閉所恐怖症の身として、まず困ってしまうのが、ビルなどのエレベーターだ。
なんというか、あの上下に移動するときのわずかな時間が問題なのである。
たかが数秒か数十秒なのか知らんが、毎回手に汗握ってしまうから、
非常に疲れてしまう。
これは妄想なのだが、あの四角い箱がどんどん狭くなって、
壁がどんどんこちらへ迫ってくる感覚が、なんたって息苦しい。
現代なのか都会生活なのかよく分からないが、
いまはどこでもエレベーターが欠かせないのはよく分かってはいる。
が、どうも全然慣れないなぁ。
そこがそもそも閉所恐怖症なんだけど…
似た部類に地下鉄がある。
最近では、新宿駅から乗る丸ノ内線に辟易、というか、
恐怖さえ抱いてしまったのだから、当分あの地下鉄には乗りたくない。
続いて後日、横浜へ行く際にみなとみらい線にも乗ったのだけれど、
この時も、やはり掌から汗が噴き出していた。
己の人生を振り返って、この原因は一体どこから来るのだろうと、
私なりに探ったことがある。
で幾つか思い当たる節があった。
まずガキの頃だが、横浜にもまだ戦争の傷跡が残っていて、
学校の裏山にポッカリと大きな穴があいていたのだが、
それが防空ごうだった。
柵も立て札もなにもない。
いまと違って、出入りは自由であった。
私たちはよくその穴に潜って遊んでいたのが、
そこがあるときいきなり落盤し、
運悪く、私は落盤した土に埋まってしまった。
と、その様子を遠くで見ていた大人が駆けつけてくれて、
私は助かったのだが、そのとき、
口の中にはいっぱい土が入っていたことをいまでも覚えている。
あの圧迫されたときの身動きのとれない怖さと苦しさは、
何年経っても忘れられるものではない。
次に、もうひとつ思い当たる節があった。
それは、やはりガキの頃だが、
いたずらをするとよく親父が私を押し入れに閉じ込めた。
これはよくある話しではある。
が、私の場合、一度閉じ込められると、
最低3時間くらいは出してもらえなかったので、
これには暗闇の恐怖というのも加わってしまった。
ところで最近、
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだ際、
主人公が東京の地下深くの洞窟を延々と進むシーンがあって、
寝しなにそのあたりを読んでいた私はハアハアとなってしまい、
安眠を妨害された覚えがある。
なかなかタフな人間というのは、こんな主人公のことをいうのか、
と感心した次第である。
その点、まあ私はへなちょこではある。
更にいま何故か流行っているアドラーという心理学者に言わせると、
トラウマなんていうものは言い訳に過ぎない、というのだ。
アドラーといえば、彼の考えを前面に打ち出した
「嫌われる勇気」が有名だ。(彼の著書ではない)
街の本屋でよく平積みしてある、あのベストセラー本である。
そのアドラー曰く、
『人は過去に縛られているわけではない。
あなたの描く未来があなたを規定しているのだ。
過去の原因は「解説」になっても「解決」にはならないだろう』
そしてアドラーは、こうも言う。
いろいろな病因の深層心理にあるのは、
社会に出るのが嫌だという共通因子。
よってトラウマなんていうものは、
ただの言い訳に過ぎないらしい、と。
アドラーという人は、なんと強い人であろうか。
そしてとてもパッションがあって、
人生に常に前向きな方向性を示す。
私の場合、社会に出るのが嫌だったのは確かではある。
が、なにを今更の年代でもあることだし、
いい年をして、今頃になって社会の出入りもクソもないのである。
で、人生に前向きか否かは、比較対象となる判断基準がないので、
現時点で己を考察するのはちょっと難しい。
まあ、とにかく閉所恐怖症の原因はトラウマではなさそうだと。
しかし、この際アドラー流に解釈を加えるとすれば、
私の場合は社会に出たくないという根本原因を、
今後は「死にたくない」といった潜在的要因に置き換えることで、
説明が立つような気がしてきたのだ。
かなりねじ曲がった解釈ではあるのだが、
死んだらあの狭い棺桶に閉じ込められてですね、
しっかりこんがり骨になるまで焼かれるんですね。
こうなると、もはやトラウマなんてもんじゃない。
おっと、書いていて、すっげぇ怖いんですが!