震災後、風呂にゆったり浸かることもなく、
さっと出る習慣が身に付いた。
飯も素早く喰うようになった。
で、よく喰う。
寝る時間も長くなった。
明らかに太った。
自然に備わっていたカラダの危機管理システムが
稼働し始めたと、自分では考えている。
生き延びようとする本能。
このところは、喰う量も減り、
睡眠時間も短縮され、
風呂も少しのんびり入るようになった。
が、カラダは元にもどっていない。
腹の肉をつまみながらベッドにごろんとしていた先日、
ふと、くうねるあそぶ、というフレーズが頭に浮かんだ。
くうねるあそぶ?
ん、これはコピーライターの糸井重里さんが80年代の
クルマのコマーシャルで披露したコピーだった。
くうねるあそぶ。
要は、喰う、寝る、遊ぶ、だ!
それをひらがなにしてコピーにした。
いまでは信じられないが、こんなコピーが、
当時の一世を風靡した。
この頃、イメージを重視したコマーシャルが、
主流だった。
ビジュアルは、
クルマに乗った井上陽水さんが笑いながら
「みなさ~ん、お元気ですか~」と言って走りすぎてゆく、
というだけのもの。
他と較べても、このコマーシャルは、
相当ぶっとんでいたと思う。
クルマと、喰う、寝る、遊ぶ?
近いような気もするが遠いとも思う。
イメージとしても、高級そうでもなく、
早そうな感じもしない。
まして、キャンピンカーでもない。
こんなコマーシャルがヒットした80年代は、
要するにこういう呑気でいい時代だったのだと、
最近、私は身に染みて感じている。
いま、遊ぶはとにかく、
喰うことと寝ることは、まさに生きる術、
それが実感できる時代なのだ。
花よりだんごの如く、
見栄えではなく、実利を採ることを最優先する。
生きているものは、もちろん、みんな生きようとするものだ。
よって、イメージではなく、喰う、寝るだ。
あと、住むところがあるか否かという切実な問題。
仕事をなくした方たちも、このままでは立ちゆかなくなる。
喰う、寝るがひとまず落ち着いたら、住むことも考えなくてはならない。
そして、働かなくては生きてゆけない。
震災後、AC(公共広告機構)のコマーシャルが頻繁に流れた。
人を思いやる心の啓発とか、挨拶の重要性を説くもの、
世界の人たちが日本を応援するというもの、等々。
一連のコマーシャルは、昔でいえば、道徳の教えだ。
こうしたものの良い悪いは、あまり考えたくない。
こんな希に起こる災害時に頼れるものは、
人の道徳心なのかも知れないのだから…
また、不況という時節柄、もう何年も前から、
広告というものも様変わりしていた。
簡単に言うと、広告にリアリティが求められる。
数字、裏付け、ユーザーの歓びの声など。
そして、メリットの最大拡大表現なども、
通販の国、アメリカから輸入されたのテクニックだ。
ネット時代に、通販のテクニックは相性がよい。
で、アメリカのマーケティングが日本に上陸、
いまの日本の広告文化を形づくっている。
ここで私が率直に思うのは、いまの時代の広告は、
かなり神経質で細かい。
電卓を片手にコピーを書かなくてはならない、
ような気分にさせられることもある。
で、ダイナミックな表現もない。
併せて、詩のような美しさも消えた。
私は、広告は文化だと思う。
この異常な事態に文化もへったくりもないが、
いつか、文化が語られるときがくる。
今回の震災を機に、私たちは日本という国、
日本人という人の本質も考えたことと思う。
政治の限界もみた。政治家の器もみえる。
官僚のやることも、なんとなく見透かしてしまった。
世界のなかの日本という立ち位置も、
改めて教えられることとなった。
これからの日本は、軍事でも経済でもなく、
やはり人が築き上げる文化なのではないかと思う。
文化には、メンタリティが欠かせない。
メンタリティは、人の心がつくる。
そんなとき、人はアレコレ想像し、創造する。
次の時代をつくる原動力は、何にも増して
精神力は欠かせないのかも知れない。
が、貧困な精神では立ちゆかなくなる。
この国のこれからをイメージする力。
それは経済的にはちょっとお粗末でも、
気持が豊かであれば、限りなく広がるものが、
イメージの力なのだ。
