ひまわり

何故

あなたでなければダメなのだろうと

アタマを冷やして

考えてみる

行きがかり上だよって

つぶやいてみる

でも

思いつく他の誰かを

幾つもの生活のなかに溶け込まそうとしても

無理があるのは

オレの想像力の限界なのか?

時計を逆回りにしてみても

ホントは何も変わらないんじゃないか?

みんなそう信じて生きている

だから愛っていうのは

喜劇なんだ

あなたでなければダメなんだという気持ち

だから

愛っていうのは面倒くさくできている

だから

愛っていうのは

切ない

切ない

悲劇なんだ

お家へ帰ろう

景色が泣いていたら
ひとりぼっちの証拠だ

心は嘘をつかないし
あなたを映し出す

孤独が好きだと
いつか想った

ひとりは気兼ねがなくていいねと
話したこともあったっけ

でも
どこまで歩けるだろう

ときどき感じないかい?

気持ちも一緒だったらって?

喜んでくれるひとがいる

悲しんでくれるひとがいる

ただそれだけで

人生って奴は

豊かに実るもの

さあ

笑って笑顔で

お家へ帰ろう!

私を育ててくれた?会社

私も最初から会社を興した訳ではなく、
コピーライターとして幾つかの会社を渡り歩き
育ててもらった。
そのなかで、とてもユニークな会社があったので、
ちょつとご紹介しておこう。

その広告制作会社は表参道にあり、取引先も一部上場の会社をはじめ
名だたる企業がクライアントだった。

いま考えると不思議なのだが。

私は制作チームにいた。
コピーライターとデザイナーは、部屋が分かれている。
お互いに用のあるときは、自らラフを持ったりして相手を訪ね
喧々囂々やり合う、と言いたいところだが、
何故かこの職場に気難しい奴はひとりもいなかった。

その頃、「気まぐれコンセプト」という本が売れていた。
広告代理店を舞台にしたマンガなのだが、タイトルどおり
かなりいい加減な会社が描かれている。

私のいた会社が、まさにそういう会社だった。

夏のある日、気温がガンガン上昇していた昼下がり。
私は食後ということもあって、眠気を催していた。
やる気がでない。と、ふと隣をみると
コピーライターのE君が、いきなりお香を焚き
何かを唱えだしてた。
彼のデスクには、白紙の原稿用紙が置かれている。

わぁーと思って席を立ち、隣のデザイナーの部屋へ行くと
ロックの音楽が大音響で鳴り響いていた。
「うるさいな」とわめきつつ、ヘッドチーフデザイナーと
午前の案件の話をしようと思ったのだが、彼がいない。

その部屋の入り口には、通勤に使われているサイクリング車が
2台置かれていた。世田谷から通勤しているデザイナーのものだ。
このふたりは、いつも遅刻していたように記憶している。

さてヘッドチーフだが、灼熱の屋上にいた。しかも短パンひとつの
裸。カラダにオリーブオイルを塗り、甲羅干しをしている。
ラジカセからレゲェの呑気な音楽が流れている。

結局、私も服を脱いで甲羅干しをすることになるのだが。

で、経理の女性を除いて、この会社はほとんどいい加減な人間で
構成されていた。

営業のB君は、なにかにつけ意味不明な用をつくり、愛車のアルファロメオに乗って
どこかへ出掛けて行った。帰社はいつも夜中。
何処で何をしていたか?なんて聞く人間は、誰もいない。

上司は上司で忙しいのだ。と言っても、自らの離婚問題やサイドビジネスの
ねずみ講のようなものにはまっていて、仕事どころではないのだ。

ある時私は難しい案件に悩まされ、最後の手段と思い、社長を尋ねた。
この人は、早稲田を出て、広告界では天才肌と呼ばれている凄い人だった。
彼はコピーも書き、一瞬にしてラフも起こしてしまう。
結果、ほほぅと唸るような広告の素ができあがる。

マルチな才人だった。

私がある案件について、コピーの表現方法が分からない箇所を
社長に相談しようと話しかけた。
社長曰く
「いま僕はモーレツに忙しいんだよ! 君と話している時間は30秒しかない」
と言ったと同時に私のラフに目をやり、殴り書きをして何処かへ消えていった。

まあ、よくよく後で考えるとこういうキャッチフレーズに落ち着くんだろうな
と納得できたが、社長はすでにその頃、仕事に意欲を無くしていたらしい。

じゃあ、何に忙しいのか?

笑っちゃうのだが、結局この会社は最後は潰れた。

社長は、その頃流行の「愛人バンク」なるものにはまっていたのだ。
若い女性に夢中になり、ほぼ骨抜き状態の社長が会社を経営していたのだ。

いま思えば、あの会社のダルい感じは、社長自らが醸し出す空気なるものが社内にまん延し、
社員の一人ひとりに伝染していったものなのだろう。

経営的にみれば、いま考えても恐ろしい。

私としては、後学のいい勉強にもなった。

しかし不謹慎だが、ああいう会社が存在していたこと自体が不思議だ。

いまでも時々思い出すのだが、やはり笑っちゃうのだ。

希望の詩

下弦の薄明かり
三日月の下

とぼとぼと人が行く

空には星の如く
飛行機が光ってやがて小さく
消えてゆく

何処へ?

すっと目線を上げれば
山々は遙かにたなびき

揺れて流れる雲海は
海の底に落ちてゆく

すべてが何をめざして
なぜ存在しているのかと思う

心を静寂にして想えば
知れども知れども
底なしの淵に沈み

やはり見えないものは
自分の内の行方なのか

いまだ消えない炎のように
誰も知らない秘密のように

月は東へ

悠久といえども
たったひとつの物語り
永遠といえども
限りある命

やがて月は
麓に下りれば

総てが時の溜まり場となり

そして陽は昇る

それでも
また陽は昇る

あの春の日

横浜駅より、JR(当時は国鉄)でふたつ目の駅あたり。
私が生まれ育った町だ。

いまではかなり都会だが、
昔は山あり田んぼありで
自然も満喫できた。

春も真っ盛りになると、
あぜ道にノビロという草が生える。
これを採って家に持って帰ると、おふくろは喜んだ。
なにしろタダで手に入るし、美味い。

水路にはタニシがいて食用ガエルも泳いでいた。
ヘビもカエルもバッタもモンシロチョウもみんないっぱいいた。

レンゲの花があぜ道に咲き誇っている。

周りの景色が綿菓子のようにやわらかい。

と、想い出をここまで書いたら郷愁が迫り、
少し悲しくなってきた。

みんな何処へ行ってしまったのだろう?
あの、私がいた時間は本当に存在したのだろうか?

私の記憶の断片は、ひょっとすると私のつくりものなのか?

自信がない。

いや、その風景は確かに存在した、と思う。

あんなに美しい春の風景は、私には描けない。

私の記憶の断片は、あの春の日の一日を描いている。

春は、だから私は桜ではなく、田園の春を思い出す。

私の春の原風景だ。

私は姉に連れられて、あぜ道を歩いていた。

私も姉も、ふたりしてニコニコしていたような気がする。

笑顔しか出てこないのだ。

私が足元に咲いている赤い実を摘もうとすると
姉が「だめっ!」と慌てて言う。

毒があるからダメなのだ。
その実はヘビ苺と言い、最近は見かけなくなったが
毒だらけなのだ。

その事の真意は、実は私はいまだに知らないでいるが、
ホントだと、いまでも思っている。

霞がかかった暖かい景色の中を、姉と私はずっと歩く。
やがてあぜ道が終わると、こんもりとした緑に覆われた森が表れる。

神社は、森の中程に隠れるようにして、鎮座する。

鈴なり神社。みんなはそう呼んでいた。

夜中に、誰もいない境内に鈴の音が聞こえるから、鈴なり神社。
ちょっと怖いのだ。

陽の高いうちは、みんなそこで遊んでいた。

姉は友達をみつけると、ゴム跳びの仲間入りをした。

私はいつもの缶蹴り仲間に入ろうと思ったのだが
その日は、
なだらかな斜面の中ほどに咲いている花の色に
目を奪われてしまった。

「ちょっと待って!」と言い残して、私はその花に近づいていた。

花は、太くねじ曲がったトゲのある枝に、たっぷりと咲いていた。
だいだい色をした、とても気になる美しい色だ。

私はこの木を引っこ抜いて、どうしても持って帰りたくなった。

最初は手で土を掘るのだが、トゲがあるし、根っこがみえない。

性がないので、近くに落ちていた木片をシャベル代わりに
周りの土を掘る。

しかし、掘っても掘っても根に辿り着かない。

なんだ、この木はどうなっているのだ?

私は、全身に汗をかいていた。

仕方なく、木片でトゲを削って、枝を力任せに引っ張る。
体重をかけて引っ張るのだが、枝はビクともしない。

疲れ切った私は座り込み、しばらく花をじっと見ていた。

その花は小さいのだが、花びらは厚く、とてもしっかりとしていた。

当時の私にとって、このだいだい色は、かなりめずらしい色だったらしい。

ほんわりとした春の日に咲く花。

あれから今日まで、あの花は数度しかお目にかかっていない。

それは、野生のボケの花、と後で知った。

季節も、そろそろ冬が終わろうとしている。

春になったら、私も田園地帯をめざそうと思う。

しかし、あの頃の田園風景は、もうどこにもないのではないのか。

記憶の中にしかない春なのではないのか?

せめて、花屋さんに行ってみよう。
造園にでもでかけてみようか?

もう一度
この眼で、ボケの花がみたいのだ。

愛のままで

夜更けにヨーカンをつまみながら
この曲に辿り着いたのだが

聴いてぶっ飛びましたね。

ほほぅ、ふんん、なるほど、うむむむ

気がつくと正座です。

シャキッとしております、私。

ヨーカンを食い過ぎると、またメタボが進行するのでヤメっと

自分にビシッと言い聞かせたのであります。

このおばさんは、真剣であります。

愛の唄です。

人間、生きていれば、その意味を問うこともあるでしょう!

何故生きているのか?

しかし、奥さん(?)に愛され
死ぬまであなたといたいわ!
愛し愛され生きていきましょ!

なんて言われるおっさんが
この世にどの位いるのか?

そのとき、なんと奥さんは言った!

「生きている意味を求めたりしない」

愛し愛されていればそれでいい、とね

これはオトコ冥利に尽きる殺し文句だな。

壮年になり、これからの老後をどう生きるかという

難しい年頃に、こうゆう殺し文句を

奥さんに言わしめる旦那さんは

あなた、あなたですよ!

相当の幸せ者ですよ?

まあ、奥さんがいろいろ大変なとき

あなたにはいろいろ助けてもらいました、なんて。

それだけじゃ、ダメ!

この唄は、愛なんだ!

覚めない愛、みつめなおす愛、熟愛?

愛は永遠? 愛は振り返らない?

この唄を聴いたおっさんは湯呑みでお茶をすすり

物思いにふけながら、じっくりぼぉーと考えるのであります。

「やべぇなぁ、これからの老後!」

生きているって何?

寒い寒い冬の真夜中に
コーヒーをのみながら
ふっと考えてしまったよ

生きていることに意味はないんじゃないのかい、と

ただ生きていれば、カラダのあらゆる器官が
いろいろ動いてくれて考えてくれる

泣いたりもするしケラケラ笑ったりもする
嫉妬という複雑系の動きもするし
思索となるともっとこんがらかり系だな

恐怖にかられる、夢を見る
そしてユメミル!

過去を思い出し
先を考え
現在を生きている

そのことにきっと意味はない

隣で飼われている犬だって
ときどき哲学者風に気むずかしい顔をしている

夕べ、魚を焼いて食べたが
鰺という魚に生きている意味があった

それは「美味い」と言ったら失礼か?

幼いときに雨蛙を飼ったことがあるが
カエルさんの表情にボクはドキドキしたな

意味ありげに座り込む彼は
喉のあたりを頻繁に動かしながら
やっと生きていたのを
現在でもクッキリと覚えている

みんな生きているんだなぁ!

死んじゃったらお終いだよ

生きていることに意味はないが
死んじゃったらお終いだよ

なんで?

死んじゃったらお終いじゃないよ

僕らは生き続けるんだぜ

僕らは生き続けて
他の世界に行くんだ

もうここにはいないけれど
生き続けているんだぜ

それはいろいろな人の
沢山の人の胸のなか
想い出のなかでも生きている

生きていることに意味はない?

でも生きている

生きているってなんだろう?

考えてみても別に意味はない

ただ、こう思わないと
とても悲しいんだよ

なんの偶然か知らないけれど
みんな生まれてきたんだ

そこに意味はないのかい?

生きていることに意味がある?

うん
君もボクも何で生きているのか

それを探す日々が
きっと
生きていくってことなのかな

死んでも無にならないって思いたいことが
生きていることなのかな?

生きている
生きてきたって

きっと
こんなことなんだろうな

もうすぐ夜明けがきて
辺りも明るくなる

コートを羽織っておもてにでも出てみようか

今朝も寒そうだ

きっと庭の花水木の木も
強い風に冬の枝が揺さぶられて
最後の赤く枯れた葉が
枝を離れてふわっと飛んでゆくよ

阿知山にまた陽が昇る

ホワイトルーム

15年前に
この部屋を出てから
オレは
この部屋の夢ばかりを見ていたような気がする

あるときオレはヘルシンキにいた
ホテルの部屋の居心地の悪さに
ふとこの部屋のことを思い出した

オレンジ色の暖かい部屋
太陽の陽がさんさんと降り注ぎ
カクテルグラスのなかにまで
透けるような虹がかかっていた

翌年
ケープタウンで泊まった宿は
土色の壁がむき出しで
心もカラダもぐったりしていたので
つい
この部屋の心地良さを思い出していたっけ

心おちつくこの部屋は
白壁が美しく光り
お前とオレは
水色のテーブルクロスの上にビールとクッキーを置き
ロックのリズムに合わせて戯けていたのが
昨日のようだと思った

そして数日後
お前はこの部屋にさよならを告げたんだ

モスクワは
寒いしんしんと寒い
雪景色を眺めながら
オレは
ホテルの部屋の黄色いマントルピースに
かじり付いていた

相変わらず
オレの部屋は無人で
それでも心のなかでジャズは流れ
オレの気持ちは
しっとりと安らいでいたっけ

甘い甘い部屋
幻の白い部屋

夢のなかで
夢のなかで
それはいつも
夢のなかで

白い天井
白い壁
白い床

何もかもが
それは
白い誘惑

何ものにも変えがたいこの安堵感は
オレに届く
太古の自分よりのメッセージなのか?

やすらぎに愛をもう一度!

そう
この部屋からやり直せば

きっと再び

愛がはじまる

神様、仏様!

謹賀新年

正月なので初詣に行かれた人も多いだろう。

私も元日に氏神様への初参りを済ませた。

こんな折りに相応しい話をひとつ。

私の家では
毎日、朝一番に起きた人間が、
まず石けんで手を洗う。
そして、仏様と神棚に上げる水を汲むのが
習慣だ。

そう書くと、なんだかコイツ信心深い奴だなぁと
セセラ笑いが聞こえてきそうだが
これがウチ流だからしょうがない。

いつ頃からそうなったかは定かでないが
もうこの手順を踏まないと気持ちが悪い。

パンツをはかずにジーパンをはくようで嫌なのだ。

じゃあ、なにか信心でもしているのか?
と聞かれても、残念ながらなにもしていない。

また、私は地方に行くと、知らない神社や寺の境内で
昼寝をする。これはもう私の趣味で、こんなに
落ち着く趣味はそうそうない。

一度、プロの方にアタマのマッサージをしてもらったことが
あるが、あの心地良さによく似ている。

じゃあ、核心に入ろう。
神や仏はいるのか?という延々とした話だ。

私はいる!、と思う?。と考えている。

何故か?

私はこれでも、かなり場数は踏んでいる。
といっても、話は占いから入る。

ニセ占い師から凄い的中率を誇る占い師まで、
はたまた霊感の強いといわれる方から
霊能者と呼ばれる方々まで
私は、延べ50人位の人と会ったり電話で話したりした。

それらのメモを何度も読み返すのだが
彼等のなかには、私的な質問に関することでも
何の前情報もなしに発する言葉が、
何度となく的中することがある。

こちらの話はとても私的で秘密理である場合でも、
返ってくる言葉はほぼ皆同じ、ということが多いことに
驚く。

また、何かを言い当てる、はずれるではなく
体験として語ってくれる話のなかにも共通項は
みられる。

例えば、葬式の席に、当の昔に亡くなった人が
弔問に来ていた、そしてその人は周りから浮いて見えた
ということも、多くの人から聞いた。

これが神だ仏だと言っても、話がずれているのは分かっている。

話は、あの世とこの世の話に移ってしまったか?

しかし、私自身の実体験として、香りというものがある。
これは、あるときから、いや義母が亡くなった前後なのか?
いまでも、ふっと鼻先にいい香りがすることがある。

百合の花の臭いのような、
昔の女性がつけていた白粉のような、
いや、なんとも香しく甘い香りが漂うことがある。

これは、早朝、そしてもの思いに耽っているとき、
クルマの運転をしているときなど
場所や時間に関係なく漂ってくるから不思議だ。

ただ、私自身がリラックスしているときほど漂ってくる。

この事を、或る霊能者の方に聞いたら、当然の事象のように言われた。
これが進むと(?)音が聞こえ、
映像として見られるようになるらしいのだ。

これは、トト神という神のなせるものだと言う霊能者もいた。
(トト神という神様を調べたが、私にはよく分からない)

また、お経や仏典、とある宗教の教典にも不思議に思うことがある。
これらを幾つか読んだことがあるが、これはもう、
人間が人事を尽くして書いたものではないということが
明らかに分かるものがある。
つくり話としてここまで書くのは不可能という代物が幾つもある。
こうしたものは、それなりの人物がどこからか
「下りてきた」ものを書き写した、
としか言いようがない。

さてしかし、こんな格言もある。

「私は人生に挫折するたびに何度も神に祈った。
しかし結果は哀れなものだった。
だから私は生涯神を信じないのだ」
これは、とある科学者の格言だ。

こんなのもある。

「人が何人も戦争で死ぬ。歴史上、そのほとんどの原因が
宗教なのだから、私は神を信じない」

また、テレビでお馴染みの大槻教授は、まがい物が大嫌いな人だ。
その武器として、科学の理論を駆使する。

これもひとつの手ではある。が、その裏もある。

それは、科学が万能ではないということだ。

科学は、この世の或る一部分の真実を解明しているが
その他の無数の事実は解明できていないのが現実だ。

それは、この世の事象が
科学で説明しても限界があるということを
端的に言い表しているし、
事実そうゆう事象は、数知れない。

また、山羊さんの手紙のような伝言遊びではないが、
真実は伝えてゆくうちに尾ひれがつき、
最後は全く異なる話になっていることが多い。

宗教なども、
歴史のなかでねじ曲がって伝わってしまったものもある。

権力者により、意図的に利用されたものも多いだろう。

いまマスコミを賑わしているイスラム過激派というのも
実は、イスラム教の教えを守っていなのではないか、と思う。
もともと、アラーの神は
もっと穏やかな言葉を残していると思うのだが。

さて
この話はどこまでも続くが、
今日はこの辺にして
素敵な言葉を紹介しよう。

かの哲人キルケゴールは言った。

「たとえ世界の終末が明日であろうと
私は今日リンゴの木を植える」

これは、人々の生に対する希望なのか?

はたまた

神への祈りなのか?

ホテル・パシィフィック

編集者時代、湘南を取材したことがある。

私は学生時代から遊んでいたところなので

先導役となった。

しかし、取材となると知らないところが多いことに気づく。

学生時代は、浜で遊んでいるだけ。周りのことには無関心だったので

ちょっと恥をかく。

鎌倉の名月院で、蕎麦をいただく。

紫陽花がきれいな季節だった。

北鎌倉という場所さえ把握していなかったから、いい加減なものだ。

材木座を左に進み、逗子の渚ホテル。ここは、いまはもうない。

当時は海岸線沿いにひっそりと建ち、いぶし銀のようなオーラを

放っていた。

時の重鎮が常連客だった。昭和天皇もお泊まりになったとのこと。

作家の伊集院静もこのホテルを常宿としていたと聞く。

ここのスウィートで一泊させていただいたが、庶民には居心地が良くない。

ここから134号線を江ノ島方面に走れば、七里ヶ浜、鵠沼を過ぎて

茅ヶ崎へ入る。

いまはないが、チサン・ポイントというのがあって、サーファーのメッカだった。

海岸線に下りてサーファー君たちに取材をしていると、なんと私の後輩が

波乗りに興じているではないか!

ひとが仕事をしているのに、コイツはなにやってるんだ!と怒っても

しょうがない。

カメラに収めてあげて、コメントをとる。

「先輩、なにやってるんすか?」

「うるせーなー」と私。

さっさとその場を去り、サーフショップ「ゴッテス」へ。

ここのオーナーは、湘南サーファーのカリスマ的存在。

ユーミンも若かりし頃、よく来たという。

その頃、オーナーは赤のトライアンフのオープンが愛車。

洒落ているな、とつくづく感心したものだ。

白髪のサーファーが海を眺めている姿は、サマになるなぁ。

で、最後は近くのホテル・パシィフィック。

老朽化がすすんでいて、しかし、佇まいは優雅で風格がある。

上の展望レストランは、伊豆方面まで見渡せる素晴らしい景観。

カメラマンがバシバシとシャッターを切っていたのも、今は昔。

このホテルも程なく取り壊され、いまは何が建っているのか?

先日、この辺りをクルマで通ったら、パシィフィックという

ラブホテルがあったので、笑ってしまった。

ホントは悲しかったのかな?

湘南も、行くたびに変わるなぁ。

私の想い出が

ますますカタチのないものになってきた。