贅沢は素敵だ!

地球温暖化、そしてエネルギーが枯渇する懸念から、

そもそもエコは始まった。

当初、エコは悪く言えば、単なるブームに過ぎなかった。

が、やがてその地位は安定し、

現在はしっかり足が地に着いている。

というより、エコ度はいま、さらに加速している。

シェールガス供給にメドが立とうが、

メタンハイドレートが出ようが、

地球全体で、温暖化阻止、

もったいない運動は推進されている。

例えば、クルマ。

私がたまに行くカーデイーラーでも、

ショールームに展示してあるクルマは、

どれも排気量を下げ、

車体の軽量化と燃焼効率、Co2削減に知恵を絞る。

特に、燃費の善し悪しは、

買うか否かの最大の焦点となる。

ハイブリッド車も現在は全盛だ。

クルマの魅力や価値観も相当変わった。

だから、

大排気量で疾走するスポーツカーなんぞ、

いまや時代遅れ、と私は思っていた。

が、世の中は広い。

多様化の時代なのである。

エコとは全く無縁のクルマもどっこい健在のようで、

それが時代遅れなのかというとそうでもなく、

そうした市場はしっかり形成されている。

この場合、ただデカイだけのクルマなら、

アメ車の話だけで充分だが、

そのアメ車だって、ダウンサイジングしている。

そんな時代の流れのなかで、

価格面でも仕様でも全然エコじゃないクルマが、

幾つか存在する。

例えば、欧州のスーパー4WDがそれだ。

レンジローバー・イヴォーグは、45°の急勾配でも難なく登るし、

50㎝の水深でも走り続けられる設計になっている。

で、車体価格が600万円弱。

贅沢。

そんな坂、どこにあるのかとか、

いつ水の中を走るのかなどと、

野暮なことを言ってはいけない。

いまこのクルマは、欧米や日本でも飛ぶように売れているのだ。

で、お馴染みのベンツやポルシェも、

大排気量4WDを発売した。

ポルシェに至っては380馬力の怪力を秘めているというから、

これは贅沢というよりも無駄のようにも思えてくる。

現実的に考えて、いま世界の道路で、

この怪力を試す機会は皆無と思う。

で、車体価格だが、

ベンツCLSシューティングブレークが1000万円弱~1800万円。

ポルシェカイエンSハイブリッドが、1113万円。

私からすれば、まず4WDっていうのが、そもそも贅沢である。

あと、こんなに高額で、ローンなんて組めるのかとか、

そういうセコイことしかアタマに浮かばない。

ポルシェは驚くことにハイブリッドだが、

それにしてもリッター10kmを稼げるのは、

高速巡航の場合だけらしいということ。

うーん、贅沢!

で、もっと凄いのがフェラーリ。

4人乗れて、荷物もいっぱい積みたいと誰が言ったか知らないが、

最高速300㌔くらいの性能は維持したまま、

その要望をカタチにしたのが、フェラーリFF。

V12気筒エンジンを搭載し、高速道路を330㌔で疾走する。

で、車体価格が3200万円也。

こうなると、超高級4WDだの超豪華RVだのと言っている場合ではなく、

なんだこの価格は、となってくる。

一戸建て住宅のようなこの車両価格で、

一体誰が買うのだろう。

が、現実に売れているというから、

世の中はやはり広いのだ。

格差社会とか経済格差ということばが閃くが、

私としては、こういうものが売れる社会というものも、

まんざら悪くないような気もする。

それより注目すべきは、

エコだけで地球を救えるか、ということ。

私が思うに、

エコだけでは、きっと人類を救えないのだ。

人の歴史は無駄の歴史でもある。

その最たるものが、

芸術とかアートとかいわれている領域ではないだろうか。

で、これが無駄かというと、そんなことはない。

これは、皆が認めるところだ。

華やいだ時代や地域には、必ずといっていい程、

芸術・アートが開花している。

贅沢や、一見無駄なモノ・コトは、

巡り巡って、やがて私たちの生活・人生を潤す。

これは、皮肉なことだ。

実用一本槍で、私たちは暮らせない。

だから余暇があり、レクリエーションがあり、

遊びがある。

クルマのハンドルだって、遊びがある。

遊びのないクルマは、怖くて運転もできない。

エコで地球は救えるかも知れない。

しかし、私たちを救ってくれるのは、きっと無駄なのだ。

では、例えば上記した超贅沢なクルマたちは、

一体何を生むのか?

想像できることは、

きっと、あんな無駄なものを買う人たちは、

他でも有益な無駄をしているということ。

それが寄付なのか、テクノロジーなのか、

芸術家やアーティストの手助けなのか分からないが、

とにかくその辺りに期待はできる。

要は、無駄が巡ることが、

次の創造に繋がるということではないだろうか。

こう考えると、

やはり人間というものは、

つくづく複雑系ないきものだ。

濃密なとき

90年代は、僕にとっての激動だった。

神奈川にいる親が高齢になったこともあり、

再三オファーがかかるようになった。

加えて、仕事上のいきづまりなどが重なって、

結局、東京の事務所兼自宅マンションを引き払うことにした。

この仕事を辞めようと思ったのも、この頃だ。

最後の荷物をまとめて、引っ越し屋さんから

「出発の準備ができました」と言われ、

ああ、もうこの生活は終わったんだなと、

やっと気づいた。

ガランとした部屋に佇んで、

壁を眺めているうちに、

涙がとめどなく流れた。

幼い長男は、そんな僕を

じっと見ていた。

この街で、

僕は何を追い求め、

何を掴み、

そして何を失ったのか…

がしかし、

とにかく僕は挑戦をしたのだ。

ここで費やした時間は、

社会への助走であり、

人生への賭けであり、

僕の、かけがえのないときでもあった。

傍らには、不安に苛まれることもなく、

ずっと奥さんがいてくれた。

愛おしい子供も産まれ、

無邪気に育ってくれた。

僕らの濃密で膨大なできごとが、

この部屋に、

いや、

東京という都会のなかのわずかな隙間に

ぎっしり詰まっていた。

若くして志したことを、

現実に引き寄せる力だめしのときは、

とにかく一端終わったのだ。

夢を追うこと。

負けない心。

ぶれないで走る。

やり通す。

いま思えば、そのどれもが危なっかしくて、

見ていられないものばかりだ。

でも、走り続けた事実は、

確実にこの手に掴んだ。

その感触を、いままた温めて、

若い誰かに手渡したい。

繋がる、ということ

その或るひとは、

初対面にもかかわらず、

会って5分もたたないうち、

私にこう切り出した。

「今度、あんな波が来たらさ、

俺たちみんなで呑まれよう。

そう言っているのさ。

俺たちは、ずっとあそこを動かねぇからさ」

途端、こちらの心臓が縮まった。

いや、それは…とも

そうですね…とも言えず、

私は瞬間的に

「はぁ」とだけ返答したように思う。

前後の話は、いま思い出そうとしても、

何も覚えていない。

ただ、地下鉄の入口まで見送ったとき

その広く頑丈そうな背中が

もろい石のように、

いまにも崩れそうな不安定さを帯びていた。

ひとはひどく弱いいきものなのだ。

しかし、一端翻ると、これほど手強いものは、

自然界に存在しないかも知れない。

毎日、チマチマと生きている自分なんぞに

分かるハズもない、その或るひとの日常。

私のすべては、

きっとそのどうしようもないチマチマだから、

ひとは経験によって、この世界をみていると感じた。

あの日、私はせいぜい揺れた怖さの他を知らない。

その或るひとは、ほんの数分の間に、

私にひとの想いというものを教えてくれた。

そこから、果てしないものがみえる、ということ。

やはり、

ひとは伝え、繋がって生きてゆくものらしい。

私の場合の死ぬかと思った

その1

学生時代は海ばかり行っていた。

潜ってウニを採る。

こう書くと、どこの海?となるが、

葉山あたりでも、昔はウニが

うじゃうじゃいたのだ。

で、潜りに飽きると、今度は波乗りとなる。

下手なくせに、低気圧がくると聞くと、

みんなで海に出る。

で、ここでとんでもない目に遭った。

大波に挑戦しようと、

パドリングで沖をめざす。

目前に山のようなうねりが近づいた。

これはまず恐怖しかない。

次第に、波の先が白じれて崩れ始める。

このあたりでうまく波に乗らないと、

後が怖い。

が、カラダが立ち上がらない。

必死でバランスを取っているうちに、

波が崩れる。

もうこれは水の壁に襲われるようなもので、

ボードが吹っ飛ぶ。

我がカラダが、

洗濯機の中の洗い物のようになってしまった。

それも横でなく縦水流なので、

息がもたない。

上下の感覚が麻痺する。

必死で海上に顔を出し、荒い呼吸をする。

と、次の波にのまれる。

こんなことを繰り返し、

なんとか浜に辿り着いたとき、

もう二度とこうした遊びはすまいと、

心に誓った。

その2

信州へでかけるため、

中央高速を突っ走っていたときのこと。

冬晴れの気持ちのよい日だった。

談合坂S・Aを過ぎて左車線に寄り、スピードダウン。

のんきに音楽を聴きながら前をみていると、

斜め前方にぼろい長距離トラックが走っている。

積み荷をみて、過重オーバーと思った。

それはタイヤと車体の揺れをみれば分かる。

一時期、トラックドライバーをやっていたので、

そこは敏感に反応する。

嫌な予感。

と、そのトラックの後輪のダブルタイヤのホィールキャップが外れ、

いきなり高速道路上に転がり始めた。

その直径は1㍍くらいだが、当たればダメージは大きい。

こっちは80㌔相当で走行しているのだ。

銀色に光るホィールキャップが、みるみるこちらに迫る。

このままだと激突する。

ハンドルを切ろうとするが、トラックの後方、

即ちこっちのクルマの横に、1台の乗用車が並走している。

高速での急ハンドルは危ない。

もう避ける方法がない。

アクセルを踏むか減速するか一瞬躊躇し、

そのままという決断に至る。

銀色に光るホイールキャップは、

我が愛車の1㍍前あたりを横切って、

ガードレールに激突した。

この光景は、バックミラーで確認したので、

鮮明に覚えている。

あー、怖かった!!

その3

防空ごうというのは、

飛来した戦闘機から身を隠す穴のことだが、

私の幼かった頃の横浜の町には、

こんな穴がいくつも口を空けていた。

いまでは考えられないが、

当時はこうした穴が放置されていて、

子供の格好の遊び場だった。

京浜工業地帯の一角に、或る進学高校があって、

私は、なぜかそのグラウンドで遊んでいた。

海を望む高台のそのグラウンドの端には、

やはり防空ごうがいくつか放置されていて、

私はその穴の中で近所の子と遊んでいた。

で、その防空ごうの入口付近が、突然落盤した。

そのとき、穴の中に私と数人がいた。

なにが起こったのか、分からない。

私は土を被り、しばらく動けないでいた。

少しだけ息ができたが、苦しい。

もがいていると、もう駄目なような気がした。

と、まわりで大人が数人叫んでいる。

土の中の私の手を、誰かが掴んでくれた。

気を失う前に、数人の大人が、

私を引きずり出してくれた。

防空ごうの中の他の子は、みな大丈夫だった。

以来、私は閉所恐怖症だ。

その4

大学時代、スキー合宿とかなんとか名称をつけ、

みんなで長野の野沢にでかけた。

ただの仲良しサークルだったが、遊びにかけては、

皆抜きんでているグループだった。

当時はスキー全盛の時代で、

金のない私も、一応スキー道具を揃えた。

初心者は私だけだったが、

2日目頃から滑れるようになり、

中級コースでもなんとか滑れるようになった。

それまで、スケートとかサーフィンとかをやっていたので、

上達も早いと皆に言われた。

そこで、調子に乗ってしまうのが私の悪いところで、

帰る頃はすでにベテラン気取り。

遅いスキーヤーをひょいと抜いてゆく。

これは快感だった。

混んでいる林道コースでも、

並み居るスキーヤーを次々に抜いているうちに、

スピードの制御が効かなくなった。

林道コースは細いので、カーブで大きくはみ出た私は、

次の瞬間、コースの下に転落し、

雪の崖にストックを立てて、必死にしがみついていた。

これには皆驚いて、

というか、馬鹿な奴もいるもんだという顔で見下ろされた。

助けてもらうまでの時間のなんと長いことか。

よくよく下を見ると、足元の崖下から途中が急な勾配に変わり、

あそこまで落ちていたらと思うと、

ホント、ゾッとした。

その5

小学校時代は、工場地帯でよく遊んでいた。

工場の空き地は、どこも塀で囲まれていて、

私もそこで、よく鉄くずを拾っていた。

その日は、晴れた日だったが、

突然空が暗くなり、風が吹き出した。

雨もぱらついてきた。

空き地は、3方がトタンの塀で囲まれ、

奥まったところにいた私が帰ろうと思って振り返ると、

入口付近で風が埃を舞上げて、渦を巻いている。

それがだんだん大きくなり、2階ほどの高さになると、

今度は近くに転がっていたブリキのトタンを巻き込んだ。

すると、高く舞い上がったトタンがつむじ風に乗って、

どんどんこちらに近づいてくる。

逃げ場を失った私たちは塀に張り付くようにして、

そのトタンに恐怖した。

トタンの切り口は鋭い。

あれは、刃物と変わらないのだ。

と、ここまで書いてうんざりしてしまった。

こうした話はまだあるのだが、

なんだか言い知れ感情が噴き出し、

体調まで悪くなってきたので、

ここらでやめることにしました。

スイマセンネ

しゃばいとはなにか?

最近、しゃばい、ということばを

幾度か聞いた。

いや、ネットで見たのかな?

とにかくこのしゃばいという響きが気になった。

あたまにこびりついて、離れない。

一体、しゃばいとはなんだろ?

いくら考えても、意味が分からない。

やばい、ではなく、しゃばい。

しょぼい、ではなく、しゃばい。

うーん、しまいには仕事に支障をきたしてきたので、

これは調べるしかない。

ということで、しゃばいを追いかけた。

しゃばいは、ある意味やばいの変形だという。

しゃばいはまた、しょぼいの変形ともいう。

それは、地域や時により、記憶されている。

また、しゃばいは、

水っぽいものを表現するときに使われる。

薄い味も、しゃばいと言うらしい。

「このカレー、しゃばいな」なんて言うとき、

汁が多すぎることを指す。

しゃばしゃばだな、という表現は、割と多く使われると言う。

また、「このカレー、しゃばいな」は、

味が薄すぎるときにも使われるようだ。

しゃばしゃばカレーは、要するにこってりはしていないのだ。

うーん、しゃばいは、意味深だ。

一方、しゃばいは、九州の方言だという説がある。

福岡の或る男性は、つまらない奴とか面白くないないものに対し、

しゃばいと言うことばを使うと記している。

が、しゃばいということばをよく発する茨城出身の方は、

やはり水っぽい味に対してよくしゃばいを使っているが、

いままで誰一人分かってくれなかったという。

が、しゃばいは、昔の不良が使っていたことばだとする説もある。

娑婆(牢屋の外)の人は度胸がないので、そうした振る舞いに対して、

しゃばいという表現で蔑んだとする説。

また、お金にケチな奴を指して、しゃばい奴とか、

そんな使い方もあるらしい。

とまあ、しゃばいカレーは私も好きなので、その表現を除くと、

しゃばいは、少なくとも褒め言葉ではないことが理解できる。

一般に良くないもの、良くない状態をしゃばいと表現するところは、

ほぼ一致している。

しゃばいがだんだん見えてきた。

で、いま思い出したが、昔の深夜テレビ番組で

「しゃばしゃばしゃばしゃば…」って色っぽく唄っていたのは、

11PMだ。

11PMといえば、大橋巨泉。

彼ははっぱふみふみという意味不明のことばを発明した人なので、

しゃばしゃばもしゃばいも、ひょっとしたら彼の仕業か?

こうして考えてみると、しゃばいということばは、

割と広範囲で使われているような気がしてきた。

私だけが知らないだけなのか。

コピーライターとして、おっくれてるなー。

とにかく、私も今日からこのしゃばいを多用しよう。

例えば、

しゃばい時間に、この一杯  (ネスカフェ) とか

しゃばしゃばの、新しいこくまろ  (ハウス) 

っていうのはどうだろう?

しかし、このブログに書いていることってしゃばいなーと、

いま気がついたので、そろそろ終わりにしますね。

ヘロン(青鷺)2

相変わらず、風の冷たい日が続く2月某日。

「それにしても青サギのことが気になるなぁ」

という訳で、やはりというべきか、

カメラを手に、例の場所へ。

河川敷を歩きながら、キョロキョロする。

水田跡に目を配るが、

一見保護色にも見える青サギは、

やはり遠方よりの視認では無理。

反対側の川岸へ近づくため、

河川を上流へ上り、一つ目の橋をめざす。

その地点から見渡せるどこかに、

青サギはいるハズだった。

が、いくら目を凝らしてもその姿がない。

荒涼とした水田跡に、ムクドリが数羽固まっているだけ。

あきらめて水辺を覗くと、

珍しく白っぽい鯉が泳いでいる。

河川沿いの枯れた木々が寒々としている。

がよくみると、

なんとそのなかの大きな枯れた木に、

孤高の如く青サギは佇んでいたのだ。

ニコン 1 244

こうなると、

さらに他のショットが欲しくなる。

立ち姿や餌をついばむシーン、

いや、羽ばたく瞬間も撮りたいなぁ。

そんな訳で後日でかけてみると、

あの孤高の勇姿が、河川敷の横の池にいた。

カメラを構えていると、

なんと、後方からもう一羽の白鷺が舞い降りた。

そして、二羽で餌をついばんでいるではないか。

ニコン 1 264

ニコン 1 272

それは、立ち姿の美しい二羽だった。

平和そうにみえる。

そこにはもう、孤高の気高さはない。

きっとそれは、

こちらが勝手につくりあげた幻想だった。

ニコン 1 285

「いま」という時代の広告表現

ツィッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索の世界である。

で、検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

企画・制作者として売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現する一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に納得したりして、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となっている。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要はビジネスなので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか、怪しい。

いまのネット広告は、感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

走るおっさん

最近はジョギングブームなので、老いも若きも走っている。

私も近くの運動公園へちょくちょく行くが、

ホントにみんな元気に走っている。

で、私の場合は歩くのみ。

それだけ。

たまに、ちょっとまねごとで走ってみるが、

慣れていないから、これが辛い。

ハァハアとすぐ息が上がってしまう。

「みんな凄いなぁ」

私がぼぉっとして歩いていると、

いつものように、横をスッと走り抜けるおっさんがいる。

いつもみかけるこの方、痩せ形ですらっとした体型で、

みたところ、年はかなりいっている。

定年も迎え、ジョギングに没頭しました、という感じ。

真冬だというのに、薄い紺のウインドブレーカーのみで疾走。

で、いつも息なんか全然乱れていないのがこのおっさんの特徴なのだ。

思えば、彼を初めて見かけたのは、いまから2年前になる。

夏のクソ暑い日の午後、景色もとろけそうななか、

私が冷えた缶コーヒーを飲みながら日陰で涼んでいると、

誰も走っていない公園の外周コースを汗だくで黙々と走っているのが、

このおっさんだった。

以来、会う度、彼は常に走っているのだ。

そのなんというか、情熱っていうのかな?

このおっさんのひたむきさは例えば修行僧のようでもあり、

マラソン大会を控えた体育会系の学生のようでもあり、

さらにいえば、

この「おっさん」といういきものが、

本能のままに走っているようにも思えるのだ。

私は、この方が他の人と談笑したりゴロンとしていたり、

ドリンクを飲んでいたりするのを一度もみたことがない。

おおげさだが、おっさんは常に走っているのだ。

とまらない。

で、24時間走り、365日走っている妄想が、

もう私のアタマで固まってしまった。

時々、表情をちらっと覗くのだが、これが分からない。

楽しそうという感じではなく、そうかといっ辛い感じもない。

強いて挙げれば、無表情という表情をちらつかせる。

で、或る日このおっさんはなぜこんなにいつも走っているのかを、

私は無意識に考えていた。

子育てもとっくに終わったろうし、

家では長年連れ添った奥さんが?

いや、ひょっとすると先立たれたのかな、とか…

で、いまは独り暮らし。

趣味もこれといってつくる暇がなかったんだよな。

現役の頃は、中堅の工場の現場で部長職を努めていたが、

いまはそのつきあいもなくなり、近所づきあいもなく、

やることといったら3度の食事と寝ること以外になし。

おっと、テレビは大好きだっだ。

なので、テレビショッピングの商品にも蘊蓄を傾ける。

で、このおっさんが或る日テレビを観ていると、

「頑張れ!中年」みたいな番組をやっていて、

その日はジョギング特集だった。

「家のなかでいつもゴロゴロしていては健康に長生きできませんよ」

とかいうフレーズにちょっと心を動かされ、

これなら俺にもできるかな、と…

ちょっと走ってみようかな、と。

で、このおっさん、情熱の冷めない翌日に、

即イオンのスポーツ用品売り場にでかけ、

店員さんのいわれるままにジョギング用品を買い揃えました。

で、ここからおっさんの伝説が始まった…

以上は私の妄想なのですが、どうもこれ以外に出てこないんだよな。

クリエィテイブなストーリーが全然出てこない訳。

これには、さらに続きがあって、

人は走り始めると止まらない、という仮説も考えてみた。

いきものはみな、

一端走るのをやめてしまうと死んでしまうという恐怖に取り憑かれるのではないか、

という、もう仮説ではなく、また妄想ですね。

これはマグロなんかもそうだが、泳いでいる限り生きている、

生きていられる、という本能が芽生えてしまった例として考えた。

で、たどり着いた結論が、

このおっさんは走っている限り死なないと信じている、ということ。

裏を返せば、走るのをやめると死が待っている、ということ。

エンドルフィンという心地よくなる脳内物質が、

ランニングハイのときに放出されるというので、

この説も一時考えたが、

このおっさんをイメージする限り、私はこの説を自ら一蹴した。

だって、

もっとどろんとした湖底に沈む妖気のようなものを感じる訳。

今日もあのおっさんは、あの運動公園で走っているのかな?

というか、どうか走っていてくださいよ!

でないと、怖い!

ヘロン(青鷺)

丹沢山塊の頭が、うっすらと白く化粧している。

2月の風の強い日に、

僕は空に吹き飛んだ白い雲のちぎれを見に、

視野の広がる場所を探して、クルマを動かしていた。

国道を逸れ、細く急な坂道を下ると、

里山を臨む河川沿いに出る。

そこは駐車場が整備され、数台のクルマがとまっていた。

河原の土手の道を、中年のマラソンランナーがのんびり通り過ぎる。

近所の農家のおばさんたちが、駐車場の先の公園で談笑している。

快晴。

きれぎれの雲はもう東へと流れて、

真冬の日射しだけが、吹く風を通り抜け、

あたりの景色を明るく照らす。

ほぼ、空全体が見渡せるほどの広大な河川敷に立つと、

空を遮るものは、遠方の丹沢の連なりだけとなる。

枯れた色の田園の向こうにこんもりした丘があって、

鳥居が傾いて立っている。

その後方に控えた里山の麓には、ぽつぽつ民家が並び、

模型のような絵柄が僕はとても気にいった。

川沿いを歩きながら水を覗くと、

大きな鯉がゆったりと泳いでいる。

上流に向かって歩くと、カモの家族だろうか?

小ガモも混じって行列をつくり、みな同じ動作で

川を下ってゆく。

と、頭上に大きな影が現れ、

影は水面に沿って上流へと羽ばたいた。

その大きな鳥は悠然と羽をひろげ、

幅は優に2㍍を超えているようにみえる。

足を早め、鳥の舞い降りる水田跡へと走った。

薄青いその勇姿は、舞い降りた途端、微動だにせず、

直立して首をもたげたまま、

山並みをみつめているようにみえる。

空の白いちぎれは、もうとっくに東に流れていて、

寒風のなかの太陽がぎらつく。

そのきりっとした勇姿にみとれた僕は、少しづつ間合いを詰める。

大鳥は依然、首すら動かさず、山の方に向いている。

あぜ道を降りて僕は更に距離を詰め、カメラを構える。

そのとき、勇姿は一切こちらを振り向きもせずに、

ふわぁっと大空に舞い上がった。

翼に陽が一瞬反射し、僕は目を細めた。

次の瞬間、翼はより大きくなり、

それは西洋の紋章のマークのような美しさを描いて羽を広げ、

ゆっくりと里山の方へと羽ばたいていった。

その姿を見たのは、僕だけだったように思う。

帰ってネットで調べると、

どうも青サギという鳥に似ている。

あれから数回、カメラを手にその河川敷へ出かけている。

しかし、あの勇姿には、いまだ出会えてはいない。

くよくよするな!

成長するということ

妙な宗教の教えに縛られたり

下らない教義で自分を高めようなどと考えないで欲しい。

まずは誰かにキチッと挨拶でもしてみること。

できれば、笑顔でね。

これを習慣づける…

それからだよ。

若き悩みの解決法

考えるのをやめようなどと、

人間の不可能と戦うのはやめにしよう。

考え、考え、考え倦ねたら、

外に出る。

とにかく出るんだよ。

そして歩いて歩いて歩くのがいい。

汗をかくまでね。

そう、夜はやさしく君を包むだろう。

ひとりの効用

たまには、テレビを消すことをオススメする。

そして独りの時間をつくる。

できれば長く永く。

そう、いろいろアタマに浮かんでくるだろう?

それが良いことだろうと嫌なことだろうと、

ゆっくり思考の海に浮かべてみる。

答えはそうしてみつけるもの。

自分を生きる

人生は不公平にできている。

それも、とびっきりにね。

でも、君は誰といつ何を較べたの?

その誰かのすべてを君はホントに知っているのかな?

ひょっとして、

その物差しは、いい加減なゴムでできているんじゃない?

のびきっているのさ…

そう思って、自分だけの人生を生きる。

それって、賢いことなんだけれど…

正しいことよりも…

正しいか間違っているかなんて、

実はどうでもいいことなんだ。

結果、それを勝ち誇ったところで、

きっといつかむなしくなる。

そんなもんさ…

大事なのは、そのとき相手を思いやったか?

その一点じゃないかなぁ。

自己肯定

なにをやっても満足できない。

果てはこれで良かったのかと常に思い悩む。

それって、君の完全主義?

いや、自己否定。

だけどね、時間はいまさら戻らないよ。

いまやるべきことを、精一杯やる。

それだけだよ。

それが最善ということ。

大切なのは、まず自分を肯定してあげる。

認めてあげることなんだ。