湘南・海辺のホテル

湘南ホテル

以前、鵠沼海岸沿いに湘南ホテルというのがあった。

新しくはないが、結構、建物が洒落ていたので、

私はかなり気に入っていた。

外観は洋風で、重厚。

しかし、威圧感のようなものがない。

薄い緑色の外観が美しかった。

窓からは、国道134号線を隔てて、海が見える。

静かな夏の早朝には、波の音も聞こえた。

小振りだが室内プールもあって、

真夏のカラダを冷やすのに最適だった。

実は、

この海岸沿いの道を学生時代からずっと通っていて、

ホテルの存在を、私は全く知らなかった。

中年になってふとしたきっかけで知ったのだが、

そのときはすでに閉館が決まっていた。

そこそこ繁盛していたように思うが、

このホテルは個人オーナーのものだったので、

閉鎖は、相続の問題も絡んでいたらしい。

とても残念だった。

現在、この跡地に瀟洒なマンションが並らぶ。

時折、前を通ると、

あの夏の日の、家族の笑顔が浮かぶ。

なぎさホテル

逗子のなぎさホテルの外観は小振りで、

見るからに古い洋館の造りだった。

海沿いを走っていると、こんもりとした緑の中に

ポツネンと佇んでいる。

若いひとから見ると、単なる古い洋館だ。

一見、時代に取り残されたように建っている。

しかし、一端中へ入ると、

黒光りする柱や漆喰の美しい壁が、訪れたひとを魅了する。

私はここを、自ら取材と称して選んで泊まったが、

ホテルのスタッフの方々の対応も、そして食事も、

とても満足のゆくものだった。

もうだいぶ前に取り壊されたが、

作家の伊集院静さんが若い頃、

このホテルの居候をしたことがあるという。

そして後年、「なぎさホテル」という本を出版している。

彼にして、それほど思い出深く、

居候になるほど癒やされる、

素敵なホテルだったのだろう。

ホテルパシィフィック

ホテルパシィフィックは、

茅ヶ崎の海沿いに忽然と姿を現すホテルだった。

古いホテルにしてはタワー型で、

当時としては画期的な建築物だったように思う。

このホテルを知ったのは学生時代で、

波乗りのポイントが近所だったことから知った。

高級ホテルだったので、

私は最上階の喫茶しか利用したことはないが、

ここからは、湘南の海が一望できた。

海を見下ろすという感覚は、ここが初めてだったように思う。

一時、あの加山雄三さんのもちものであったし、

また、サザンの桑田さんも歌っているように、

皆に思い出深い、存在感のあるホテルだった。

湘南から姿を消した名ホテルは、

ときを経て、私のなかでより美しさを増す。

現存しているホテルでいまでも気になるのは、

大磯プリンスホテルと鎌倉プリンスホテルだ。

大磯プリンスホテルはクラシックホテルになれず、

ただ建物ばかりが古びている。

まわりにこれといった観光地もない。

しかし、広い敷地がとても贅沢に使われていて、

空と海の広がりを堪能できる。

ここからの海の眺めは、湘南随一。

ホテルの前の西湘バイパスがなければ、

とても静かなのだが…

しかし、希有の景勝地に変わりない。

鎌倉プリンスホテルは、

七里ヶ浜の丘の上の高級住宅地に建っている。

プリンス系列のホテルにしては、こじんまりしている。

プリンスホテルは、どこも高台が好きなようで、

いまはもうない横浜の磯子プリンスホテルも、

横浜の海を見下ろす高台にあった。

鎌倉プリンスは、各部屋がビラのように、

丘の上に長く延びる3階建て。

正面の部屋は、海を真向かいに見て、

他は江ノ島方向を向いている。

どの部屋もハズレがなく、

山側という部屋がないので、たいした格差がないのが良い。

最近、ホテルをまるごとリニューアルして、

全室禁煙にしたので、もう私は行かないが、

あのホテルはなんというか、

隠れ家のような魅力がある。

海辺に建つホテルはどれも美しく、

私の湘南の思い出は、

海沿いの134号線を走る度、

それは潮の薫りに乗って浮かんではまた消えてしまう、

蜃気楼のようなものである。

愛しのビートル

大学時代、よく国道一号線を走った。

横浜の鶴見に友人がいたので、

そいつと遊ぶためにせっせと通った道だ。

あるとき一号線を走っていて、

視界のなかに中古屋が見えた。

いままで気がつかなかった店だ。

いつもの癖で、展示されているクルマをチェックすると、

気になるクルマが私を呼んでいる。

で、Uターンして、初めてその中古屋に顔を出した。

フロントフェイスの艶が良い、

そいつは、1303Sという型のフォルクスワーゲン・ビートルだった。

車体は綺麗なオレンジ色で、かなり珍しい。

窓から中を覗くと、メーター類のシンプルさに好感がもてた。

いいなぁ…

一目で気に入ってしまった。

街で理想の女の子にでくわした、そんな感じだ。

ワクワクする気持ちを抑えて、その日はその場を去り、

友人の家へ行く。

そいつにビートルの話をすると、

「ガイシャだろ、やめといた方がいいよ」

と軽くいなされる。

次の日も、鶴見のその中古屋へ出かけた。

クルマをじっと眺めていると、店の主人らしき人が出てきて、

「昨日も来たよね」と笑いながら言った。

なんだか見透かされたようで恥ずかしかったが、

そんなことはすでに私にはどうでもよく、

クルマの前にずっと立ち尽くした。

と、そのカウボーイハットを被った髭のおっさんが、

「昨日、キミの後に一人見に来ていたよ」とのたまったのだ。

「ええっ」

いきなり気が動転した。

現実的にこのクルマを手に入れる算段など、

私は一切考えていなかった。

が、血迷った。

悔しいなぁ!

学生の私にとって、そのビートルはかなり高額だった。

たいした持ちあわせもない。

中古車の気軽なローンの類いもなかった時代だ。

こんな学生に金を貸してくれる仏さまのような人も知らないし…

泣く泣く、振り切るように私はそこから立ち去った。

しかし、国道を走りながら、激しく計算を始める。

いま乗っているクルマを下取りに出すと幾ら。

銀行に預けてある金がわずかにあるのを思い出した。

こうなると意地になってしまうのが、

私の悪い癖だ。

最近はかなりこの性格も改善されたが、

私の金欠の根本は、きっとこんな所にあるのだろう。

このビートルのため、結果、バイトも換えてしまった。

それまで働いていた、のんきで時給の安いコーヒーショップを辞め、

すべて金で動くという、あざとい人間となった。

お陰で、前借りもでき、

当時のサラリーマン並みの稼ぎを得ることもできた。

あるときは、新車の陸送マン。

あるときは、関東一円を走るトラックドライバー。

が、他の散財も重なり、

遂には学校に行くこともままならず、

横浜港での日雇いもやるハメになってしまったのだ。

ああ、俺はなんでこんなキツイ仕事をしているのかぁ。

来る日も来る日も働き詰めなのに、

どうしていつも金欠なんだろ?

ま、答えは分かっていたが…

結局、卒業までオレンジ色のビートルは手放さず、

私はこいつとの付き合いが、学生時代の最大の思い出となった。

出かけるときはいつもビートル。

こいつとは軽井沢、信州、静岡とどこへでもでかけた。

不調のときは、夜中に修理した。

車体の綺麗なオレンジ色を保つため、

近くの板金塗装の親爺とも仲良くなってしまった。

また、ステアリングの他、クリーナー、マフラーと次々に改造を重ね、

借金があるにもかかわらず、

結局このクルマの改造に100万円以上も注ぎ込んでしまった。

前述の友人もこのビートルに惚れ、結局ビートルを買った。

大学ではビートル仲間が増え、

ビートルクラブなるものもできてしまった。

思えば自制のない自分に呆れるが、

良い思い出だけはつくれたような気がする。

「いい女といいクルマには気をつけよう」

これは、私が青春時代に身をもって得た格言だ。

赤のベレG

高3の秋に免許を取った。
学校をサボって通った教習所だったので、
免許証を手にしたときは久々の充実感があった。

しかし、クルマがない。
友人は皆、親のクルマを乗り回していたが、
私の父はクルマはおろか、免許さえ持っていなかった。

ヒロシという遊び仲間は家が農家だったので、
日産のトラックを二人で夜な夜な乗り回した。

が、いい加減に飽きてきた。
なんか、格好良くない。
泥だらけのダッシュボードに足を乗せ、
スカGとか欲しいなぁ、といつも二人でつぶやいていた。

或る日、道路沿いをトボトボと歩いていたら、
キュキュキュキュといいながら交差点を曲がって
こっちへ向かってくる赤いクルマがあった。

「○○先輩!」
「よう!」
先輩は全開にした窓から、手を挙げて、急停車した。

その赤いクルマこそ、当時私たちが憧れていた
いすゞのベレットGTだった。

すでに、当時の時点で新車はすでになく、
生産が打ち切られていた。

スカGよりも伝説のクルマ。
フェアレディよりも深く、
117クーペよりも味のあるクルマ。
それが赤いベレットGTだった。

先輩のその赤いペレGにはバックミラーがなく、
意図的に外してあった。

当時から、フェンダーミラーは格好悪いとの
共通認識があった。

ボンネット他、くすんだ赤い塗装はかなりヤレていて、
全体にボディが疲れていた。

「先輩、ワックス塗らないっすか?」
「ワックス?んなもんする訳ねぇーだろ」

「オールペンは?」
「んな金ある訳ねーだろ」

中を覗くと、黒いシートがひび割れ、
いい味が出ている。
かなり使い込んでいるのだろうなと思った。

ヘッドレストもなく、ギヤを触ると、
カチッとキマらない。

私が戸惑っていると、先輩が
「勘よ、勘。勘でいま何速か分かる訳よ」

それを見てから、
私も必死にバイトをして金を貯め、
赤いベレGをほうぼう探した。

しかし、中古屋の前で憧れのクルマの
値札を見て愕然とする。
私の資金では全く手が届かなかったのだ。

しょうがないので、
私はベレGに少しでもフォルムが似ているホンダのクーペ7を手に入れた。

水平対向空冷エンジンはよく回ったし、
このエンジンが奏でる独特の音が好きだった。

このクルマは、当時ホンダが満を持して世に送り出した4輪だった。

が、いまにして思うと、
何故もっと頑張ってペレGを手に入れなかったのかと、
時折自分に腹が立つことがある。

記憶のなかでそれは、
ベンツやポルシェ、いやフェラーリなんかより格好良く、
永遠に輝いている、
いすゞの赤いベレット1600GTなのである。

湖の想い出

その湖は、

標高の高い山あいに位置し、

夏は白鳥が泳ぎ、

冬はワカサギの釣り場となる。

この湖を初めて訪れたのは中学生のときだった。

水泳部の自主練として、

バンガローに寝泊まりしながら、毎日泳いだ。

競泳目的で湖で泳ぐことは、あまり意味がない。

これは大義名分で、

みんな遊びたい一心でここに来た。

ボートを一艘借りて、皆で遠泳に出る。

湖の横断に挑戦するためだ。

部活仲間は皆、

躰を慣らすだけで数㌔泳ぐ猛者ばかりだったので、

なんのことはない遠泳だった。

が、泳ぎ始めると、水温の変化に躰がついてゆかない。

ときに冷蔵庫で冷やしたような水が、すっと躰を覆う。

これは事前に本で読んで分かっていたことだが、

皆、激しい体力の消耗に襲われた。

心臓がきゅっとなる気がした。

次々にボートに上がり、紫色になった唇を震わせた。

が、誰も棄権する気配はない。

タオルで躰を拭いて一息吐くと、また飛び込んで泳ぎ出す。

ゴール手前の湖面は藻が水面まで繁茂しているので、

足を絡まれないように、皆で用心深く泳いだ。

ここをなんとか通過して全員が岸に近づくと、

そこで寝そべっていた人たちが、

総立ちで僕たちに拍手を贈ってくれた。

歓迎された僕たちは、そのまま岸に倒れ込み、

その冷えた躰を甲羅干しにした。

どこからともなく森山良子の「禁じられた恋」が、

流れてきた。

誰かのラジカセから、それは聞こえた。

僕はその頃、同じ中学に好きな女の子がいて、

ずっと告白できずにいた。

噂によるとその子は大きな家に住んでいて、

とても親がうるさいらしい。

あの子は大変だよ、と誰かに聞いたことがある。

夕方は皆くたくたに疲れていたが、

飯ごうでご飯を焚くのが楽しみだった。

メニューは、カレー。

これしか知らなかった。

大騒ぎしていると、

隣の女子大生のお姉さんたちが、

後でキャンプファイヤーをやらないかと声をかけてくれた。

火を囲みながら、幼心にこの人たちに恋人はいないのだろうかと、

僕は思った。

マイムマイムを踊って盛り上がり、

どこから持ってきたのか、

このお姉さんたちと花火をバンバン鳴らした。

バンガローに戻っても寝つけない。

とても刺激的な合宿だったからだ。

ざこ寝仲間の気持ちもオープンになった。

お互いに好きな女子の名前を告白しあい、

僕は記念にと、

その女の子の名をバンガローの板に、

ナイフで刻んだ。

翌朝、湿気の多いもやの中を歩くと、

雑木林にうっすら陽が差し込んできた。

湖面をみると白鳥が動かないでいる。

シンとした不思議な時間だった。

どこかで早起きしたグループの騒ぎが聞こえてきた。

腹が減ったのか早々と朝食の用意をしているらしい。

その方角から、

浅川マキの「夜が明けたら」がきこえる。

夜が明けたら

一番早い汽車に乗ってゆくから…

あの夏から、僕は数え切れないほど、

この湖を訪れている。

ある真冬の日、ここの湖岸にクルマを止めて、

凍えるような朝を迎えたことがある。

ヒーターを全開にして、毛布をかけて仮眠していた。

氷の上で、男の人たちがワカサギ釣りをしていた。

白い吐く息がみえる。

そのうちのひとりがクルマに近づいてきて、

一緒にやらないかと誘ったが、遠慮した。

隣にいた彼女が、寒いのは嫌だと言ったからだ。

僕は眠い目をこすりながら、

白く凍った湖の対岸をみていた。

林のなかに、もうあのバンガローはなく、

白い立派なホテルのようなものが建っていた。

あの夏、一緒に泳いだ部活仲間はいまどうしているだろう、

そんなことをぼんやり考えていた。

大学生になった僕は、

なにもかも新しい世界に飛び出すことだけを目指していた。

しかし、あの夜、バンガローの壁板に刻んだ人の名が、

突然、胸騒ぎのように僕を急き立てた。

朝方、隣の彼女を寝かせたまま、

僕は峠を越え、クルマを走らせた。

もやもやとしていた自分の気持ちがハッキリみえた気がした。

後年、僕は、

あのバンガローに名を刻んだ奥さんと、

久しぶりの休暇でこの湖を訪れ、

例のキャンプの話をした。

女性の話は未だしていないが…

季節、雑感

私が毎朝歩く散歩コースは、

四季の移り変わりが美しく、自然が豊かだ。

気が向くとカメラを持って出る。

腕がなくても、

そこそこ素敵な写真が撮れるのは嬉しい。

いま春爛漫。

景色にも華やかさと勢いがある。

山の緑も、いよいよ濃くなり、その濃淡は、

陽ざしと風により、幾通りにも変化する。

合間を山藤が盛んに薄紫の淡さを演出し、

先の山桜に代わる彩りを魅せる。

歩くと、そこかしこにツツジが満開で、

白から赤い花びらまで、多彩に咲く様が目をひく。

道端では濃いピンクの芝桜が敷き詰められるように、

家々の生け垣には、

モッコウ薔薇の黄色が朝陽に映える。

しかし、よくみかけた蝶々がいないことに、ふと気づく。

紋白蝶や紋黄蝶だ。

蝶々が減ったことは農家の方も言われていたことを思い出す。

夏のトンボも秋の赤トンボも然りだと言う。

先日、近くの立ち寄り湯へ出かけた際、

そこで働くおじいさんと話す機会があった。

丹沢の懐のような温泉場で、自然が色濃い。

が、このおじいさんが働き始めた20年前と較べ、

いまは野生の鹿や猪が激変しているという。

そういえば、とあたりを眺めておじいさんが言うには

夏の盛りも、蝉の声が以前より静かだということだ。

昔は、山々に反響するように鳴いていたらしい。

こうした話と同時に、

都会でも気になる現象は起きている。

ハクビシンというどう猛な小動物が、

なんと東京の街中にいるという。

民家の屋根裏に棲みついている様子を、

テレビカメラが追っていた。

また街中の家々を猿が逃げ回っている。

これもニュースの一コマだが、

どうも昔ではあり得ないことが起きている。

人と動物の暮らす領域の異変は、

山が貧しくなってきたことを、私たちに教える。

まあ、昔から乱開発の危険はずっと叫ばれてはきた。

農業でも、農薬の過剰散布は人だけでなく、

生態系への影響も懸念されてはいた。

こうしたツケが永年積み上げられ、

いま私たちは、難問を突きつけられている。

虫のいない森。

しんとした夏。

そして、山を諦めたいきものが畑を荒らし、

町へ街へと…

例年と変わらずに啼いているウグイスが、

木の枝を渡り歩く姿が、朝陽に光る。

今年も、燕が同じ軒先で雛をかえすらしいと、

その家の主人が世話をしている。

これだけで救われる気がした。

少しほっとする、朝の風景だ。

回転寿司の怪

作家の伊集院静さんは、男の流儀にうるさい。

彼の通っている寿司屋は銀座にあるそうだ。

かといって、彼の通う店だから派手ではない、と思う。

おとなの男の流儀から推測するに、

彼は、路地裏に佇むこぢんまりとした店でほどほどの酒をたしなみ、

寡黙な板さんが出すネタをつまみ、二言三言ことばを交わし、

少し酔いがまわる頃に店を出る、とまあこうなる。

カッコイイ!

で、私の場合はというと、資金力もなく地域も田舎なので、

というか、男の流儀を貫くほどのものを持ちあわせていないので、

寿司を食うにしても、回転する店へと行くこととなる。

ここで、あえて男の流儀を通すなら、

まずキョロキョロしないこと。

静かにお茶を飲んで、余裕で皿に醤油を注ぐ。

減塩醤油ね。

で、ヤンママやガキたちに混じって戦いに挑めば良いのだ。

最近オープンした街道沿いの寿司店はいつも大盛況で、

30分や一時間待ちなんぞは当たり前。

いつぞや、私は皆の不意を突くような時間帯にここを訪れ、

待ち時間ゼロで席に通された。

ヤッタネ!

他の回転寿司店では前方に板さんらしき人を確認するも、

この人気店のカウンター前は無人。

かわりに液晶ディスプレイと派手なメニューのチラシ類が私を迎えてくれる。

おっと、目がチカチカする。

参った。

日頃、パソコンのディスプレイとにらめっこしている身なので、

コイツは嫌だなと思った。

なんといっても目が疲れる。

飯どきくらいリラックスしたい。

が、目の前を通り過ぎる皿を頂こうかと思ったが、

乗っているネタが幾分水気を失い、

皆の前を通り過ぎてゆく間に雑多な付着物もあるのだろうと推測。

仕方がないので、再びディスプレイに目をやる。

タッチパネルは幾分感度が悪い。

ある程度の力でタッチしないと反応しない。

ここは、iPadの技術を応用してもらいたい。

で、何が食いたいかをこのタッチパネルで追いかけることとなるが、

例えばサーモンひとつとっても、その種類が多いのにまず驚く。

炙ってあるやつとか、バルサミコ酢がけとか、

タルタルソース和えとか、

パネルを見ているうちになんだかイライラしてきて、

何でもいいから食わせろよ、となる。

ここで、カリフォルニアロールという食い物も食したが、

いまひとつ好きになれない。

そんな寿司はしらないねぇと、

あくまで江戸前にこだわるような啖呵のひとつも切りたいが、

伊集院さんのような甲斐性のない私は、

とりあえず炙りサーモンを注文する。

で、思ったが、

この寿司屋だけでなく世間ではどこもタッチパネルが普及している。

こうした操作にお年寄りがどのくらい対応できているのかが気になる。

とにかくムズカシイ世の中になってきたことだけは確かだ。

メニューもよくよくみるに、

ここは寿司だけではないことに気づく。

軽い量のたぬき蕎麦やうどんが食える。

フーン。

さらにチーズケーキとかモンブランもある。

アイスも当然のように置いてある。

他、焼き肉の類いもある。

おっと、ラーメンもあるぞ。

あれっ、コーヒーも飲めるな。

それもレギュラーコーヒー。

ええーっ、なんでもあるじゃん。

と、これには驚きました。

こうなると、これは単なる寿司屋ではなく、寿司を軸とした、

総合お好み食堂の様相。

フードコートともダブってくる。

私が幼年時によく母に連れて行ってもらった、

横浜高島屋の上の階のお好み食堂を思い出しましたね。

あそこは確かになんでも揃っていました。

でですね、

この寿司屋にいると次第に首が凝ってくることが分かった。

目がしょぼしょぼする。

そして落ち着かない。

ウーン。

それは、ディスプレイ画面とレーンを流れる寿司と

チラシなどのメニューの情報が、

いっぺんに大量に飛び込んでくることに起因するようだ。

相変わらず、まわりは皆凄い勢いで食っています。

歓談しているグループや家族連れも多いのですが、

皆一様に目は笑っていない。

常に獲物を捕らえる動物のように、

液晶パネルと目の前を流れる寿司は必ず見逃さない。

話半分というところ。

これはコワイ。

で、なんでこんなに繁盛するのかだが、

結局値段だろうとも思う。

お会計で驚いたが、とにかく安い。

他の回転寿司と較べても、明らかに安い。

あれだけ食ったんだからと思うが、この値段はもう寿司の値段ではない。

いうなればタンメンの値段。

道理で混む訳。

他の繁盛する要因を除いても、それだけで納得できる。

でですね、後日ふと気がついたのが、

あれだけみんなで食いまくって海は大丈夫か?

ということ。

少し社会派ぶった疑問ですが、

水産資源も有限だし、いまかなり減少傾向だと言うし…

で、生けすで育てている?

いや乱獲か。

日本人は海洋民族だしタコも食うしなぁ。

だから、海のいきものにとって日本人は天敵だ。

さらに、お隣の中国でも川魚から海の魚へと、食が移りつつある。

こうなると、日本の寿司屋が危ないのだ。

この店もそのうち立ちゆかなくなるな、などと

勝手な推測をたててしまうのでありました。

でさらによくよく思い返し、

あの環境下であの食い方はなんだろうと…

冷静に考えた訳です。

で、ブロイラーチキンの餌を食う様子を思い出しました。

たかが一寿司店の話なのですが、

これはもはや男の流儀などではなく、

現代日本人の流儀とでもいおうか、

そこから考えるべき深いテーマが潜んでいる、などと

勝手に小難しくこねくり回す私なのでありました。

枕のことを考えると眠れませんよ!

私は以前、枕のことなんかどうでもいい人間だった。

朝まで居間で寝ていたこともあるし、

そんなときは転がっているクッションを枕にして寝ていた。

そんなもんでOKだった。

が、あるとき、ウチの奥さんが枕を買い換えたいと言う。

「そう?」と私。

そういえば、

つい最近のいつかは忘れたが、彼女は一度枕を買い換えたような…

が、彼女曰く、枕が合わないと言う。

そんなことがあるのかなぁと、私は気にも留めなかった。

が、あるときまた枕の話になり、

よくよく聞くと、

朝起きると首が痛いとかいろいろな不具合が出ていたらしい。

ふーんと思い、私は私なりではあるが、

枕について少し調べることにした。

と、みんなが実にさまざまに、枕について述べている。

その種類も多岐に渡り、売り込みも激しい模様。

なかには枕フィッターみたいのもいるし、

枕研究所みたいな所もある。

ふーん。

とにかく枕にまつわる話とか製品が異常に多いのだ。

気がつくと、世の中は枕のことだらけだったのだ。

世界は枕を中心に回っていたのだと思った。

私はそのことを全然知らなかったのである。

で、あるとき、彼女の買い物に同行することにした。

イオンとか東急、ニトリ、

果てはホームセンターの枕売り場に至るまで、

枕の実体についての実地調査と相成った訳だ。

そば殻枕は定番である。

が、同じそば殻でも、

メイド・イン・ジャパンとかアレルギー対策のものは高いと知る。

また、羽毛、プラスチックのパイプ、スポンジ、発泡天然ゴムから、

ポリエステル、ポリウレタン素材のものもある。

更に、低反発枕とか高反発枕等々、その様は百花繚乱。

果ては陶器まである。

うーん!

そして、

人間工学の観点から研究した枕、科学の粋を結集しました枕、

メディカル枕、調節自由自在の機能性枕など、

そのすべては把握できないが、枕の世界の複雑怪奇を

私は知ることとなった。

値段も実にさまざまで、1000円くらいから数万円のものまである。

なんでそんなに価格が違うのか、そこが問題だが、

素材とつくりの差は理解できても、それ以外はよく分からない。

ただ、

メディカルとか科学とかの冠がつくと、グッと高くなるのが分かった。

うーん、深い。

家に帰って枕というのを更に調べるにつれ、

元々枕は、人の生や死と密接に結び付けられていたことも知る。

ウィキペディアによると、

「日本語のまくらは、たまくら、つまり魂の倉が語源であるとする説がある」とのこと。

他、さまざまな文化で、枕の歴史や権力の象徴のようなことが語られている。

興味深い話ではある。

が、要するに今回の私の場合は、奥さんの首が痛いから始まった話なので、

そこらへんのアカデミックな話はこの際、スッパリ省くことにした。

簡単にいうと、

カラダに負担のかからない枕がみつかれば、それでOKなのである。

さてである。

デパートなんかへ行くと、専門の方がカラダのいろいろな箇所を測定し、

試し寝なんかもさせてくれるらしいが、私はそこへは行かない。

理由はふたつ。

まず、すげぇ高いだろうということ。そして、いくら試し寝ができても、

一泊しなくては分からないだろうという推測。

これは奥さんとの議論で導き出した回答だ。

とここまで書いて、

いまだに奥さんに最適の枕は見つかっていないことを報告しよう。

現段階で、どうやっていい枕を見つけようか?

その方法論で行き詰まっている。

あぁ、

それを考え始めると、今日も仕事に支障が出るなぁ…

私だけおちおち寝てもいられないしなぁ…

緊張して眠れませんよ!

濃密なとき

90年代は、僕にとっての激動だった。

神奈川にいる親が高齢になったこともあり、

再三オファーがかかるようになった。

加えて、仕事上のいきづまりなどが重なって、

結局、東京の事務所兼自宅マンションを引き払うことにした。

この仕事を辞めようと思ったのも、この頃だ。

最後の荷物をまとめて、引っ越し屋さんから

「出発の準備ができました」と言われ、

ああ、もうこの生活は終わったんだなと、

やっと気づいた。

ガランとした部屋に佇んで、

壁を眺めているうちに、

涙がとめどなく流れた。

幼い長男は、そんな僕を

じっと見ていた。

この街で、

僕は何を追い求め、

何を掴み、

そして何を失ったのか…

がしかし、

とにかく僕は挑戦をしたのだ。

ここで費やした時間は、

社会への助走であり、

人生への賭けであり、

僕の、かけがえのないときでもあった。

傍らには、不安に苛まれることもなく、

ずっと奥さんがいてくれた。

愛おしい子供も産まれ、

無邪気に育ってくれた。

僕らの濃密で膨大なできごとが、

この部屋に、

いや、

東京という都会のなかのわずかな隙間に

ぎっしり詰まっていた。

若くして志したことを、

現実に引き寄せる力だめしのときは、

とにかく一端終わったのだ。

夢を追うこと。

負けない心。

ぶれないで走る。

やり通す。

いま思えば、そのどれもが危なっかしくて、

見ていられないものばかりだ。

でも、走り続けた事実は、

確実にこの手に掴んだ。

その感触を、いままた温めて、

若い誰かに手渡したい。

繋がる、ということ

その或るひとは、

初対面にもかかわらず、

会って5分もたたないうち、

私にこう切り出した。

「今度、あんな波が来たらさ、

俺たちみんなで呑まれよう。

そう言っているのさ。

俺たちは、ずっとあそこを動かねぇからさ」

途端、こちらの心臓が縮まった。

いや、それは…とも

そうですね…とも言えず、

私は瞬間的に

「はぁ」とだけ返答したように思う。

前後の話は、いま思い出そうとしても、

何も覚えていない。

ただ、地下鉄の入口まで見送ったとき

その広く頑丈そうな背中が

もろい石のように、

いまにも崩れそうな不安定さを帯びていた。

ひとはひどく弱いいきものなのだ。

しかし、一端翻ると、これほど手強いものは、

自然界に存在しないかも知れない。

毎日、チマチマと生きている自分なんぞに

分かるハズもない、その或るひとの日常。

私のすべては、

きっとそのどうしようもないチマチマだから、

ひとは経験によって、この世界をみていると感じた。

あの日、私はせいぜい揺れた怖さの他を知らない。

その或るひとは、ほんの数分の間に、

私にひとの想いというものを教えてくれた。

そこから、果てしないものがみえる、ということ。

やはり、

ひとは伝え、繋がって生きてゆくものらしい。

私の場合の死ぬかと思った

その1

学生時代は海ばかり行っていた。

潜ってウニを採る。

こう書くと、どこの海?となるが、

葉山あたりでも、昔はウニが

うじゃうじゃいたのだ。

で、潜りに飽きると、今度は波乗りとなる。

下手なくせに、低気圧がくると聞くと、

みんなで海に出る。

で、ここでとんでもない目に遭った。

大波に挑戦しようと、

パドリングで沖をめざす。

目前に山のようなうねりが近づいた。

これはまず恐怖しかない。

次第に、波の先が白じれて崩れ始める。

このあたりでうまく波に乗らないと、

後が怖い。

が、カラダが立ち上がらない。

必死でバランスを取っているうちに、

波が崩れる。

もうこれは水の壁に襲われるようなもので、

ボードが吹っ飛ぶ。

我がカラダが、

洗濯機の中の洗い物のようになってしまった。

それも横でなく縦水流なので、

息がもたない。

上下の感覚が麻痺する。

必死で海上に顔を出し、荒い呼吸をする。

と、次の波にのまれる。

こんなことを繰り返し、

なんとか浜に辿り着いたとき、

もう二度とこうした遊びはすまいと、

心に誓った。

その2

信州へでかけるため、

中央高速を突っ走っていたときのこと。

冬晴れの気持ちのよい日だった。

談合坂S・Aを過ぎて左車線に寄り、スピードダウン。

のんきに音楽を聴きながら前をみていると、

斜め前方にぼろい長距離トラックが走っている。

積み荷をみて、過重オーバーと思った。

それはタイヤと車体の揺れをみれば分かる。

一時期、トラックドライバーをやっていたので、

そこは敏感に反応する。

嫌な予感。

と、そのトラックの後輪のダブルタイヤのホィールキャップが外れ、

いきなり高速道路上に転がり始めた。

その直径は1㍍くらいだが、当たればダメージは大きい。

こっちは80㌔相当で走行しているのだ。

銀色に光るホィールキャップが、みるみるこちらに迫る。

このままだと激突する。

ハンドルを切ろうとするが、トラックの後方、

即ちこっちのクルマの横に、1台の乗用車が並走している。

高速での急ハンドルは危ない。

もう避ける方法がない。

アクセルを踏むか減速するか一瞬躊躇し、

そのままという決断に至る。

銀色に光るホイールキャップは、

我が愛車の1㍍前あたりを横切って、

ガードレールに激突した。

この光景は、バックミラーで確認したので、

鮮明に覚えている。

あー、怖かった!!

その3

防空ごうというのは、

飛来した戦闘機から身を隠す穴のことだが、

私の幼かった頃の横浜の町には、

こんな穴がいくつも口を空けていた。

いまでは考えられないが、

当時はこうした穴が放置されていて、

子供の格好の遊び場だった。

京浜工業地帯の一角に、或る進学高校があって、

私は、なぜかそのグラウンドで遊んでいた。

海を望む高台のそのグラウンドの端には、

やはり防空ごうがいくつか放置されていて、

私はその穴の中で近所の子と遊んでいた。

で、その防空ごうの入口付近が、突然落盤した。

そのとき、穴の中に私と数人がいた。

なにが起こったのか、分からない。

私は土を被り、しばらく動けないでいた。

少しだけ息ができたが、苦しい。

もがいていると、もう駄目なような気がした。

と、まわりで大人が数人叫んでいる。

土の中の私の手を、誰かが掴んでくれた。

気を失う前に、数人の大人が、

私を引きずり出してくれた。

防空ごうの中の他の子は、みな大丈夫だった。

以来、私は閉所恐怖症だ。

その4

大学時代、スキー合宿とかなんとか名称をつけ、

みんなで長野の野沢にでかけた。

ただの仲良しサークルだったが、遊びにかけては、

皆抜きんでているグループだった。

当時はスキー全盛の時代で、

金のない私も、一応スキー道具を揃えた。

初心者は私だけだったが、

2日目頃から滑れるようになり、

中級コースでもなんとか滑れるようになった。

それまで、スケートとかサーフィンとかをやっていたので、

上達も早いと皆に言われた。

そこで、調子に乗ってしまうのが私の悪いところで、

帰る頃はすでにベテラン気取り。

遅いスキーヤーをひょいと抜いてゆく。

これは快感だった。

混んでいる林道コースでも、

並み居るスキーヤーを次々に抜いているうちに、

スピードの制御が効かなくなった。

林道コースは細いので、カーブで大きくはみ出た私は、

次の瞬間、コースの下に転落し、

雪の崖にストックを立てて、必死にしがみついていた。

これには皆驚いて、

というか、馬鹿な奴もいるもんだという顔で見下ろされた。

助けてもらうまでの時間のなんと長いことか。

よくよく下を見ると、足元の崖下から途中が急な勾配に変わり、

あそこまで落ちていたらと思うと、

ホント、ゾッとした。

その5

小学校時代は、工場地帯でよく遊んでいた。

工場の空き地は、どこも塀で囲まれていて、

私もそこで、よく鉄くずを拾っていた。

その日は、晴れた日だったが、

突然空が暗くなり、風が吹き出した。

雨もぱらついてきた。

空き地は、3方がトタンの塀で囲まれ、

奥まったところにいた私が帰ろうと思って振り返ると、

入口付近で風が埃を舞上げて、渦を巻いている。

それがだんだん大きくなり、2階ほどの高さになると、

今度は近くに転がっていたブリキのトタンを巻き込んだ。

すると、高く舞い上がったトタンがつむじ風に乗って、

どんどんこちらに近づいてくる。

逃げ場を失った私たちは塀に張り付くようにして、

そのトタンに恐怖した。

トタンの切り口は鋭い。

あれは、刃物と変わらないのだ。

と、ここまで書いてうんざりしてしまった。

こうした話はまだあるのだが、

なんだか言い知れ感情が噴き出し、

体調まで悪くなってきたので、

ここらでやめることにしました。

スイマセンネ