目覚めの詩

読みかけの本

記憶は

目覚めるたびに消えて

静かな時計のカチカチ音 

さわるシーツの感触

うっすら見える白い壁紙

人の歩く気配

新しい朝に

やはり僕は生まれた

カーテンからこぼれる陽の光 

流れるような風の音 

水を含むと

その冷たさが喉を通る

間違いのない

僕の朝

流れるジャズ 

眠いネット検索

ひとりの思考 想像は駈け巡り

本を読みかけて 

夕べ消えた僕は

創世して映るこの世界の景色を

遠いところより考えていた

仮死 そして

生まれ変わり 

蘇り よみがえり 黄泉がえり

やはり予想どおり

常に一抹の不安のなか

この小さく些細な朝に

僕は感謝するのだ

同時代の僕たちへ

僕たちは、

間違いなくこのステージ(時代)を生きていて

時の狭間に志や想い出

家族や愛とかを慈しんでいて

そして

時期が来れば土に帰り

空に舞い

思えば無ではなく

輪廻転生の果て

何処へ行くのかと

少なくとも

此処においての課題は

いままで、そしてこれからも

自己との戦い

そして調和

自らを苦しめる

己を自由にする

総ては我が心のなかにあるのだと

生まれたままの我

育っていく我

これらを桃源郷へと誘うのも

やはり自らなのだろう

心が整えば

そのとき自己との戦いは終わる

調和する

それは

例えば死であり安息であり

到達であり

新たな旅立ち

人はそうして何万年も生きてきた

今日

僕たちはまた歩き始める

さあ

超える力を手に入れろ

心のことばを紡ぎだせ

そして

我に幸あれ

幸抱け

ベリー・ショート&ポエム

栗毛色に光る長い髪を振りほどいて

振り返る

美しいいつもの君が

突然

腐った魚の頭にみえて

ああ

これは世界の終わりだと思った

(よくある話さ)

夢を捨てる

そっぽを向くとは

僕にとって

少なくともそうした精神状態は

すなわち日常の死を表すことであり

そこにわずかでもクリエイティブが残っているとすれば

振り絞る力でさっさと

過去を消さなければならない

(そういうもんさ、この仕事は)

自由に憧れ自由になろうと

僕は

自由の象徴である空の王者

オオワシに会いに行った

するとオオワシは鋭い目で僕を見下ろしてこう言った

「なんと言っても地上だな

大空ではなく

お前の地上には自由があふれている」

そう言うと

オオワシは険しい表情で

また空高く舞い上がった

(いまの環境のなかで最善を尽くそう)

人生で最も大切なものはと

私は息子たちに聞いた

「人生で最も大切なこと?

それは

強さとやさしさじゃないの」

そう

そう思っている限り

お前たちのポケットには

いっぱい愛が詰まっているよ

(少なくとも僕はそう教えたと思う)

未来はこの中にある

彼らは笑いながら自らの頭を指さし

ピストルを手にしてコインを回し

決して胸に手を置こうとはしなかった

ユダヤの金融商人と中国共産党とアメリカ軍産複合体の面々は

こうして上機嫌で部屋を出て行った

もちろんその後

世界は破滅したけどね

(彼らに世界を委ねるな!)

アートじゃ飯は喰えないと言って

ジャックはキャンバスとペンを捨て

ビジネスの世界に飛び込んだ

果たして彼の事業は大成功を収め

大金を手にし

それでも彼は或る日突然空しくなって

自らの会社を売り飛ばして旅に出た

行き先は荒野

荒野には

相変わらずみすぼらしい絵描きと痩せた詩人が

夢を語り合っていた

が突然突風が吹くと彼らは風のなかに消えてしまった

ひとり残されたジャックは頭を抱えた

そして涙を流して発狂するのだ

(現実ほど厳しいものはないって)

ホーリー・ナイト

真夜中の

ラジオからこぼれる

クリスマスソングの

メロディに乗って

ひょこっと飛び出だしてきた小人たちはみな

色とりどりの派手な衣装を身にまとい

列をなして

テーブルを

ゆっくりと通り過ぎる

緑の帽子を被った小人が

ちらっとこちらを向いて

おどけた笑顔でフルートを吹く

真っ赤な太鼓の小人はバチを高く挙げて

どんどんと叩いて

大きな腹を突き出して

(おや

これはパーティー?)

にぎやかな行進はやがて

つめたい窓の隙間から冬の風に乗り

夜空へとのぼってゆく

そして音は徐々に遠のいて

きらきらとした階段が

やがて雲を掴み

小人たちが

そのふわふわのなかを跳ねて転んで

遠い星の光へと

消えてゆく

(神さまの処へ行くの?)

冬の空のきらめきに

静けさが戻り

ラジオからはとても素敵な賛美歌が聞こえてきて

あたりは次第に

祈るような夜となる

一人ぼっちの僕への

イヴのプレゼントは

夢の時間

誰も知らない夜話

冬の心

どこまでも続く海岸線で

もう少したてば桜が咲くよと話してくれた

おばあさん

もういないのかい

いろいろな事があって

あの人もこの人も逝った暦の春が

またくる

今年もクリスマスがやってきて

海は静かで

ああ

正月にどう笑えばいいのかな

そんなことを考えたり

そして

雪を掻いたりしているうちに

やっぱり

春はやってくるのだろう

いったい

なんの春がくるのかな

海岸に

忘れ物の弁当箱と転がったサングラス

冬は嫌だな

(静かで寒い

寡黙な日に…)

腹立ち斜め読み日記

12月某日
タバコを切らし、ちょこっとセブンへ。
ちょうど昼時だったので、レジ横の鳥のカラアゲをゲットし、
そのままクルマの中で喰ってしまう。油ギラギラ。
あーあ、また太るなー! アイス買って帰ろう。

12月某日
テレビをつけると歌番組だ。SMAPを久々にみる。
突然、中井君がソロで歌いだす。いつものように音ズレはぬぐえない。
観ているこっちがヒヤヒヤする。
身内の宴会じゃあるまいし、コイツ、辛いな?

12月某日
町田のジャズ喫茶で、トースト&コーヒー。この日はライブじやなかったが、
サックスの音にしびれる。いい音出てるな。選曲もGOOD。
タバコはOK! 分煙もなにもない。ここは東京都。神奈川の条例が届かない。
学生時代に通っていた伊勢佐木町のライブハウスを思い出し、妙にリラックスできる。
また来よう!

12月某日
お袋の介護認定が下りる。病院通いも大変で、先を考え、老健施設を探し始める。
加えて、ケアマネさんをはじめ、いろいろな方とのやりとりが頻繁に増える。
仕事がまともにこなせない。ジャズ喫茶に行っている場合ではない。
まわりに負担かけてるなー。

12月某日
大阪の選挙で橋下さんが大勝利。相手は、既成の政党が相乗りで応援するも、
現職で敗れる。この図式は、かなり興味を引く。大阪という土地柄だとか、
これは一過性とか言っているマスコミも多いが、私はそうは思わない。
時代のうねりはいつも地方から生まれる。橋下さんに対する卑怯とも思える
ネガティブキャンペーンを張った大手週刊誌の連中は、ホントに恥ずかしい人間たちだ。

12月某日
iPadアプリのネットラジオは超便利。いつでも世界中のラジオが聞ける。
いまはクリスマスシーズンということで、専用のラジオ局がいくつもある。
で、聴いていて気がついたのが、クリスマスソングって実にいっぱいあるなってこと。
ヨーロッパ系ラジオ局は、ちょいDJの声もカッコいい。

12月某日
いま人気の「家政婦のミタ」というのを一度観た事があるが、
あれって何で人気なんだろう?って思ってしまう。
松嶋菜々子のぎこちない演技と無表情が、どうしてもギャグとしか思えない。
本人は真剣なのかな? ご主人様が命令すれば、殺しでもなんでもやります、
このギリギリ感ですかね、ウケているのは。

12月某日
夜の街を歩いていると、突然暗闇から若いオトコが出てきて
「かわいい女の子と遊びませんか?」。
こっちは仕事のことでイラついていて「お前、誰だよ?」って私。
男は一瞬むっとして、また暗闇に消えて行きました。
若いのに、なにやってんだコイツと思う。

12月某日
いま自転車がいろいろ問題になっているが、
以前から暴走自転車には頭にきていた。
歩いていると、とんでもないスピードですり抜けて行くし、
ぶつかっても謝りもしない。
クルマを運転していても、飛び出しも平気の命知らずな彼ら。
コチラも事故るんじゃないかとヒヤヒヤして運転しています。
自転車専用道路は必要と思いますが、その前に
自転車免許の新設が必要と思います。

化石の森

冷たい肌をもったその女は

深い緑の瞳で

森を眺めていた

一度その女と

ドイツ・シュヴァルツヴァルトの

黒い森を

ジェットで飛んだことがある

一面の松林はモミの木の群生で

その広大さに驚いたが

荒廃がすすんだその森は

ところどころが剥げ

木が倒れ

それが病のように広がっていた

我々の助けを求めているようだった

女は悲しい顔をしていた

その森の上空で女は抱擁を迫る

それが何を意味するかは分からなかったが

その女の仕草は不思議だった

煙草をくわえる唇を歪ませると

指を次の煙草に絡め

それを潰して

いつまでも古い詩を歌う

赤いヒールにメノウの石が飾られ

そのメノウに従い

歩く方向を決めているようにも思えた

気まぐれに歩くその足で

私を誘い

或るとき森へでかけた

白いマニキュアの付いた細い手を

僕の首に巻きつけ

そしてこう言う

この森の先に私の家があるの

(そんな筈はない)

メノウに従うように

その女は暗い森を歩く

やがて

女のふくらはぎに

うなじに

見慣れないしわのようなものが

浮き立つ

足取りが遅くなり

やがて女は前かがみに

息を上げていた

顔をジョルジュのスカーフで覆い

金髪の前髪は

やがて

グレーの輝きのない髪色に変わっていた

手を引こうとその手を握ると

冷たさが石のように

こちらの体に伝わる

やはり森は荒れていた

不意に飛び立った鳥が

不気味に鳴き

空一面に雲が沸き立つ

もうすぐよ

女の声はかれていた

大丈夫かい

女の首筋に手をやり

そのしわを確かめた

しわはみるみる肩に広がり

そして

風が止まった

雨が落ちる

その女が振り返ったとき

女が初めて笑ったその目には

美しいメノウの石が

光っていた

或る虚人の告白

悲しいことが多い世の中です、と言いたい。

震災のとき、私はまず、神さまの存在を疑った。

救われない現実と思った。

振り返るに、震災前の今年の正月、

私は幾つかのお願いごとを書いて、神棚に上げた。

そのなかに何故か、大きな地震が起きないようにとある。

元来、信心深い性質なので、

それが神道だろうが仏法だろうが、

そんな教えを身近に感じて、

いままで生きてきたように思う。

そして最近、漠然とだが、

神的存在とやらを疑っている。

また、

神的存在はあるが、そのなかで生きている私たち、

という冷めた世界観もあるのでないかと考えた。

例えば、宗教は単なる慰めなのか?

生きること自体が苦行と考える宗教なら、

そんな教えを与える存在とは、

かなり傲慢とも思えるのだが。

神話では、

神同士が戦い、更には殺し合っている記述もある。

また、嫉妬という割と下世話な心の動きも多々ある。

我々と何が違うのかと深読みも試みたが、

そこは意外に受け流されている記述が多い。

答えようがないのかも知れない。

もし、古神道またはアニミズムのように、

この世総て、隅ずみに至るまで神が宿るのなら、

この神的存在は、私たちをじっと眺めているだけということになる。

逆に、悲劇さえもコントロールしているとも考えられ、

それはまた、救われない解釈としか言いようがない。

信じるものは救われるというが、本当にそうなのか。

聖書の

ヨハネの言葉には、予言めいたものが多いが、

そこには、良いことはほぼ書かれていない。

例えば、或る章に、

子羊が七つの封印を開封する、と言うのがあるが、

これは、簡単に書いてしまえば、

勝利、戦争、飢饉、死、復讐、地震と天災、祈りだ。

人間の傲慢さが、いろいろな災いをもたらすと言っているのは分かるが、

ほぼ世界は、苦しみに満ちていると表現しているように思う。

それが人間の業なのだと、突き放しているようにもみえる。

(私たちは、幸せになるために生まれてきた)

誰だって、心の拠り所がなければ、

永らくは生きてゆけないだろう。

よく、何かとんでもないことが起こると、

神がお怒りになったと言う人がいるが、

そんな短絡的な思考停止は、

人間を益々臆病にするだけだ。

(実際、聖書で、神はよくお怒りになる)

また、人間こそ神の子だとする教えもあるが、

ならばと反論する意欲も失せるほどに、

いま、私たちは疲れている。

が、尚更に強く、

いま、私たちは幸せになるために生まれてきた、

と思いたい。

拠り所は、心に宿る意志だけなのか。

これで充分だろうとも思う。

しかし、

いまこの時代に

不安定な心に、

もし、神が手を差し伸べてくれたらとも考える。

それは、私たちの存在理由を問うたときの、

生まれ出ずる悩みであり、

やはり、神的存在は欠かせないと思うからだ。

如何様にもがいても、

それが人間なのだから。

ツイテルツイテナイ?

ゴールドの輝き、消えました

神奈川県人ドライバーとしては恥ずかしい、

あの警察がウヨウヨしている小田厚道路で、

捕まってしまいました!

速度規定内で走っていましたが、

前に走っているクルマがノロノロしていまして、

ああ、迷っているのかなと思い、さらにスピードが落ちて。

で、どうしようもなく抜きまして、でですね、

だが、なんとそのクルマが覆面パトカー。

捕まった原因は、車線変更違反でした。

引っ掛けられたという訳です。

で、切符を切られまして、かなりイライラしています。

素直に反省ができません(爆)

減点1、罰金6,000円也。

こんなのはどうでもいいんですが、

ゴールド免許が消えました。

ここが悲しいですね。

「あんたら、いつもこうやって捕まえているの?」と私。

「私たちは規則どおり50㌔走行しておりました」と警官。

小田原の空は綺麗なのに、こいつらときたら、と思いましたね。

紅葉と駿河湾

箱根へ来た目的は、もちろん紅葉でして、

一号線・湯本から宮ノ下へ向かう道は、

葉が、なかなか良い色をしていました。

が、大渋滞はいただけません。

めちゃくちゃ混んでいます。

平日でもカンケーねぇんです。

しかし、芦ノ湖あたりへ来ると、杉の木が多いので、

紅葉は、イマイチ美しくない。

やはり、箱根は裏道に美しさあり。

自然が織り成す彩りは、極上のアートです。

仙石原の一面のススキも圧巻でした。

箱根スカイラインから見る景色も、

かなりのスケール感。

目線と雲の高さが同じ。

ポカンと浮かんで、遠くに駿河湾が見渡せます。

箱根はゲージツだ!

ピカソの作品は、

ポーラ美術館と彫刻の森美術館にありまして、

私的にはポーラ美術館の雰囲気が好きです。

紅葉の森の中に、沈み込むように建てられた外観はモダン。

エスカレーターでもぐり込むように入ると、

館内は白一色。

光は充分に差し込む設計です。

で、ピカソですが、わぁという存在感。

なかでも、「Salle Pablo Picasso」という作品は、

存在感が凄いです。

他とはまるで違う。

他に、ルノワール、ダリ

シャガールとか巨匠の作品がズラリと並びます。

わざわざ来る価値はあります。

あと、ゴッホって、すげぇです。

ここで観るのは二度目ですが、

パワーが凄い!

グイグイと迫ってきます。

ともかく、後はぐったりしてしまいますので、

ケーキでも喰わないと後がもちません。

ここにも、ピカソ

彫刻の森美術館にもピカソはいます。

ピカソコレクション館。

この人の作品を観るにつけ、ホント多才というか

いろいろな作品に巡り合えます。

版画なんかもガンガンありました。

私は、彫刻も絵も、学問的に何も知りません。

が、そんなことはドーデモいいと思っています。

好きなので、それで良しとします。

しかし、回りで凄いといわれても、

好きじゃない作品は好きにはなれない。

それで良いと思います。

な訳で、再び大渋滞の箱根を後にしました。

楽しいような、悲しいようなドライブでした。

清里にて

風が冷たいので、Gジャンを羽織る。

それにしても空がデカい。

以前、清里の清泉寮に来たとき、確か

長男を馬に乗せてあげた記憶があるので、

確実に15年以上は経っているだろう。

遠くに、アルプス連峰が鎮座し、

その後ろに富士の峰が光る。

流れる雲が映像のように、

草原とその背後に広がる森が絵のように、

相変わらず清泉寮からの景色は飽きることがない。

途中、

中央高速の双葉S.Aでコーヒーを飲みながら

ハーブ園を歩いているとき、

今日の日差しはミラーボールのようだなと

感じた。

木々の葉が、ハーブが、

クルクルと角度を変えて光っていた。

須玉インターを降りて紅葉の道を

駆け上がってきたのだが、

ワインのような濃い赤色の葉と

黄色く光る葉のコラボレーションが

微妙に濃淡を変え、

やはり風に揺れていた。

だが、途中訪れた清里の町は、閑散としている。

日曜日だというのに、あまり人影もなく、

もちろん賑わいとは程遠い衰退ぶりだった。

お洒落な洋風の建物も、

おとぎの国に出てきそうなお店も、

ひと気がない。

売り物件の看板も目立つ。

(みんな、どこへ行ってしまったのだろう)

思えば、80年代に清里ブームがあり、

ここは、とにかくいつも観光客でごった返していた。

そういえばあの時代、

旧軽井沢も同じような様相を施していたことを思い出す。

る・る・ぶという旅雑誌が飛ぶように売れ、

みんなが高原をめざした。

(あの頃のみんなは、どこへ行ってしまったんだろう)

いまは山ブームだが、

その流れに乗った方たちは、

もうこんな時代遅れの場所へはこないのかも知れない。

しっかりキメた山スタイルで、

私の後ろにそびえる八ヶ岳あたりを

ハードにストイックに

歩いているのとでも言うのかな。

(ツクリモノ。ニセモノ)

閑散とした町に、皮肉にも

ユーミンの古い歌が流れている。

陽気な日差しが、

この町をあざ笑っているかのようだ。

蕎麦屋へ入って、

ノンアルコールビールとてんぷらと

月見そばを注文する。

ジャズが流れる店内に3組の客がいたが、

その客が帰るともう誰も入ってこない。

私は、

蕎麦屋のジャズがあまり好きではなく、

要するに安易だと思う性質なので、

iPadをひらいて情報を遮断する。

ネットの世界では、

相変わらず、

刻一刻といろいろな出来事や情報が、

嫌というほどに溢れている。

そこに安堵する自分という生き物の変遷について、

やはり時間というものは、なんというか

人を変えてゆくものだなと、

今更ながらにハッとしてしまった。

思えば、初めてこの地に来たのは、

ボロボロのフォルクス・ワーゲンに乗っていた頃だから、

二十歳そこそこか。

ガールフレンドを乗せて、

夏の信州へと向かう途中に寄る清里だった。

この頃、ペンションブームがあり、

私たちの上の世代が脱サラを始め、

ペンションのオーナーになった頃だ。

私のビートルはもちろんキャブ仕様だったし、

カーナビなんかある訳がないし、

雨漏りも頻繁だった。

ガールフレンドとの会話にも、

どこかぎこちなさがあったし、

そして何より、

私も誰もが若かった。

さて、今回は友人のクルマでと相なった。

彼曰く、このクルマはすでに古いと言うが、

3000ccの躯体は楽に高速を飛ばし、

急な登り坂でもストレスがない。

現代のミニバンの底力だ。

翻って、

二十歳の頃の私のビートルは、

1300ccの非力で、

とにかくバタバタとうるさくて、

確かこの先の蓼科で雨に降られ、

ガールフレンドと二人で、

後部座席の下に溜まった雨水をかき出すハメとなり、

そのことが良い思い出にもなっている。

時代が交錯する、私の高原の町。

(ツクリモノ。ニセモノ)

いまはホンモノの時代かというと、

いやいやそんなことがある訳がない。

相変わらずみんな嘘をつくし、

政治家は都合の悪いことを隠しているし、

なんたって、

いろいろな場面で、

誠意なんてないじゃないかと思うことのほうが、

増えたような気がする。

生き物の変遷については認めざるを得ない私だが、

ツクリモノ。ニセモノの美しさも、

心得ている。

そこに思い出が詰まっている限り、

私のなかでは、

日差しを受けたそれのように輝やき、

そのまぶしさは、

今日のこの光にも勝る美しさを放つ。

自分の記憶を辿る旅も悪くない。

それは、

まだまだ地図の上に無数に転がっている思い出を

拾い集めるという、

新たな旅の始まりでもあった。