まだ若い君へ

 

まどろみから生まれたものは
明快ではないが新鮮だ

熟考される前の
熱い力がほとばしっている

青春という季節は
朝露のころがる青葉の如く
新鮮でみずみずしくもある

しかしそのさなか
その様は誰ひとりとして
気づかない

やることなすことが
どれも虚しく

悩み 悲しみ 怒り

そのすべてが激しく
ふつふつと動いている

青春は
赤い血のいろ
そのものでもある

そして経年し
ひとは誰も色あせ

やがて人知れず枯れてゆく

 

さて
チマチマしてもしょうがないではないか

いまこの時代は
歴史の大きなうねりである

君はまだ若いから

君の勘違いは許されるから

まずは小志大志をもって
疾風のように
いまを駆け抜けてみてはどうだろう

君が生きていたという証は
心のなかに一生宿り続ける

たかが百年のいのち

されど百年のいのち

生きるとは燃焼すること

生きるとはまた
死ぬことなのだから

 

 

オレだけのロックンロール

 

横浜の場末の店で
カウンター係をやっていたことがある。
高校を卒業したばかりで、
世間のことはまだよく分からなかった。

酒を飲ませる店だったので、
いろいろな酔っぱらいをみた。
自らもアルコールは飲んでいたが、
世の中、質の悪い酔っぱらいの多いのには驚いた。

大学の付属校にいたが、その大学へは進まず、
カメラマンをめざしていたが、資金が足りずで、
あきらめることとなった。
改めて大学をめざすのもなんだかシャクなので、
まずは働くことにした。

それにしても、酔っぱらいの相手は、
気長でなくては身がもたない。
相手とまともに取り合っていると、
そのうちにケンカになる。

一見さんでも常連さんでも、
ケンカはやはり起きるべくして起きる。
このころから、心底酔っぱらいが嫌いになった。
以来、酒を扱うところでは働かないことにした。

カメラマンへの道が閉ざされ、
水商売にどっぷりと浸かっていたころ、
僕の将来はいっさい見通せなかった。

昼に起きて市場にいったり、
店を掃除したり、そして仕込みをする。
店がオープンすると、
そう酔っぱらいの相手だ。

しかし、あとで気づいたことだが、
このころの学びはとても多かった。

おとなといういきもの、世間、
おとことおんな、お金、仕事、
夜の世界、情、ずるさ、かけひき、
誠実、約束、そして不誠実とか。

永年にわたって学ぶことが、
こうした世界にいると、
とても濃縮されているなと思った。

しかし、いくら自分を正当化しても、
やはり耐え難いものは隠せない。
いつも胸のつかえとして留まっている。
そんな憂鬱な日々が続く。

そんなころの唯一の楽しみは、
朝方のドライブだったように記憶している。

気に入った音楽を聴きながら、江ノ島まで走る。
第三京浜をかっ飛ばす。

または、朝までディスコで踊るとか、
山下公園の隅で寝てるとか…
そんなもんだった。

鬱屈してたころ、
突然あらわれたのが、キャロルというグループだった。

「ファンキーモンキーベイビー」が
彼らのデビュー曲だった。
いや、いまだに詳しくは知らないけど。

「ファンキーモンキーベイビー」を聴いたとき、
なかなか表現できないものが僕のなかにうまれた。

歌詞はほとんど意味をなさない。
けれど、感覚としては伝わる。
メロディはイントロから奇抜。
演奏は決して洗練されていなが、
いままで聴いたことのない音楽だった。

この曲を何度も何度も聴いているうち、
なにかよく分からないのだが、
新しい時代がくるような気がした。

胸のつかえがとれてきた。

憂鬱な毎日を早々に壊してやろう。
そんな気になった。
そして将来というものを
再び考えるようになった。

人からみればくだらない、
いや、ささやか過ぎるかもしれない。
しかし、僕にとってのおおいなるきっかけが、
彼らのデビュー曲だったのだ。

そして生活が変わり、
考え方も変わった。

僕は店をやめた。

生活があるのでいろいろなアルバイトを
転々としながら、
とりあえず大学を受験しようと思った。

そしてカメラマンに代わるなんかを探そうと、
夜な夜な、ベンキョーというものを始めた。

それはとても新鮮で真剣な日々だった。

 

 

ショートショート「海辺の丘で」

 

海岸におおい被さるように突き出た小高い丘は、

いつでも草がそよいでいる心地のいい丘だった。

その先っぽに、ポツンと緑の公衆電話ボックスがある。

僕は、その電話ボックスのことが気になり、

気がつくとその丘へ行っては、

ボックスから遠く離れた草むらに寝そべって、

いつもその公衆電話を眺めていた。

 

誰もいないのに

誰も来ないのに…

なんでこんな所に公衆電話があるんだろう…

 

或る日突然、その公衆電話が鳴ったのだ。

その呼び鈴が風に乗って丘じゅうに響いた。

僕はビックリして立ち上がり、

その公衆電話に少しずつ少しずつ近づいていった。

鳴りやまない公衆電話の前に僕はそっと手を伸ばし、

緑の受話器におそるおそる触ろうとした。

 

突然、人の気配がした。

驚いたことに、どこから来たのか

ひとりの老人が僕の背後に立っている。

長い白髪の老人だ。

メガネが鼻からズレている。

木の節が柄の中ほどについた太い杖をついている。

 

「そこの少年、その電話は私にかかってきたのじゃ」

「えっ、そうなんですか」

「その電話をとってはいかんぞ。絶対にとってはいかん。

その電話は断じてこの私にかかってきたんじゃよ」

「あっ、はい」

 

僕は電話から少し後ずさりした。

老人はその電話に近づくと、

うんんと咳払いをして、

そしてひと息ついてから、

おもむろに受話器を取り上げた。

 

老人は電話の向こうの声にじっと耳を傾け、

ときおりうなずくように「はい」とだけ答えていた。

老人はそのとき、海の一点をみつめていたように見えた。

 

そう長い電話ではなかった。

老人は、電話を切る間際に「ありがとうございます」

と丁寧に会釈をし、そして静かに受話器を置いた。

見ると、眼にうっすらと涙が浮かんでいる。

 

僕は、ちょっと驚いた。

そして老人は僕の方を振り向くと、

「少年よ」とだけ言った。

「あっ、はい」

僕はあわてていた。

 

草がまるで生きているかのようにうねる。

とてもよく晴れた日の午後だった。

遠くの海はかすんで見えるが、

波は比較的に穏やかな日だった。

 

老人は海を見つめ、そして少しずつ歩き始めた。

老人の行く先にもうそれほどの距離はない。

その先は崖だ。

僕は危ないなと思って老人に近づく。

「どこへ行くのですか?

その先は崖ですよ。

危ないですから…」

老人がこちらを振り返った。

そして笑みを浮かべ、こう言った。

 

「少年よ、私はこれから出かけるのじゃよ」

と、とても静かに言った。

「どこへ、ですか?」

「簡単に言えば、昔の知り合いの所じゃ」

老人はズレたメガネを捨て、

そして杖から手を離した。

僕は何か嫌な予感がして、

「おじいさん、変な事をするのはやめてください」

と、叫んでいた。

老人は、いやいやと笑いながら、

大きくかぶりをふった。

 

「少年よ、あまり妙なことを想像するな」

それより、と言って老人は話を続けた。

「唐突な質問で申し訳ないが、

はて、君にとって良い人生とは何だと思う」

僕は、呆気にとられた。

「はあ、そうですね、

良い人生とは、後悔しないで何でも頑張るとか、

そんなことだと思いますが」

「そうじゃな、後悔しないこと。これが最高じゃ」

が、しかしと続けた。

 

「人はみな後悔だらけとよく聞く。

この年になると、そのことがよく分かるようになる」

老人は笑みを浮かべ、

「この世で、人はなぜみな後悔を残すのか、

不思議じゃよな。

さて、この訳を君は知らんじゃろ?

いや、知らんでいい。

が、これだけは覚えておくといい。

いずれ人は後悔するようにできておる。

これは人の生業がそうつくられているせいで、

そのようにしかならんのじゃよ」

 

老人はさらに続けた。

「なあ、私は君の名も知らんがこれも縁じゃ。

君はまだ若い。そこで、私の最後の仕事じゃ。

君に人生の極意とやらを教えてあげよう」

「はい教えてください。私に分かるかどうか

それが心配ですが…」

 

そう言うと、老人は今度は空を見上げ、

大きく息を吸ってから私にこう告げた。

 

「要するに、人はどう生きても後悔するものと決まっておる。

それが程度の差こそあれ、必ず後悔するように仕組まれておる。

これは、そうたとえば神様の仕業かも知れんがの」

 

老人はさらに続けた。

「で、その極意とやらは簡単じゃ。

後悔することをだな、

それを絶対に後悔しない事じゃ、

それだけじゃよ」

 

僕は、そのときこの老人が言ったことが、

いまひとつ良く分からなかった。

 

海が西に傾いた陽に照らされ、

ゆったりと光をたたえている。

 

老人は話し終わると、

僕に姿勢を正し、

そしてていねいに頭を下げると、

再び海の方へと歩き始めた。

 

と、老人に強烈な白い光が差し、

それは空から降り注ぎ、

老人の体が少しずつ浮かんで、

上へ上へ、空へ空へと上がっていき

ある所でパッと消えてしまった。

 

僕はその光がまぶしくて、

一瞬めまいを起こしてしまった。

そして、そのまばたきほどの瞬間に

あの緑の電話ボックスも、

跡形もなく消えてなくなっていた。

 

そこには何もなかったように、

丘は穏やかな陽に照らされ、

波の遠い音と、

絶え間なく、

風だけが吹いていた。

 

 

フリーの現場シリーズ

 

その1  フリーへの道

 

きっかけはいろいろあるだろうけれど、
最近はフリーになる人が多いと聞いた。

社会構造の変化とか働き方の多様性とか、
そうしたものがフリーへ向かわせるのかも知れない。

ムカシはフリーへの敷居が高かった、というと語弊がある。

正社員でいたほうがいろいろといい時代だったから、
フリーになる必要性があまりなかった。
そもそもフリーの土壌がまだできていなかった。

敷居が高いというよりフリーの需要がなかったとしたほうが
正確な表現かも知れない。

しかし、働き方に関してなにか思うところがある、
独自の労働哲学をもっている。
特別のスキルをもっていて独りで稼ぐ自信がある。

こうした人たちは早々とフリーで働いていた。

さて、一念発起してフリーになる人がいる。
なんとなく成り行きでフリーになった人もいる。
資金等、準備万端でなる人。
あらかじめクライアントを確保してから、
という運のいい人もいる。

私的なことだが、
私の場合はスタートは成り行だった。

当時、勤めていた広告会社の経営が傾き、
ひとりふたりと会社を去るひとが出てきた。
「うーん困ったなぁ。子供もいるし、
家賃も払わにゃならんし…」
そんなのんきなことを思いながら数ヶ月が過ぎたころ、
いきなり会社の全体会議が開かれ、
そこで社長が「会社の危機的状況」を初めて直に口にした。
彼は涙を浮かべていた。

いきなり焦った。
不安が現実のものとなった。
身の振り方を考えねばと、
とりあえず家には真っ直ぐに帰らず、
会社の近くにある地下のバーでビールを飲みながら、
今後のプランを考えることにした。

家に直行すると奥さんにバレる、
そして子供たちの屈託のない笑顔なんかみたら、
泣きそうと思ったからだ。

地下のバーに出入りしていることを
会社の仲間に話すと、次第に未来の落ちこぼれが
集まった。

誰かが、いやこの私だったのかもしれない。
よく覚えていないが、
「この際、ここにいる俺たちで会社つくっちゃおうか?」
となった。

いい加減な提案だったが、なんだか希望の光がみえてきた。
それはみんなも同じだった。

「会社っていったいどうやってつくるんだ?」
「そこからだな。まずスタートに立とう」
「なんとかなる」
「なんとかなるかねぇ…」

そんなこんなで、約3ヶ月後に、
私たちは青山一丁目にあるきったないビルの一室を借り、
登記を済ませ、会社をオープンした。

そして倒産しかけている私たちの会社の社長と数回話し合いをもち、
クライアントを引き継ぐ、という形でスタートを切ることができた。
交換条件としてそれまでの給料の未払いなどは不問とすることとした。

これは、恵まれた独立の一例といえるだろう。

職場となった青山一丁目のそのきったないビルの一室は、
ときたま馬鹿でかい気味の悪いネズミが走っていたのを
何度かみかけた。

以上の私の例は、フリーというより会社設立の話だが、
ホントのフリーの話は次回にする。

後に、私はここを辞めてホントのフリーとなったのだが、
それはフリーの種類からいえば発作的フリーというもの。

これは、間違いなく例外なく茨の道が待っているので、
まずおすすめはしないフリーだ。
これはのちほど書くとして、
フリーって「Free」なのだから、直訳すれば自由のはずだ。

フリーになるとホントに自由になれるのか?
フリーという自由な働き方とは?
そのあたりもおいおい書く。

で話を元に戻す。

フリーは誰でもすぐになることができる。
免許も資格も何もいらない。

ただフリー宣言すればいい。

それだけのことなのだが…

(つづく)

 

次回は

・発作的にフリーになった惨めな話

・フリーになるとホントに自由になれるのか?

・フリーという自由な働き方とは?

などを予定しています。

 

1964東京オリンピックのころ

 

三丁目の夕日という映画がありますね。

日本中のまちがこの映画のセットのような、

というとややこしいのですが、

当時小学生の私は、

あの映画の舞台のようなまちの片隅で、

家族4人で暮らしていました。

東京オリンピックが開催されたのも、

そのころです。

 

オリンピックというものがなんなのかは、

当時の私には、

いまひとつ分かっていなかったように思います。

とにかく、この国に世界のスポーツ選手や、

いろいろなひとたちがやってくる…

そんな認識でした。

まあ、当時小学生の私としては、

この程度の知識でじゅうぶんとは思いますが。

 

となり町の国道を聖火ランナーが走るというので、

私たち小学生は、日の丸の旗振りの練習を

小学校でさせられました。

させられたといっても、とにかく楽しかったし、

やはりなにか高揚のようなものがあったのです。

 

応援地点は、東京から横浜へと続く

国道15号線沿いの子安あたりだったと思います。

 

私の住んでいたところは町工場が乱立してまして、

みんな早朝から暗くなるまで一生懸命に働いていました。

いつも鉄をたたく音が町中に響いていた、

そんな環境でした。

 

歩いて10分ほどの国鉄の駅のまわりには、

大きな商店街がふたつありました。

そこはいつもにぎわっていて、

季節ごとに赤いガラガラポンの抽選会をやっていました。

 

私は母に促されてそのガラガラポンを幾度か回しました。

電気スタンドとふとんのシーツを当てたことがあります。

母は大喜びしていました。

それがどちらも2等でした。

当時は、かなり高価なものだったようでした。

 

私の通っていた小学校はいま思えば不思議なところで、

みな誰も勉強はよくしていたのですが、

いまでも鮮烈に残っているのは、

先生たちがとてもやさしく、

どの先生も凛々しく、

私たちに常々話してくれたのは、

どんな問題もしっかり考え、

自分が正しいと思ったことは、

しっかり主張しなさいと教えてくれたことでした。

 

教室はいつも自由の空気がみなぎっていました。

休み時間は、机といすをうしろにどかして、

当時流行っていたモンキーダンスを

みんなで踊ったりしていました。

 

給食は、パサパサのコッペパンと

アメリカから配給された脱脂粉乳のミルクと

カレースープとかそんな献立でした。

 

昼休みになると、拡声器から

♪僕らはみんな生きている

生きているから歌うんだ

…手のひらを太陽に透かしてみれば

真っ赤に流れる僕の血潮♪

という歌が毎日流れていまして、

手のひらを…の歌詞に

なぜか強く惹かれたのを覚えています。

これは、やなせたかしさんの歌詞だと

後年になって知りました。

アンパンマンというキャラクターも

この人のあつい想いからうまれたのだと

納得できます。

 

坂本九の「上を向いて歩こう」も

このころ流行っていたと思います。

クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、

弘田三枝子、そしてベンチャーズ。

この時代のスターそしてその音楽は、

いまでもアタマに焼きついています。

 

さて、1964年のオリンピックですが、

私の記憶に残っているのは、

重量挙げの三宅選手の金メダル、

ニチボー貝塚のバレーボールの金メダル。

このチームは東洋の魔女といわれ、

世界から恐れられていました。

そして裸足で走ったエチオピアのアベベ選手でしょうか。

そして、みなどこかで聴いたことのある、

オリンピック・マーチというのは、

いまNHKの朝ドラの主人公のモデルである

古関裕而という作曲家の作品です。

私としては、開会式の荘厳なファンファーに、

とても感動しましたが。

 

日本チームの赤白の制服姿はとてもインパクトがありました。

日の丸からのカラーリングだと私でも分かりましたし。

それを観るべく、我が家でも或る日、

父が電気屋を連れてきてテレビがついた次第です。

 

私のまちは、海まで歩いて15分ほどでした。

その岸壁あたりは、大きな工場がどんどん増えて、

煙突の煙でまちがうっすらと曇っていました。

丘の上からその手前を走っている鉄道を眺めていると、

汽車を先頭に、貨車は50両もあったこともありました。

 

当時の自分が、

そのころ世界でもまれにみる発展を続けている

日本という国のその現場である

京浜工業地帯のすぐ横で暮らしていたということは、

後年になって知ったことです。

 

横浜駅のまわりのいくつかの地下道には、

まだアコーディオンをひきながら

お金を乞う傷痍軍人と呼ばれるひとたちが

いっぱいいました。

足のないひと、手のないひと、

包帯を体中に巻いているひと…

暗がりからのぞく彼らの異常に白い目だけが、

いまでも私になにかを訴えてくるようです。

 

敗戦から十数年の1964年。

そんな時代に開催されたオリンピックは、

いろいろな意味での時代の転換点でした。

そこに意義のようなものをと問えば、

それなりの回答があると思います。

それも山ほど、あきれる程に。

 

ただ、時代の傍観者として、

こうした時代を振り返ると

万感の想いもある訳ですが、

結局、ときが流れていまがある、

としか形容できない気持ちが、

佇んでいるだけなのです。

 

それはなぜなのかと自問するも、

それが思い出というものだから…

とつれない訳です。

 

映画「この世界の片隅に」そして…

8月9日はとても暑い日だった。

長崎に原爆が落とされた日だ。

親父の命日でもある。

 

朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる。

逝ってしまって、もう16年たつ。

たどたどしくも、いちおう般若心経を読む。

これがウチの習慣のようなものになっている。

親父もこちらも救われる。

なんだかそんな気がする。

「世の中はいま激変しているよ」と、

話しかける。

そして日課の筋トレを始める。

汗がとめどなくしたたる。

 

日中、簡単な仕事をいくつか片付け、

運動公園を歩き、買い物をして帰る。

 

夜、録画しておいた

「この世界の片隅に」を観る。

2度目だけれど、

とても気になる作品だった。

初回では見逃していた、

新たな発見もあった。

 

しかし、それにしても

この映画は辛いなと思った。

やるせない。

切ない。

呉という港町へいってみたくなった。

そして、丘から港を見下ろし、

時代をさかのぼるのだ。

 

愛おしい日常

死んでいくひと

死んでしまったひと

生きてゆくひと

生きなくてはならないひと

運命のようなものがどうあろうと、

実はたいして変わりはしない…

そんな思考の麻痺がおこるほど、

考えさせられる内容だった。

 

戦争って、のちの平凡な日々、

そして未来のすべての事象を、

おおきく歪めてしまう。

 

映画を観ていてふと気づいた。

終戦の日の8月15日といえば、

親父は確か満州にいたはずだ。

ソ連はすでに日ソ不可侵条約を破棄して、

満州に侵攻していたので、

この頃、親父はもうダメだと思っていた、

のではないか。

 

それでもシベリアでの壮絶といわれた

抑留から、親父は生きて帰ってきた。

昭和23年、終戦から3年経っていたという。

そしてふる里を捨て、

もともと遠縁だった母と結婚し、

横浜の親戚の家に間借りし、

公務員として務めることとなる。

そして姉と私が生まれた。

そこにいったいどういう意味があるのか、

親父が生きて帰ってきたというのは、

ただの偶然なのか。

そんなことをいくら考えても、

いつもいつも分からない。

 

ただ自分が存在することで、

家族ができて、

こんなことをぐだぐたと書いている。

ただ、それだけなのかもしれない。

 

親父が晩年に建てたさいごの家が、

どんどん朽ちてゆく。

そして年々あなたの顔が表情がしぐさが、

記憶のなかでだんだん薄らいでいく。

私は老いてゆく。

 

ただ、時が過ぎてゆくばかり。

 

 

空のうた

 

空の写真ばかり撮っている。

いまのところ、

カメラ、アイフォン等に収めた、

空の写真の占有率は、70%をこえている。

一眼レフとかそういうのはメンドーなので、

いまではアイフォンでパシャパシャ撮る。

 

 

プロのようなテクニックがある訳でもなく、

アーティスティックな構図をマスターしたこともない。

ただ、好きなだけ。

それだけだ。

 

 

空を撮影する資格とか、

権利などというものは、もちろん存在しない。

プロのカメラマンしか撮ってはいけない、

この空は弊社の空です、我が国の空です、

なんていうのもありそうだが…

 

 

空は誰のものでもない。

そして誰のものでもある。

大きく捉えれば、地球の共有物。

 

 

空って、要するに自由の象徴なのだ。

 

 

 

空の写真を撮っていると、とても落ち着く。

リラックスできる。

いや、快い興奮と胸の好く感動さえ覚える。

同時に湧き上がるいろいろな事柄を、

ゆっくりと咀嚼することができる。

それはいいこともよくないことも。

 

 

撮影対象物とは別の、

もうひとつの心象風景のようなものが、

浮かび上がることもある。

 

 

そうした気持ちを携えて空を撮る。

 

 

写る絵は、色は、感情は?

それは空が勝手に描いてくれるので、

私は、チャンスのみにかける。

それだけだ。

 

 

そこには、過去の棚に置かれて、

いまはもう忘れてしまった、

忙しい日々には到底みえる訳もない、

とても大切な何かの断片らしきものが

写っていることがある。

 

 

それがおかしみなのか、

悲しみなのか、

とても懐かしいものなのか、

忘れてならない事なのか…

 

 

その何かを「どうぞ」と差し出してくれる。

それが空なのである。

 

 

 

 

今夜も妄想

 

そんなに楽しいもんじゃないなぁ、

人生って…

最近何故かそう思ってしまうのだ。

 

毎日がパーティーのような、

宴会のような…

 

そんな人生ありえない。

そもそもそういうのって

くだらないけれどね。

 

イマドキの世間をよくみてごらんって、

冷静な私が疲れた私に諭す訳さ。

若い頃は甘い未来予想図を、

少しは描いてはみたけれど、

これは人生をなめているなと。

 

一転して、

「荷を背負い山を登るが如く」と、

改める。

 

仕事に追いかけられたり、

金が途切れたり、

体がだるかったり、

それでも頑張って無理に笑顔で接してみたり…

まあ、苦労が絶えない。

 

が、生きるってだいたいそんなもんでしょと、

最近になって気がついた。

 

寝不足の夜更けの僅かな時間に、

往年の女優、グレタ・ガルボを観る。

ハービーマンのフルートを聴く。

 

仕事の合間をみて、河原へ焚き火にでかける。

写真を撮りにあちこち歩き回わる。

夕飯においしい肴にありついたりすると、

まんざら捨てたもんじゃない、

生きているって、なかなかいいじゃんとなる。

 

人生って実はとても単純そう、

がなかなか入り組んでいて、

一見浅いようで、

どこまでも深遠。

 

遂には、対極にある死についてさえ、

考えざるを得ない状況に出くわす。

 

生と死は一見、

こちら側、あちら側と分けることができそうだが、

これらが実は混在していて、

同じ世界の表裏に同時に、

いやそれさえ曖昧なまま、

すでに在るのではないか。

そう思うようになった。

 

最近、親しい友人ふたりがいなくなってから、

そうした想いがよりつのる。

 

あいつ等、どこかにいそうだ。

ホントは電話にも出そうだと。

 

まだ解決していない話がいくつもあるじゃないか。

しかしそれにしてもあいつ等、

最近何しているのだろうか?

手を尽くせばなんとか話せそうだ。

 

死して、相変わらず生きている。

そう感じて仕方がない。

 

 

さて今夜はデードリッヒの歌でも聴こうか。

そのうちグレタ・ガルボとも話せそうだし。

 

分かってくれると嬉しい。

生きているって、実は妄想なんだってことが…

 

 

 

 

 

丁寧に生きる。

 

まずコロナにうつらないように

あれこれ注意はしていますが、

一日の行動を振り返ると、

やはり万全とはいかないようです。

買い物にでかけて、人と距離をとるとか、

あまりモノに触らない等…

といってもやはりどこかに落ち度はある。

 

マイカーに戻ってひと息つく。

アルコールで手を拭く。

が、ドアの取っ手とかキーとかスマホとか、

いちいち気にするとなると何が何だか分からなくなる。

もしこうした「完璧清潔ゲーム」があったとしたら、

私はすぐはじかれてしまうでしょう。

 

むかし、潔癖症らしき人をみてたら、

トイレでずっと手を洗っている。

全然やめない。で、腕まで真っ赤になっているのに、

まだ洗い続けている。

首をかしげてなお眺めていると、

顔は真剣そのもの。

というより、何か邪悪なものでも取り払うためのような、

とても嫌な表情をしていました。

邪悪なもの、罪深いものが、手に付着しているとしたら、

私も真剣に手洗いをしなくてはならない。

しっかり手洗い―そんな事を思いました。

 

ウィルス感染の恐れと同時に、

経済の失速がひどくなってきました。

ウチの税理士さんは新宿区にオフィスがあるのですが、

先週の時点でコロナによる緊急支援策が、

顧客企業からの要請ですでに満杯だそうです。

しかしいくら急いでも実際に融資等が下りるのは、

初夏ということです。

これでは、とりわけ飲食などの業種は、

まずもたない。

政府及び財務官僚というのは、

街の経営者の事をどのくらい把握しているのでしょう?

溺れている人が沈んでから、浮き輪を投げる。

そんなものが助けになるのか。

とても疑問です。

 

私自身、1991年頃のバブル崩壊を経験しています。

このとき、やはり緊急融資のようなものが発表され、

私は、銀行・役所など各所をバイクで駆けずり回って、

書類の束を何日か徹夜して必死で仕上げて、

もちろん仕事をする時間も削って、

心身ともにボロボロになって

ようやく銀行に書類を提出したことがあります。

 

結果は、助けてもらえませんでした。

1円も助けてもらえませんでした。

これは事前に銀行の窓口で知ったことですが、

私の会社の書類を受け取った銀行員が言うには、

「書類を提出しても、きっと何も出ないでしょう。

カタチだけなんです。今回のこの支援策は、

そういうものなんですよ」

エリート然としたその男は、

私のすべてを見透かしたように、

うっすら笑みのような表情さえ浮かべていました。

 

これから失業者も相当な数で増える。

日本の自殺率と失業者のグラフをみると、

ほぼシンクロしている。

こういうのを経済死というのか。

とても嫌な未来を想定してしまいます。

 

とにかく世界は一変しました。

いや、さらに悪化の一途を辿っています。

 

朝、私は枕元に置いたiPhoneで、

だいたいイーグルスを聴いてから起きます。

朝は、たっぷりのカフェオレを、

ゆっくり味わうように飲む。

一日を通して、テレビはあまり観ません。

仕事の合間に、

筋トレまたはウォーキングは必ず。

夜は、気に入った映画をひとつ。

風呂ではひたすら水の音に集中します。

そして就寝前は、好きな作家の描いた世界へ。

 

なめべくまわりに振り回されないように、

マイペースを保つ。

自分の中に、日常とは違う別の世界をいくつかもつ。

 

誰かに教えられたことがあります。

丁寧に生きなさい。

ゆっくり考えなさい。

 

いまこそ実行しようと思います。

 

 

ここではない、どこかへ

 

人恋しくなると、

街へ出て雑踏にまぎれる。

すると、理由は不明だが、

とても落ち着くことがある。

 

小さいとき、

木の傍らにしゃがんで、

アリの行列をじっと眺めていた。

おのおの個性や違いなどというものは、

ほぼないようにみえる。

ある一匹が、取り立てて目立つことは

ほぼないに等しい。

 

雑踏にまぎれる行為も、アリの行列も、

どちらもその他大勢という括りで、

一応、アタマの中では整理がつく。

 

思うに、アリも一匹でフラフラするのは、

不安なのではないか。

人恋しいではなく、アリ恋しいか。

 

こちらも、きっとそんな深層心理から、

たまに雑踏へ出てゆくのかなぁ、

と思ったりする。

 

であるならば、

渋谷のスクランブル交差点の人混みも、

週末の新宿の混雑も悪くはない。

がしかし、それが通勤とかで

毎日となると話は全く違ってくる。

たちまち拒否反応が出てしまう。

雑踏うんざり、また街中嫌いとなる。

 

都心勤め5年で嫌気がさし、

のち出勤なしのフリーになった私が思うに、

何事も程々が良いのである。

そのあたりのさじ加減というのが

また結構難しい。

 

よって住むところ、

働くスタイルや場所というのは、

現役にとっては重要項目である。

いや、引退してからもつきまとう。

 

新宿のど真ん中のマンションも、

山の中の一軒家もゴメンである。

 

だってライフスタイルの問題であるからして。

 

いつも静かで広い空が見渡せる。

で、たまに街中に直行できて、

雑踏の人になれる、

そんな程々の場所が一体どこにあるのか?

そうした理想の地こそが、

私の終の棲家に違いないと

最近になって分かった訳。

 

首都圏のいなか。

地方都市の静かな住宅地。

具体的に、伊豆半島とか軽井沢、

八ヶ岳山麓というような都会風の別荘地。

はたまた、

瀬戸内海に面した陽当たりの良いところ、

沖縄県南城市(ここに友人が移住したから)、

札幌郊外とか、金沢とか…

いやぁ夢は広がりますなぁ。

 

とここまで書いておいて、

ふとあることに気がついた。

 

生まれてから、

約十数回引っ越している身として、

いまの場所に飽きているのではないかという、

自己に対する疑念ですな。

実は、ここではない、どこかへ、

を探しているのかも知れない。

 

都会とかいなかとか、

あれこれと御託を並べたが、

もっと根深い問題が潜んでいるような…

 

学生時代に書いたもののなかに、

えんぴつとノートとカメラを持って

世界をまわる、というのが幾度も出てくる。

 

ああ、そういうことかと気づいた次第。