さくっさくっと歩くたびに
黒ずみがかった砂は沈み込み
振りかえると
私が辿ってきた足跡が
曲がりくねって
どこまでも見えなくなる位に
伸びている

カモメが上空をふわぁっと泳いでいる

あいつは足跡も残さずに
どこから来て明日に飛んでゆくのだろう?

私はかすかに見えるあの岬の突端あたりを
めざしているのだが
そこに果たしてどんな景色が広がるかなど
行ってみなければ分かりはしない

この頃になると少々息も乱れ
カラダも汗ばんでくる
しかし歩かないことには
ただ、浜に打ち寄せる波の音ばかりが
耳に残るばかりで
なんにも変わりはしないではないか

気がつくと
遠くにもあの突端の方向に歩いている人が
ちらほらといることに気がついた

同じものをめざすひともいるのだな
当り前のようにふっと笑ってしまった

心地よい浜風が耳を首を撫でてゆく

やがて岬の付け根まで辿り着いたとき
空の色は変わり
いまにも降り出しそうな雲行きになってきた

もう引き返す訳にはいかないし
そこで雨宿りを探すほど
呑気なことも言っていられない

さらに強く
カラダに力を込めて私は歩いた

<夢など
所詮夢だと思っていた頃
私の歩みはきっと歩調が乱れ
手をぶらんとした重い歩きだったのではないかと
いまは分かる>

果たして
あの岬の突端から何が見えるのか?

降り始めた雨は次第に頬を強く打ち
首筋に流れた雨が服のなかに垂れてゆく

遅れた足取りは私の神経を逆なでし
時間だけが冷静に時を刻む

泥だらけの細い道
うっそうとした松林の先に
その岬はあった

予想外の時間の経過は
景色を一層暗いものにしていた

雨は一向に収まりを見せず
辺りは薄い暗闇で覆われていた

私はここから映る景色に何を期待していたのか?

<金か、賞賛か、名誉か、ある種の成功か?>

しかし、私の眼に浮かぶその先には
時折光る雨の糸と
暗闇の向こうに広がる
遠いかすかでわずかな明かりだけだった

雨音と切り裂く風の声
そして小さく遠くに波音だけが響いていた

それでも岬は私を際立たせた

この時間、この天候に
岬に私ひとり

誰もいないのを確かめてから
私はその達成感とさみしさのなかで
何故だか涙が止まらなかった

ひとりの男が本当に確かめたかったもの

それは
やはり私の予想したように

ひとり人間の孤独だったのかも知れない

ビー玉

プールの帰りは
決まって風船型ミルク氷をかじりながら
炎天下のなかを近所の仲間とだらだらと歩いて帰る
大きな鉛筆工場を過ぎたあたりから
小さな工場の町並みが続く

いつも気になっていたのだが
冷えた体も温まってきた頃
炎天下以上の熱気の工場が僕らの目を惹いた

中ではおじさんたちが口に鉄の棒をくわえ
あれよあれよという間に
色とりどりのガラスが膨らんでいく

真夏の炉は一層の熱を帯びているようで
暴力的といえるほど僕らを近づけなくしていた

おじさんたちは一生懸命に炉に鉄パイプを突っ込み
次々にガラスを膨らませてゆく
それをじっと見ている僕らに気がつくと
「向こうへ行け」と怒鳴るのだった

仲間はひとりふたりと工場を離れてゆくのだが
僕はその工場の隅に山のように置かれている
ガラス玉に目を奪われていた

気がつくと僕以外に工場の前には誰もいない

僕がそのガラス玉を見てじっとしている様子が
おじさんたちも気になったのだろう

鉄パイプをそっと置くとひとりのおじさんが
僕に近づいてきた

僕は頭を両手で覆いおじさんに叩かれないように
後ずさりをして腰をかがめた

いまと違ってむかし大人は怖かった
悪いことをすると誰構わずひっぱたくのが
常だったので
僕もそのときは叩かれると判断したのだ

おじさんは白いヨレヨレのシャツに作業ズボン姿
赤黒い皮膚に玉のような汗がにじんでいたのをいまでも憶えている

少し間があった

僕を見下ろすと
「坊主、これが好きなのか?」

おじさんの大きなしわしわの黒ずんだ手は
なんともたとえようのないきれいな色をしたビー玉をみっつ
握っていた

それは透ける緑と透明のグラデーションだったり
赤と白が混ざり合ったカラフルな配色だったり
オレンジ色が扇状になって向こうの景色がみえるビー玉だった

気がつくと僕はすっかりその不思議な彩りに気を取られ
おじさんの手のひらに乗っているビー玉を手に取り
空に向けて一心にそれに見入っていた

おじさんは無造作にそのビー玉を僕によこすと
「帰れ」とにこにこしているのだった

こうして僕の夏休みは毎朝ビー玉を転がすことから始まった
ビー玉をいろいろな角度から眺め
顔を近づけたり遠ざけたりしながら
その透明感に浸っていた

あれから何十年

いまでも街を歩いているとデパートで駅で雑貨屋で
ガラスの装飾、オブジェ、工芸品などが目にとまると
必ずそれに見入ってしまう

クリスマスの彩りもそれなりに素敵だと思うし
夜空の花火もそれは美しくはかない趣があるのだが
僕の想いは
遠いむかしのその透明な色の不思議さに辿り着く

あの人工的で不思議な透明感と偶然がもたらす
色の混ざり具合は果たして僕の美の原点だ

こうしているいまも
エビアンのペットボトルの水の向こうに映る
テーブルにひかれたインド更紗(さらさ)を
じっと眺めている
僕がいる

社会不適応

10代の頃、友達数人で集まり
よく夜中まで政治や将来のことについて
とめどもなく話し合ったことを覚えている。

コカ・コーラにポテトチップス。煙草はまだ吸っていなかった。

将来何になりたいか?という誰かの質問に答えるべく
一人ひとりが、そのときまじめに答えていた。

「社長」「弁護士」「会社員」などなど。
皆、真剣に答える。
いよいよ私の番が回ってきた。

不意に思いついたのだが、吟遊詩人という言葉が、
つい口を突いて出てしまった。

みんなが笑う。

自分でもふざけるなよ、真面目に答えろよと思うのだが
いくら考えてもそれしか思い浮かばなかった。

その後、あの答えは何だったんだろうと自問自答してみたのだが
やはり吟遊詩人はいいなぁ、と思っていた。

国語の成績が良かった訳ではない、詩を書きためていたでもない。

ただ、生き方としてその頃ジョルジュ・ムスタキという髭を生やした
仙人のようなフランスのおっさんに憧れてしまったことがある。

ここでも私のいい加減さが出ているのだが、このおっさんの著書を
何十年も経た現在でも、一冊も知らない。

結局、ムスタキは本を出版していたのか否かもいまだに知らない。

ただ、彼は何者にも束縛されず自由に世界を旅し、即興で詩をつくり
わずかなお金で気ままに暮らすことをスタイルとしていたらしい。

これが私の解釈なのだが、これは私の願いにすり替わっている、とも思う。

後、私は出版社に入るのだが、どうも居心地が良くない。
いろいろ自分なりに頑張り、経験もそれなりに積んでゆくのだが
どうも何かが違うような違和感にさいなまれていた。

社会不適応を意識し始めたのもその頃だ。

服装は自由。みんなもいい人だし、普通のサラリーマンと違って
毎日違った仕事をしているというのが魅力的だった。

ただ、会社の入り口にあるタイムカードを押すのは抵抗があった。

自由な企画、音楽評、新刊の紹介等々、いま思えばかなりゆるい
会社なのだが、それでも駄目なものは駄目なのだ。

入社4年目にして、私はこの違和感から抜け出す算段をする。
いろいろ先のことを考えて、すすめられる原稿などは準備しておいた。

辞表を書くため、その中身を調べるにつれ、文面の体裁のつまらなさも
そのときに初めて知った。

こうして私は退社するのだが、後悔の微塵もないというのをいまでも
鮮烈に覚えている。

これから何をするということも考えないまま、私はこれまた脳天気な
オクさんと旅行に出かけてしまった。

さて
自分の生立ちだが、私は公務員の家庭で育った。
父は無口。話をしたことは数えるほどしか覚えていない。
まじめ、というより早い段階から、私は彼の二面性に気づいていた。

母は口が達者で働き者。口癖は「悪いことをしてもお天道さまが見ているよ」。

ただ、この二人の共通点は、私に無関心だったということだろうか?

上に姉がいるが、4人で家族揃って旅行に出かけたと

みんなでコタツを囲んで団らんのときというのも
皆無だった。

いつの頃からか、私は外ばかりをみていた。
楽しみを家の外に向けていた。

捨て猫を学校の床下で育てる。
友達と、食料とおもちゃの刀を手に、山奥へ探検。
迷子2回。
行くあてもなく電車に乗り、遠く離れた知らない駅でうろうろしていたら
不審に思った駅員につかまり、交番に連れて行かれたことも何度かある。

一方、クラスで私は学級委員に選ばれ、果ては学校の児童会議長という
これまた私に似つかわしくない立場にも選ばれてしまった。

夏休み前、学校の要請で全校児童会を開くこととなった。
その趣旨は、夏休みを有意義に過ごすには、という議題と共に
いかに休み中の事件・事故を防ぐかという事をみんなで話し合うためでもあった。

私は議長としての采配を振るわなければいけないのだが
興味は全くなかった。

そんなことは自分で考えるのが当然と、私は考えていたからだ。

議会では切れ味のいい提案がいくつも出され、その度ごとに
私はその案の良さを皆にアピールし、次々と可決へと持ち込んだ。
結果、かなり素晴らしい?夏休みの過ごし方というプリントが
全校に配られるのだが

それを一切守らなかったのが私だ。

まず、行ってはいけないとされる遠方にある山へ
私は毎日ひとりで出かけていった。

海を眺めるためである。

そこは、遠方であるばかりでなく崖っぷちがあり
当時は、かなり危険な所とされていた。

私は崖の淵に足を投げ出し、横浜港を眺めるのが
大好きだった。
オレンジと白のツートンカラーのマリンタワーの横に
氷川丸が鎮座する。

その横に視線を動かすと、遠くに霞んだ海が
どこまでもどこまでも光っていた。

あのずっと向こうに私の知らない世界が広がっている。
そんなことを考えながら、夕方までぼぉーっと過ごして
家路に着く。

その想いは毎日寝る前でも心に染みつき
ときどき気がつくと
私は夢のなかまで現れ

私はあの水平線の上でニコニコしている
もうひとりの私を眺めているのだった。

ロマンス

窓を開けたら
キラキラした星たちが
ぼくの部屋にさーっと
いっぱい入ってきて

明かりを消すと
それは
ぼくにとって
とてもかけがいのない
綺麗な夜だった

しかし
そんな夢をみながら
いまを生きてゆくのは
幼すぎると
ぼくは思っているのだれど

銀河の瞬きを歩きたかったのは
いまに始まったことではない

すーっと空に舞い上がったかと思うと
杖を持ったやさしそうな老人が
目線の先に伸びる天の川はいかがかな?
と聞くので

ええ、と答えると

ぼくは銀河から
それに連なる遙かな
星の海
星の山

そして
星でできた
まぶしい小舟に
揺られていた

夢をみるのはいけないことなのかな?
幼いことはいけないことなのかな?

今日も窓を開け放って
空を見上げると
キラキラと耀く
宝石の世界が
くすくす笑いながら
ぼくをすくい上げようとする

今夜こそ旅立とうとするのだが
そわそわとしているうちに
迷っているあいだに

ぼくのなかの世界は
いつも決まって
夜が明けてしまうんだ

夢をみるのはいけないことなのかな?
幼いことはいけないことなのかな?

昨日の夜も

窓を開けたら
キラキラした星たちが
ぼくの部屋にさーっと
いっぱい入ってきて

明かりを消すと
それは
ぼくにとって
とてもかけがいのない
綺麗な夜だった

恋愛証明書

やがて22世紀に入ると
人々はますます傷つくことを恐れ
感情を表すこともなく
ただ淡々と毎日を過ごすのだが

政府は少子化以前に
まず若い男女が出会わなければ
何も始まらないと考え

出会いの場をいくつも設定し
カップルが誕生すれば
それを後押しする策を考えた

そこで
恋愛保証書なるものを考案し
結婚に至るまでの意志のあるふたりに
それを発行することとなった

恋愛保証書の効力は絶大で
その保証を破った者には
禁固刑を科すものとした

本人の意志の確認と共に
恋愛保証書は発行されるのだが
この保証書がないと
いつフラれても文句は言えないし
心が傷つくので
誰もが恋愛保証書を求めて
相手探しに躍起となった

恋愛保証書の効果は徐々に広がりをみせ
街にはカップルが目立つようになってきた

彼らは一様に恋愛保証書を取得しているので
結婚までを約束されている
いわば国のお墨付きだ

失恋などというものは過去のものであり
新たな恋人の出現などというややこしい問題もなくなり
カップルはほぼみんな結婚へとゴールインするのだが

なかには恋愛保証書を破棄する者も現れ
そこにも政府は懲役刑を科したため
誰もが慎重に相手を選ぶのだが

ゴールインしたどこの家庭でも
子供が一人生まれ
公園へ行ったりすると
子供が砂遊びをしていたりする光景を
みんなが微笑ましく見ているのだが

不思議なのは
遊んでいるどの子もおとなしく

「能面」のような顔を
していることだった

M546星雲

遠く銀河系のM546星雲から
僕の脳に指令が下ると
やおら起きあがり
パソコンのスイッチをONにする

真っ白なメモ帳に地球に関するレポートを
今日もひとつ記さねばならないので
昨日の酒場での出来事について
一言記する事にしたのだが

その酒場でのオトコとオンナのやりとりを
報告したからといって
このレポートが一体どういう意味をもつのか
僕にはさっぱり理解できないでいる

人の生態についてアレコレ知りたいのだろうけれど
こっちもそこの所は心得ていて
適当にアレンジを加えてはレポートを書き上げる

さて
このレポートを送信すれば僕の今日の仕事は終わりなのだが
再度指令が下ったので
そのネタを集めに街へ出ることにした

マックでチーズバーガーとコーヒーを頼み
窓の外を眺めながら
隣のカップルに耳を傾けなければならない

赤いルージュをひいた痩せ形のオンナが
オトコに
「で、そのふたり、どうなったのよ」
首からじゃらじゃら銀のアクセサリーをぶら下げたオトコは
「それはおまえもラストを観なくちゃ」

コーヒーの味が残る氷をかき混ぜながら
ノートパソコンを開き
僕はレポートを書き進めることにした

マックを出て上を見上げると
空はすでに陽も落ちて
下弦の細い月が西の空に霞んで浮いている

銀河系M546星雲

この星のレポートがM546星雲にどういう影響を与えるのか?

僕は毎日レポートを送信し続けるのだが
それに対する回答、感想などというものは
返ってきた試しがない

こうやって毎日が過ぎ
レポートを送り続ける僕なのだが

なんだか空しくなって疲れた日は
レポートも止まる

活動を止めたからといって
向こうから何を言ってくる訳でもないこともあるので
あとは指令が下るまで深く深く眠る

M546星雲は遠い遠い空の彼方にある
M546星雲は永遠に耀く星らしい

だからいつも僕は祈るのだ
だから僕は送信し続けるのだ

M546星雲に幸アレ
M546星雲よ永遠ナレ

M546星雲ではみんなが僕を待っている
M546星雲にはジョン・レノンもいるな

そして
ちいさい頃、僕の大好きだったおばあちゃんも
相変わらずあの星で
今頃畑仕事をしている

小田原にて

ルート246を西へ

やがて停滞が解け
私はひらけた前方に夢を抱く

アクセルを軽く踏み込めば
昨日の喧噪も先ほどまでの悪夢も
みんなみんなガラスの破片のように
粉々になって
青い景色のなかに消えてなくなる

この解放をハンドルに託して
5月の風はひゅんひゅんと
車体を包むように
ひとりの男を笑わせてくれる

人生において一体なにが大切なのかね?
と私が問えば
さて、と微笑んで初夏の山々はこたえる

その瞬間瞬間のひとつひとつに
解答は潜んでいるし
たったいましがた過ぎていった
おばあさんの歩いている姿のなかにも
あなたはそれをみたハズだと

海に出たいと思えば
車体を南下させればよし

次の交差点を左折すれば
数十分のうちに確実に
到達できる私のいわば分かりやすい
到達点

しかしさて私は
ルート246を西へ

霞んだあのやまなみを
この眼で確かめようと
疲れたエンジンはしかし
乾いたリズムで
まだまだ力づよく
傾斜の傾きも難なく登っているので
私はこころを浮つかせながら
FMのスイッチを切り
まわりの色づきに耳を澄ます

その木々の息づかい
雲の流れる爽やかさ
山のにおいに
遠い記憶を呼び戻せば
ほう、とうなずいて
私は納得するのだが

なおさらのように
やはり私の疑問は深まるばかりのだ

人生山を登るが如し

気抜けたこのドライブを
私はどこまで続けるのか
とんと検討もつけていない

はてと
その初夏の風のなかに

ぼんやりとしたものを
みつけたような気がした

ああ
いま訪れた心地よい風は
この瞬間のなかに
包み込まれているのだな

生もまたいつも
このひとときのなかに
眠っているのだな

なんということか
海は近いというのに

やまなみは
やがて目の前に
立ちはだかって
さあ
峠を越えるのだが

まだ
その先は

遠く遠く続く

by小田原にて

つくしんぼ君

おいら、やっと出てきたよ

へえー、まだ寒いな~

おいら3代目

おじいちゃんがここで生まれて

ッーか

鳥に運ばれてきたって言ってた

母ちゃんと父ちゃんは

去年の春

散歩で通った親子に抜かれて

それでお陀仏

で、今年はおれっなんだけど

せっかく生まれてきたんだから

抜かないでくれよな!

おいら美味くないよ

部屋に飾ってもぜんぜん目立たないよ

人間様

鳥さんもそこんとこ分かってもらいたいな

おいらにはやりたいことがあるんだ

それはおひさまと話すこと

おひさまは何でも知ってる

だから話したいんだ

ここはどこなの?

おいらの命はなんで短いの?

おいら

なんで歩けないの?

こんなおいらだって

やりたいことはいっぱいあるんだ!

なのになにもできないのに枯れちまう

ねえおひさま?

おいらなんで生まれてきたの?

おいらなんで生きているの?

おいらを抜く人間様って

そんなに偉いの?

おひさま

それをおいらに教えてくれたら

人間様に抜かれても構わない

だから

おいら

生きているんだ!

すれ違い

ブランデーグラスを口に運んだときに

オトコは煙草の煙を吐きながら

「もう終わりだな」と呟いた。

胸のあたりに熱いものが流れてゆくのを確認するように

もう一度、ため息をついた。

華奢な手がワインのグラスをゆらゆらさせながら

口はなにかを言おうとしたが、オンナは黙って

涙を流した。

そのバーは客もまばらで、程よく距離が保てたのも良かったのかも知れないな、と
オトコは思った。

外は春の嵐だ。

時計も12時を回っていた。

カウンター越しに、バーテンが乾いた布でグラスをひとつひとつ丁寧に磨くのを
オトコは眺めていた。

「ねえ、私たちまたいつか何処かで逢えるのかしら?」
目線を遠くに合わせながら不意にオンナが言葉を発した。

オトコは赤いラークを取りだし、マッチに火を灯した。

「うんん、いつかはきっと」

これは本当だった。
嘘などついてはいなかった。

いや、愛していると、オトコは
酔いのまわったあたまから思わず本音を言おうとして、その言葉を飲み込んだ。

「もう帰ろうか?」

客もとうとう二人きりになっていた。

店のバーテンがドアを開けると外はすっかり静かになっていた。

彼は看板をしまい、入り口の外灯を消した。

アメリカンポップスから、流れる曲はいつかしっとりとしたジャズに変わっていた。

見知らぬ歌手が、恋の歌を情感を込めてしっとりと歌ってた。

やがて
オンナが目をつむり
「分かった」と呟いた。
ワインの残りを飲み干すと
急に笑顔をつくり、オトコに向き合った。

そして
「しあわせになるのよ」
その母親みたいな言葉にオトコは一瞬黙り込んだが
やがて止めどもなく涙があふれ出て言葉をなくした。

いま、このひとをしあわせにする自信はオレにはないな、
潮時を考えていたオトコは、だから別れを口にしたのだが…。

この先、このオンナは誰と出会い恋に落ちるのか?
どうあれ、しあわせになって欲しいと、オトコは切実に願った。

オトコには恋の予定などひとつもなかった。
いや、そんなことすら考えられない心境が心を支配していた。

旅をいくつも重ねて、いつかオレはこのひとに再び会いたい、
オトコはまた言葉を飲み込んだ。

外に出ると、街はすっかり静まりかえっていた。

すでに、すべてが眠っている。

歩き出すふたりに、生暖かい風がヒュンと通りすぎた。

「おわかれだね」

化粧の取れかかったオンナの顔はまだ童顔で
はじめて知り合った頃のことが新鮮に蘇っては
オトコを動揺させた。

流しのタクシーを拾い、精一杯の笑顔でオンナは
じゃあね!と手を振って深夜の漆黒に消えていった。

ひとりで歩き出すオトコに、また春の風が耳元で囁いた。
「人生はままならないな」

オトコは歩き続けた。そして、夜明けまで歩こうと思った。

歩きながらオトコは何度も何度も呟いていた。

「愛している」

グリーン・マイル

振り返れば、遠くに霞む想い出の道筋ひとつ

いろいろな笑顔が浮かんでは消え、夢と挫折は繰り返された

後戻りすることもなく、ただ独り歩き続けるグリーン・マイル

私の前に道はない

これからも、ただ独り 道をつくり続ける

あんたの人生はどうだい?

こっちはまあまあ、というところか

行く先はそれぞれ違っても、人はそれぞれ歩かなければならない

いや、私はまだまだ歩きたいのだ

仕事の道、学ぶ道、男の道

グリーン・マイル

めざす山の頂は、私の果てか?

あそこへたどり着いたら悲しいが

私は歩く

決して振り回されることなく

一歩一歩、ひとつひとつ

誰にもまねのすることのできない

誰も行ったことがないという

一筋の道

私のグリーン・マイル