、

最高速300㌔くらいの性能は維持したまま、

その要望をカタチにしたのが、フェラーリFF。

V12気筒エンジンを搭載し、高速道路を330㌔で疾走する。

で、車体価格が3200万円也。

こうなると、超高級4WDだの超豪華RVだのと言っている場合ではなく、

なんだこの価格は、となってくる。

一戸建て住宅のようなこの車両価格で、

一体誰が買うのだろう。

が、現実に売れているというから、

世の中はやはり広いのだ。

格差社会とか経済格差ということばが閃くが、

私としては、こういうものが売れる社会というものも、

まんざら悪くないような気もする。

それより注目すべきは、

エコだけで地球を救えるか、ということ。

私が思うに、

エコだけでは、きっと人類を救えないのだ。

人の歴史は無駄の歴史でもある。

その最たるものが、

芸術とかアートとかいわれている領域ではないだろうか。

で、これが無駄かというと、そんなことはない。

これは、皆が認めるところだ。

華やいだ時代や地域には、必ずといっていい程、

芸術・アートが開花している。

贅沢や、一見無駄なモノ・コトは、

巡り巡って、やがて私たちの生活・人生を潤す。

これは、皮肉なことだ。

実用一本槍で、私たちは暮らせない。

だから余暇があり、レクリエーションがあり、

遊びがある。

クルマのハンドルだって、遊びがある。

遊びのないクルマは、怖くて運転もできない。

エコで地球は救えるかも知れない。

しかし、私たちを救ってくれるのは、きっと無駄なのだ。

では、例えば上記した超贅沢なクルマたちは、

一体何を生むのか?

想像できることは、

きっと、あんな無駄なものを買う人たちは、

他でも有益な無駄をしているということ。

それが寄付なのか、テクノロジーなのか、

芸術家やアーティストの手助けなのか分からないが、

とにかくその辺りに期待はできる。

要は、無駄が巡ることが、

次の創造に繋がるということではないだろうか。

こう考えると、

やはり人間というものは、

つくづく複雑系ないきものだ。

「いま」という時代の広告表現

ツィッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索の世界である。

で、検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

企画・制作者として売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現する一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に納得したりして、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となっている。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要はビジネスなので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか、怪しい。

いまのネット広告は、感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

ヒット商品の仕掛け

「太陽のマテ茶」が売れているという。

日本コカ・コーラの久々のヒットでしょうか?

まず、マテ茶は、無糖飲料で、ダイエット効果の他、
テレビや雑誌等で健康に良い、というイメージで流れ始めた。

これにはきっと仕掛け人がいる。私はそうにらんでいる。

で、マテ茶?
私は以前からこのお茶を知っていたが、知らない人も多かったに違いない。
(私は個人的にこのお茶を愛飲していた過去がある)

が、ずっと続く日本人の健康ブームに、久々の大物の登場ということで、
マスコミとテレビで火がついたと考えれば合点がゆく。

それが意図したものであるにせよ、
浸透に成功し、市場に認知された。

洋食化が進む日本。
いま人気の草食系だけでなく、やはり肉食系も健在なのだ。

ポジティブに健康になりたいのは、誰もが抱くもので、
コマーシャルも水着姿の健康な方たちに踊って頂く。

で、ネーミングだが、マテ茶だけでは面白くもなんともないので、
太陽の…がこの商品の肝になっている。

売れるネーミングの良い例。
太陽…付けるだけでイメージが広がる

それに付加するように、デザインは陽気なラテンのイメージで太陽を象った。

ここまでやると、不況だろうと「もの」は売れる。

イメージとタイミングの勝利だ。

生きるを、デザインする、ということ。

松尾芭蕉の奥の細道に、

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

とある。

これを解釈すると、

松尾芭蕉は、自ら旅をしているにもかかわらず、

時の流れを旅人として詠っている。

これは、中国、唐の時代の詩人、李白の『春夜宴桃李園序』の

「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」を意識し、

自分なりにアレンジしたものとして伝えられる。

こうしたことばには、壮大な宇宙観が漂い、

その隅々に至るまで、計り知れないロマンが宿っている。

解釈は違うが、

人が生きていくことの感慨に触れ、

その過程を、旅と解釈することはよくある。

凡人の私には、こちらがしっくりくる。

これをマーケティング的に捉えると、

旅におけるバリューを考える、などとなる。

旅の価値を高めることこそ人生における最大のテーマだ、

と誰かにプレゼンすることもできる。

さて、人生を旅であると定義すると、

旅をするのなら素敵な旅を、と誰もが考える。

そして旅における「素敵」とはを追求すると、

これは高度な話となり、

尚且つ、人それぞれの価値の分だけ多岐に渡る。

そもそも実際の旅とは、

時とともに空間を移動することにある。

そこに感動やよろこびなど人の心が凝縮され、

旅は完成する。

辛い旅もある。が、そんな旅は誰もしたくない。

バリューは、欠かせないのだ。

それを人生に置き換えると、

夢であり、志であり、愛なのかも知れない。

このすべてが、生涯のバリューの素材である。

こう考えると、マーケ的に捉えた旅も、

自分をみつめる上で、試す価値はありそうだ。

またこれを、

旅をデザインする、

人生をデザインする、と言い換えると、

若い人は将来のプランを、

定年退職を迎える人は老後の有意義な過ごし方等を、

かなりビジュアル的に分析することもできる。

落書きでOK。

思いついたことをメモしたりスケッチすることは、

自分のなかに眠っているものを吐露するのに最適だ。

このように、商業的な用語の中にも、

人生考える元となるノウハウは潜んでいる。

「人生をデザインする」とは、

突き詰めれば、これからどう生きるか、

未来の「私」と真剣に向き合うきっかけにもなる。

光陰矢の如し。

芭蕉や李白に迫る必要はなくとも、

時の流れのなかにいる私たちは、

やはり旅人だ。

そこにバリューがあれば、と皆思う。

やはり、生きるデザイン力は必要だ。

才能ってなに?

柄に似合わず絵が好きで、

一時期、美術館巡りをしたことがある。

ピカソやルノワールなどの巨匠と呼ばれる画家、

日本の著名な画家、

そして現代作家でまだ名の知らない画家も含め、

とにかくじっと観てしまう。

そうした時間は、とても幸せな気持ちになれる。

よく、自分にも絵の才能があったらな、と思うことがある。

が、学生時代から絵は特別下手だった。

働くようになってからも幾度か描いたが、

人にみせられたものではない。

音楽も同様。

吹奏楽部に所属していたとき、トランペットを吹いていた。

毎日マウスピースを持ち歩いて、時間が空くと吹く。

あまりやり過ぎると、唇から血が出た。

当時はニニ・ロッソとかハーブ・アルパートという

スターのトランペッターがいて、

いつかあのようになりたいと思っていた。

が、同じ部内の先輩の透き通るような高音を聴いて、

どうしてもその音が出せない私は、かなり落胆した。

その先輩に将来は何になりたいのかと訪ねたところ、

サラリーマンと聞いて、余計に驚いてしまった。

結果、トランペッターは無理と判断。

徐々にやる気をなくし、退部してしまった。

写真の道も、経済的な理由で辞めてしまった。

当時、カメラマンになるには、とにかく高い学費が必要だった。

お金のない私の家では、諦めるしかなかった。

が、最近この頃のことを思い出す度に、

ホントに無理な道だったのかと考えることがある。

何故そう思うのか、だが、

まず私は精一杯努力したのか、

とことんやってみたのか、ということ。

そこが自分への疑わしさなのだ。

これはうぬぼれとかそうした次元の話ではなく、

誰にでも当てはまる共通項のような気がしている。

才能ということばがあるが、そもそも才能とはなんだろうと、

最近よく思う。

都合よく考える私は、人の才能なんていうものは、

あったとしてもたいしたものではないなと…

みんな、環境や好み以外に、

スタートは大差ない。

これが真実のような気がするのだ。

人並み外れた天才は確かにいるが、

こうした方たちは神に選ばれた人なので、

ある使命を携えているのだろう。

なので、今回の話には無関係だ。

私はいま、コピーライターという職業に就いているが、

別段、特別ななにかをもっている訳でもない。

前職は編集という仕事をしていたが、

ただ頑張るしかない。そうした世界だ。

他は、好きかどうか、それ以外、なにもないのだ。

学生時代にこうした世界にあこがれ、

まず作文教室に通ったとき、

私の作文を読んだその教室の先生は、

まず私にこう言った。

「君はなぜこの教室へ来たのか知らんが、

マスコミ関係をめざしているのなら考え直しなさい。

止めたほうがいい」と。

当時、いろいろな本を何冊も出版していた、

この超有名糞野郎先生のひとことで、

私は止めるどころか、産まれて初めて真剣に勉強をした。

こいつの言うことにアタマにきたからである。

お前なんかに、俺の将来が分かってたまるかと…

結果的に、この超有名糞野郎先生は私の先生となってしまった。

現在も一応プロとして、細々とこの仕事を続けているが、

少なくとも、このとき、そのことば通りに諦めなくて良かったと、

心底思っている。

他人のいうことなんか糞食らえなのである。

やるときはやる。

これしかない。

やろうと志せば、できるような気がする。

いま、ここまで生きてきて、やっとそう思うようになった。

こうした話は、すべて結果論となる。

いまは時代も違う。

が、人はみな、最初は大差ないことだけは確かだ。

偉大なる勘違い。

自分を信じる。

負けない心。

地道にやる。

こうしたプロセスを経て、みな伸びてゆく。

きっと、才能なんていうものは、

人のうわっ面を適当に表現した、

都合の良い言い訳でしかないのだ。