ネット依存

ネットは、鏡の世界だ。

実生活と別の世界だが、

リアルな生活と似た世界、

いやそれ以上の途方もない世界が

広がっているようにも思える。

底なしだ。

欲しい情報は、ほぼ手に入る。

が、そこが怖い。

例えば、ネット以前。

本などで学んでいた時代は、

そこで分からない、不明なことは

本屋や図書館にでも行って調べるか、

人に聞くかとか、

まず行動を起こした。

それでも解決しないことは、

答えを求めて悩んだり、

さらに動いたりしたものだ。

また、あきらめるという選択肢もあった。

ネットは、いわゆる知識の宝庫なので

いまやネットを操る人は皆、知識人だ。

(どうでも良いものや間違った知識も満載だ)

知識は人を物知りにはするが、

そこに経験が加わらないと、

何の創意工夫もないままの

あたまでっかちが出来上がる。

ついでに、カラダだって鈍ってくる。

いつまでもパソコンの前にいる抑制のない人間は、

それこそ大切な時間の総てを注ぎ込んで

ネットに見入る。

なにしろ鏡の世界だから、

ネットの海原に漕ぎ出したら

帰ってこない人間は数知れない。

事の程を知ってる大人は、

生活の総量と時間のバランスを考える。

ネットの特性を知った上で、

夢中になっても、

心の陽が沈む頃に引き返し、

あとは、誰かと会話を楽しんだり、

散歩でもしたり、料理をつくったり、

スポーツでもやったりするのが

まっとうな人間というものだろう。

バランスを崩したネットの達人は、

パソコンやケータイの前であたまでっかちになり、

鈍ったカラダをもてあまし、

もはや鏡の向こうの世界の住人になってしまう。

いまや、こうした人間で溢れかえっている。

いろいろな事を知っている達人の知識は

たいしたものだと思うが、

五感は正常か?と言いたくなるような輩も、

最近、多々見かけるようになった。

例えば旅行。

ネットの達人は、実際の旅行なんかしないんじゃないか。

パソコンの前で、行く先の総てを調べた挙げ句、

もう旅行へ行ってきたような錯覚で、行動しない。

恋愛なんかも同じような要領で、

ネットの上で真剣な交際相手を探し始める。

付き合い始めたとしても、一度も会わずに別れたりする。

私たちはいま、ネット情報に支配されている。

テレビ、新聞などの情報には限界があるが、

ネットの中の情報は、途方もないコンテンツが仕組まれている。

そろそろSOSを発するべき時が来たのではないか?

ネットはいわばハサミと同じように語れる。

使い道次第で、私たちの生活も仕事も快適にしてくれる。

しかし、ネット依存人間などにみられるように、

使い方を間違えると、

生き方そのものが破壊されると思った方が良い。

そもそも、人が生きてゆくというのは、

毎日の生活一つひとつのリアルな行為の積み重ねであり、

行動と思考を繰り返すなかで、いろいろなものを学ぶように仕組まれている。

そこで五感が活動し、喜怒哀楽を繰り返し、実感を掴むものなのだ。

人は経験から学び、知識も経験を踏まえてはじめて、

知恵をものにする。

現代人は、バランスを崩してしまった。

私たちはいま、

知恵も肉体もおろそかにしてはいないだろうか?

さて、この文章は、自戒を込めて書いた。

毎日毎日、パソコン漬けネット漬けの私たちの仕事は、

一体何が実体で何がバーチャルなのかが、

一瞬見えなくなる時が、多々ある。

何処に線を引くか?何が境目なのか?

いつも気をつけながら歩いてはいるが、

危ない山の稜線をふらふらと歩くことも、時としてある。

今後、リアルな体験の少ないバーチャル人間は、

ますます増殖する。

生活実感のない人間、知恵なし人間が集まって

これからの社会を形成してゆくことになるのだろう。

そこに、確かな感情は機能するのだろうか?

血の通う社会は築かれるのか?

他人の痛みが分かる思いやりがあるのか?

自然に帰れ、とは

まさにいまの時代に叫ばなければならない

スローガンなのかも知れない。

らしくない都市伝説

その1
都会にいると偉いのか?

この年になると、交際範囲もさまざま、かつ決まった傾向や地域もなく、バラバラ感が否めない。
学生時代のように特定の地域に知り合いが固まっていることもまずない。で、ときには往ったり来たりもあるのだが、何故だか集まる場所は、田舎よりの都会が多い。
当たり前といえばそうだが、なんかしっくり来ないときもある。
都会はちょっとした店が多々ある、みんな土地勘がある他、
こうゆう機会に都会に行こうという人もいるんですかね?
あぜ道の自動販売機の前とか、しまむらで待ち合わせすることってないもんね?
で、いつも新宿!だったり渋谷だったりするじゃないですか?
まあ、電話やメールのなかで何となく決めるんですが、こうした場合、絶対に発言権が強い人は都会にいらっしゃる方、なんです。
この人たち、田舎者の苦労を知らないんです。
私は田舎に住んでいて、なおかつ駅からも遠いので、都会が集合のときはかなりキツイ。
で、往く先で「お前飲まないね。ウーロン茶かよ?」なんて言われてもスイマセン!べろべろにはなれません。
帰れなくなっちゃう訳です。
酔っぱらってバスに乗るのも嫌なので、
駅の近くにクルマを置いてくることもあります。
ああ、もう気持ち的に飲めませんよね?

がしかし、泊まりならOKなんだけどなー。

私どこでも寝られますから(笑)

その2

大きい会社で働いていると偉いのか?

東証一部上場、誰でも知っている社屋の広報室。○○課の××山課長は、今日も気難しい顔をして考えあぐねている。わたし等のつくった広告ラフを前に、眉間にすげぇーシワ。無言の時間は長いのだ。空気がピンと張りつめている。電話の音も人っ気も遠くに消え去る瞬間。考えれば、決断する彼の責任は重いのだ。そうだ、頑張れ××課長!
が、彼は考えすぎるきらいがあった。過去の履歴から、彼の考え過ぎはよくハズれ、課をグルリと回って、結局元の案に戻ることもしばしばあった。というか、彼の思惑は、いつもズレていた。
何故か?
私の観察見るところ、彼はいまの仕事が好きなのだが、また彼も希望してこの課に長く留まり、古株としても回りから一目置かれているのだが、如何せんセンスがねえんだな!
これ言ったらお終い、元も子もないのだが、彼の判断は甘くて不的確。みんななんとかしろよ!
私は心のなかで叫んだが、誰にも聞こえない。
彼は今日も決断を下すことはないだろう。いや、なにか意見を言い、私たちが再びラフ案を再提出したところで、なにも決まらないだろう。

(ラフの修正って結構大変なんだぞ!)

さて、この息を飲む瞬間は何を意味するのかというと、
これは儀式なのだ。彼は偉いのだ。彼が決断者なのだ!
だから儀式が必要なのだ。

こんな人間が、日本中の大企業と呼ばれる所に、
これまたゴロゴロと無数にいるんだな。

参った! 

人は2種類しかいない

ある日、老婆が僕の所へやってきて
3億円で僕の寿命を半分譲ってくれないか?
という。

「いいですよ」
僕は快諾した。老婆もよろこんだ。

僕は3億円の内、1億円で寿命を3倍に伸ばす薬を手に入れ
残りの1億円で借金を返し、更に残った1億円でラーメン屋を
オープンした。

さて、これが商売の基本。
答えは情報を知っているか否かにある。

または先行者利益という。

世の中にはこのような話がゴロゴロしているのだが
そうそう誰にも伝わる話ではない。

しかし、特定の人間たちにはよくある話で
彼らを世間では、偉い人と呼んでいる。

偉い人は「いつも私は皆さんの幸せを考えています」などと
笑顔で近づいてきて、大方の誰もが気がつかぬように
ラクに儲ける術を身につけている。

既得権益というのもその一つだろう。

仕事はたいしてしていない、が基本。

そう
世界は2種類の人間で構成されている。

騙す人間と騙される人間。
むずかしいことではない。

よくよく考えてみれば
国境や肌の色や宗教などというものは
この際、たいしたことではない。

下らないことでいがみ合う暇があったら
僕は先に言ったことに気をつけろ!
と叫びたい。

なぜなら、いがみ合いの素をつくって稼いでいるのが
もう1種類の人間なのだから。

彼らは、神が遣わした人間ではない。
私たちがつくってしまった人間だ。

だからよくよく考えてみれば
国境や肌の色や宗教などというものは
この際、たいしたことではないと
僕は思うのだ。

みそ汁をつくる

割と早起き、というか仕事柄、朝まで起きていることもしばしばあるので、まず、台所に立ち、石けんで手を洗う。これは、私の朝のケジメをつける儀式でもある。次に一杯の御神水を、まっさらな湯飲みでありがたく頂く。普段は普通の水道水なのだが、この御神水に関しては、後日、占いのお話で詳しく書く。
いや待て、その前にご先祖様に備えるお水を、五つのコップに注ぐのを忘れていた。この儀式も済ませないと、私の朝は始まらないのだ。
いろいろと朝は、儀式の行列なのだ。
まず、お茶を飲むため、ケトルでお湯を沸かす。さて、ここからが今日の本題だ。
男子厨房に入らず、というしきたりは、ウチでは死語だ。掃除だってなんだってやるのだ。これは、修行といってもいいだろう。特に掃除は、仏道では基本中の基本といってもよい。掃除を終えると気持ちも体もスッキリするのは、なにか異空間の空気が流れ込むからだろうか、実働以上にすがすがしい。
話が大きく逸れた。次。
我が家も、トーストとスクランブルエッグなどと、格好いい朝食の時代もあったのだが、アレコレ試行錯誤の上、いまでは玄米入りのご飯とみそ汁に漬け物などのおかずが少々、というスタイルに落ち着いた。子供たちも同様だ。誰も文句は言わない。朝食とはこういうものなのだ、という不動の信念が家中に漂っているのだ。
で、みそ汁なのだ。
まず、鍋に適当に四人分であろうと思われる水を入れる。私の場合、あくまで目分量。それをレンジの上にのせるのだが、間違っても火を入れてはならない。まず置いておいて、冷蔵庫を開け、全体をチェックする。そろそろ傷みそうだな、などと思われる大根などがあると、ちょっと微笑んだりする。不気味ではある。
というわけで、今日の朝飯は、大根のみそ汁に決定。
おもむろに、大根を10センチぐらいの長さのところで、ザクッと包丁を入れ、ぶった切る。そしてまわりの皮は、0.5ミリぐらいの厚さで、包丁で均一にかつら剥きにして
捨てる。このかつら剥きだが、コツは、包丁を上下に動かしながら大根をゆっくり回してゆくとうまくできるようになる。
で、ザクザクと大根を輪切りにしてそれを重ね、これも均一に切ってゆくとあーら不思議、マックのポテトのような大根の具の出来上がりなのだ。パチパチ
これを鍋に入れ、はじめてレンジのスイッチを押す。要するに、水から茹でると美味しい大根のみそ汁が完成するのだが、ふぅーなどと気を抜いてはならない。
大根のみそ汁には、いとしい恋人のように、油揚げが寄り添うことを忘れてはならない。油揚げは、適当な時間になったら鍋に放り込み、大根と混ざり合うのをじっと見届けるのだ(変だよなー)。
私の場合、グズグズと沸騰する前に、生協のダシの素を大さじに一杯とちょっと入れる。ここで「あなたはなぜ生協のダシの素なのか?」という疑問が生じるだろうが、ここでは語らない。話が長くなるので、この事柄も後日にまわす。
さあ先を急ごう。沸騰してきたら3分は暴れさせよう。大根と油揚げのディスコタイムだー! 大根に芯まで火が通るまで、ともかくこの間だけは先を急いではならない。その間に味噌とおたまを取り出し、この量だ!という強い意志の元で味噌の塊をおたまに乗せる。
鍋の大根が適当にしなっとしてきたら火を止め、味噌の乗ったおたまを鍋のなかに浸し、さいばしでゆっくりゆっくりと溶かしてゆく。
ハイ、お疲れ様。これで大根のみそ汁の完成なのだが、確認のため、最後に小皿にみそ汁を少量入れ、味をみる。そして「うん」などと、ひとりでうなずいたりするのだが、時を同じくしてケトルもけたたましく湯気を出したりするので、油断がならない。
こうして私の朝は始まるのだが、ぼぉーっとしているオヤジとはほど遠く、ときおり気の抜けない日々を送っている。事はみそ汁なのだが、気持ちを引き締めてかからねばならない。眠い目をこすりながら新聞をふんぞり返って読むなんぞ、私にとっては夢のなかのお話なのである。
だから、みそ汁をつくり終わった後の、熱くて香ばしい緑茶が、よりいっそう美味いのである。