俺たちのロック

タバコの煙は

行く宛てがある訳じゃなく、

ただ漂っていたって

悩みも消えないだろ?

だから逃げてゆくのさ。

きっと、そういうことなんだ。

首に手を当ててみなよ、

ナマ温かくてドキドキしているだろ?

そう、生きていて、

嘆いても嘆いても生きていて、

それは、今更しょうがないことなんだ。

きっと俺たちは、

空っぽの部屋で生きていて、

だから、俺たちも空っぽでさ、

空っぽの時間をさすらっている。

だから、掻き鳴らす、

狂ったように叩く。

きっと

肉体っていう奴を、

人は、大昔から憎んでいたんだよ。

だから酒を煽る、

煙を飲み込む。

辛さも何もかも飲み込み、

胃の中でかき混ぜ、

今日も明日もそうやって

彷徨っているのさ。

だから、一人で遠くを見ていると、

風の中で笑っていると

雨の日に泣いていると

ただ、次第にむなしくなるのさ。

生きる価値があるかないかってこととか、

昨日とか明日とかって本当にあるのかとか、

ホントはお前は誰なんだと鏡に話しかけたり、

そうやって自分を疑い続ける…

生き物はね、みんな浮き草で

宇宙のゴミみたいで、

みんな生きているのに、

その理由がなにひとつみつけられなくて、

死んで未練も残せないほどに忘れられて…

さあ、

バイクで200キロオーバーはどうだい?

やってみるかい?

走るかい?

粉々になるまで突っ走れば、

心を置き去りにできるし…

いや、それとも飛び降りてみるかい?

きっと、その脳とやらに、

永遠にさよならできるぜ!

どうだい、

そうやって生きてみると、

やがて光がみえることもある、

らしいけれどね…

AKBというビジネス

「会いに行けるアイドル」なので、他のスターより敷居が低い。

まずここが、AKBのポイントなのだろう。

アイドルをつくるほうも、その方が簡単につくれる。

で、アキバだ。

アキバ辺りをうろついているオタクが飛びつきそうな女の子は、

かなり以前からテスト済みだったらしい。

(地道にライブをやっておりました)

というか、フツーの女の子か?

それがいまや、破竹の勢い。

オタクだけでなく、国民のアイドルにまでのぼり詰めた。

正直にいうが、私からみるとどうでもいい女の子の集団が、

テレビのなかを、学園祭のノリで飛んだり跳ねたりしているだけ。

それがいいらしいのだが(怒)

メディアは、なんのためらいもなく、

連日AKBえーけーびーを露出させて、連呼する。

これでは、誰でも巻き込まれるわな。

この点が、実は問題なのだが…

そういうもん?

そういうもん!

下世話なテレビの面目如実だ。

素人の時代をつくりあげた秋元康という人は、

過去にも「おにゃんこ」をヒットさせている。

で、AKB。

柳の下にどじょうは二匹いたのだ。

おおむね、プロデュースというのは、

その人の趣味趣向からはじまると思う。

秋元康という人は、元々オタク的視点をもっており、

そのメガネにかなう女の子を集めて、

カタチにしたかったのだろうと想像する。

実際、彼は元おにゃんこの一人を、奥さんにしている。

趣味と実益を兼ねた彼のビジネスは、

ではどのように肥大化したのか?

「会いに行けるアイドル」は、

地道にライブをこなさなくてならない。

でないと、会いに行けない。

ということで、当初より彼女たちの活動は、

相当活発だったという。

「握手会」を頻繁に開いていたのも、

うなずける話。

その下地はしっかりつくった上で、固定ファンを徐々に増やし、

アンダーな活動が少しづつヒノメをみるようになると、

ここからはもう、メディアに取り上げてもらえば、

ネタはなんでもいいのだ。

要は、AKB選挙にしろ卒業とかスキャンダルでも、

話題があることが大切なのだ。

他のスターと違い、AKBはつまらないことでは挫折しない。

なんたって、普通の女の子の物量作戦だ。

玉はいくらでもいる。

一人くらい消えたって、入れ替わったってなんともない。

というか、それが「ウリ」なのであり、

AKBは、常に進化することが大事なのだから…

着せ替え人形のような彼女たちは、

プライベートも本音も吐き出すことで、

またさらに新しいスター像を披露し、

そして浮かんだり消えたりする。

いわば、泡沫のような存在なのかも知れない。

また、人の好みはさまざまなので、

一人くらい好みの子がいるだろう?という仕掛け。

そういうもん?

そういうもん!

だいぶ前に、

インドネシアのAKBみたいのがテレビに映っていたので、

ほほぅと驚いた記憶がある。

まあ、名古屋や大阪や福岡のほか、このビジネスモデルは、

どんどん増殖しているので合点がいったが、

要は、フランチャイズなのだ!

コンビニだ。ファミレスなのかも知れない。

同じシステム・スタイルを広げて増殖し、社会現象になり、定着する。

そういう意味で、AKBはセブンイレブンでありローソンであり、

ファミマであり、マックでありスタバであり、

夢庵であり、ココスであり、オリジン弁当であり牛角なのだ!

本部(秋元康)は、新規顧客にノウハウを提供し、

その看板料をかすめとる。

いや、ロイヤリティか、失礼!

このビジネスモデルは、以前、海外でも報道された。

確かニューヨークタイムスだったと思うが、

そういう意味で、このビジネスはメイド・イン・ジャパン。

秋元康という人は偉大だ。

世の中は、勝てば官軍なのだ!

まずある違和感から始まり、それに慣れ、

いつのまにやらフツーになることってあります。

韓流もそうなのかも知れないし、

東京スカイツリーも同じ。

AKBは、まさにその王道です。

文化・風俗はいつの時代もまず違和感、

そして知らず知らずのうちにすっと入り込み、

馴染み、そして市民権を得る。

それが良いのか悪いのかは分からないが、

時代はいつも、

このように動いてゆくものなのかも知れない。

まだ眠っているような居間に降りて

とびっきりうまい炭酸水をひとくち

遠くに響く空のうなりは

朝のほんのひとときの

空のあくびだ

家電の小さな騒音に

世界は動いていると確信し

なにも思うこともなく

空気でも眺めるように

ぼうっとする時間が過ぎ

炭酸のはじける音に

耳を傾ける

こうして朝は始動し

夕べの夢は彼方へ消え

朝陽がすっと入り込み

スムースにジャズは流れ

野鳥が庭の花をついばみ

人の足音が朝の正しさを刻み

遠くの国道が騒がしくなり

やがて

家人が蛇口をひねり

とんとんとなにかを刻めば

僕の朝の第一章は終わり

もう二度と訪れない

今日という

かけがえのない日が始まる

ノマドでクラウドな生き方と仕事スタイル

ノマドは遊牧民、クラウドは雲。

固定の場所に住み着かない生き方で、

遊牧民は、自由に住み処を変える。

仕事も同じ。

固定のオフィスに毎日通わない、

また、そこに縛られることなく、仕事をする。

例えば、それは街の喫茶店でも公園でもOK。

大げさにいえば、この日本にいなくても良い。

連絡手段は、スカイプなんかが適当だ。

通信費はタダだし、音も安定している。

そんなとき、情報や書類等は、ネット上に預けておく。

身近なもので、ストレージサービスがある。

どこでも、IDとパスワードで、書類を引き出し、

そこで作業ができる。

iPhonやiPadとか、アンドロイドがあれば、事は足りる。

何もない場合は、ネットカフェからでもOKだ。

あとは、こうしたスタイルに適した仕事か否かということ。

私の場合を言わせてもらえば、まあ半分ほど一致している。

で、ノマド化、クラウド化は進行中だ。

せこい話だが、問題はバッテリーの消耗。

私の場合は、何処でもネットに繋げるよう、

iPadにWi-Fiルータを使っているが、ルータの持ちがせいぜい4時間。

電源の確保が必須だ。

クルマの場合は、シガーソケットから、

手持ちのパソコンは、USBから電源が供給できる。

旅行に行ったときなど、

私は、ホテルの部屋に入るとまず、コンセント探しをする。

都会にいる必要性とか、ラッシュに揉まれる毎日、

そして、渋滞のストレスと時間の無駄…

この辺りを解消する術が、ノマド&クラウドスタイルだが、

こうしたスタイルを実践している方たちは、確実に増えている。

が、古い体質の企業などでは、管理する側からいえば、

こうした方たちが気に入らないだろうね。

働いている姿を監視ができないと不安になる。

働かされている方も、同じ。

マゾっぽく机にしがみつく習性が残っている方も、

いまだに多いことだろう。

しかし、時代は確実に動いている。

見せかけの生き方や仕事は、いま綻びつつある。

勘で申し訳ないが、居住も仕事も、これからは全く違ったものが

脚光を浴びるような気がしてならない。

例えば、がんじがらめのローンを組んでマイホームを建て、

そこに束縛されて住み続けるというのがいまの主流だが、

これは誰かの策略なかと、最近思うようになった。

これからは、各地を転々とするのも悪くはない。

極端なことをいえば、昨日は東京にいたが、今日は沖縄、

で明日はロンドンなんていうのもアリ。

季節や数年ごとに住む処を変えている方も、実際にいる。

住所不定で一見怪しいと思われるも、

こうしたスタイルは、人を自由にする。

生まれ育った処にずっと住み続けている、

地元が大好きでなんら不満はないという方は、

その価値観に従えば良いと思う。

が、諸事情により、そうでない方が多いのも事実だ。

私事だが、いま自分のふるさとが何処なのか、

よくよく考えると分からない。

こうしたとき、私は、脳のソフトを入れ替え、

新しい価値観に準ずることにする。

こうして、ノマド&クラウドな生き方は、

ライフスタイルを変えることができる。

自分で生き方や仕事を考え、見通し、自分の力で

生きていかなければならないこのスタイルは、

必ず結果を出す必要がある。

でなければ、

経済的に立ちゆかなくなることは目にみえている。

結果が出さなければアウトなので、自ずと能動的になる。

このスタイルは、その位の刺激がある。

自由に生きるには、パワーとエネルギーが必要だ。

そして、自由と厳しさは、裏腹だ。

上辺だけを掠め取って、いい加減に始めると、

このスタイルは火傷をする。

私も多少の火傷をしている(笑い)が、

次第に、そんな時代になりつつある。

最近気になった4話

食生活について

なんでも喰うのが良いと思う。

よく、野菜が体に良いとか根菜類が良いとかいうが、

そんなもん喰いたくても喰えない。

そんな場面や環境も多々ある。

忙しいとか、独身男子の場合もそう。

で、思ったんだが、例えばセブンのおでんとチキンと

おにぎりを買ったとする。

これを、家でじっくり煮込んだおでん、とても良質の油で揚げた、

地鶏のチキン、無農薬で育てたお米で握ったおにぎり、と

アタマで変換するのだ。

うまいうまいと喰う。と、とても体に良いのではないかと考えた訳。

だめかな?

また、チョコとかアイスの場合。

この甘いのは、疲れていてしょうがなく喰っている、

脳がシャキッとしたら、この甘いエネルギーは総て消費されて、

私は太らない!なんてね。

だって、このジャンクフードは体に最悪!とかこれ太るんだよな、

なんて喰っていたら、本当に良くないし、

どんどん太るんじゃないかと思うのだ。

まずは、ありがたいありがたい、そんで良いのだと思うのだが、

この話って、どこか詐欺っぽい?

官邸ホームページ

さすが、官邸のホームページ制作にかかった金額が、

なんと4550万円くらいらしい。どうやったらこんだけかかるのか?

同業者ののぞき趣味でこのサイトをチェックするも、

理解に苦しむ金額。

で、想像するに、ふたつの会社が思い浮かぶ。

日本の蒼々たる会社2社。

あそこなら、やるかもな?

目立っているのは、サイト内の検索システムだか、これも、

各省庁の情報を引っ張れば、さほどのシステムでもないように思う。

サイト設計は並。デザインも並。コピーライティングは、ほどぼど?

一見凄いサイトに見えても、その構造を書き出せば、

総て理解できます。

弊社もこんな案件がほしいところです。

死生観

死んだら何処へ行くのか?という問題は永遠の謎だが、

仏教なら輪廻転生。人は生まれ変われる、となる。

神道なら、黄泉の国へ行って暮らす、となる。

キリスト教なら、天国へ召されるのか?

が、もし人は死んで「無」になるとしたら?

もう永遠に、この先何億年経っても、跡形もなく、

あなたは絶対にいない。

意識も存在も、総てが否定される。

こうした考え方というか、実はこれが事実なのかもと、

たまにアタマをかすめる。

こうなると、もはや死の恐ろしさは、とてつもない程になる。

イマジネーションの豊かな人は、まず発狂するかも。

という観点より考えると、

やはり、私たちには信仰は必要なのかもと思うのだが…

ちょっと前の封切りの話

「ヒューゴの不思議な発明」を観たのだが、

この映画は、とにかく文章にしづらい内容だ。

ヒューゴは賢くて貧しい少年の名前。

舞台は、第一次世界大戦後のフランス・パリの駅舎。

人を形をしたカラクリの機械が、キーワードとなり、

一度は消えたロマンが蘇り、そこで働く人間模様の移り様も

変わって行く。

監督のマーチン・スコセッシのデビュー作は、

名作「タクシードライバー」。

あのジョディ・フォスターのデビュー作でもある。

私は、ん十年前にこの封切りを観たので、

とても印象的。

が、年をとると、みなファンタジーを撮りたくなるのかな?

ジェームズ・キャメロンも、アバターを撮ったし?

で、「ヒューゴ…」は、映像も秀逸で、パリの街を俯瞰で見下ろし、

カメラは鳥のように空より舞い降りて、街を飛ぶように巡り、

駅舎のなかをクローズアップする映像。

映画を愛しているスコセッシ監督の意気込みが伝わる一作だ。

僕が小さかった頃、世界はワンダーランドだった

朝方、夕べからずっと僕をにらんでいた女の人は、
実は天井のシミで、それは雨戸のすき間からすっと陽射しが入って
分かったことなんだけれど。あの頃の僕にとって、明るいことは、
とてもうれしいことだった。だけど、おばけは確かにいたんだよ。

岸壁で海を眺めていたら、ゴミと一緒に犬の死骸が浮いていて、
僕はとっさに目をそむけて逃げようとした。
だけど、犬の亡霊が、もう僕に取り憑いたと言うんだ。
そのことを泣いて姉に話したら、拝めば許してくれるよと…。
僕はその死骸にずっと手を合わせていて、少しづつ楽になった。
きっと仏さまが僕を守ってくれたんだと思ったら、
もう怖いものはないと思ったよ。

駄菓子ばかり食べていたけれど、或る日、
母が不二家のパラソルチョコというのを買ってくれた。
それは驚くほどチョコがいっぱいで、
最後に残ったプラスチックの棒まで透きとおっていて、
僕はその棒を貯めようと思った。
だから虫歯だらけの僕だったけれど、
あれからずっとチョコが好きだ。

親戚のおばさんが洋裁をやっていて、
僕と母はしょっちゅうその家へ遊びに行っていた。
ミシンの動きばかりを見ていた。
ボビンというのはミシンに入っている部品だが、
アタマにこびりついてしまった。
叔母さんはいつも僕に服をつくってくれた。
その頃、服というのは寸法を測ってつくるものだとばかり思っていた。

ソーダラップは、水で粉を溶くとシュッワッっとなる。
まるでクリームソーダのようにね。
そのおいしい飲み物に、
父がどこからか買ってきたストローを差して飲むと、
生まれて初めて味わう、不思議なものになった。
僕はいまでもそのストローのピンクと白の模様を覚えている。

図鑑に載っている虫は、どんな虫でも、必ず裏山に入るといたんだ。
それがオニヤンマだろうと玉虫だろうとね。
カエルの卵も田んぼにいっぱい。赤ガエルだっていたけれど、
モリアオガエルにだけには会えなかった。
だけど水すましもドジョウもいて、
ノビロという草を持って帰ると、母はそれを煮て夕飯に出してくれた。

夏まつりがお宮さんではじまると、
僕たちはお小遣いをポケットに詰め込んで、
色とりどりの甘いものを食べ、
近所で働いているお兄さんにおもちゃの鉄砲を買ってもらった。
そのあいだ中、僕たちは夜の9時まで外にいて良いことになっていた。
だから7月7日の七夕とこのお祭りのときだけは、
学校で居眠りをしていても、先生は怒らなかった。

ガガーリン少佐が人類で初めて月に降りるというので、
僕は興奮して、そのことを父と母にずっと話していたけれど、
だんだん疲れて眠くなって、気がついたらすっかり朝になっていた。
それは凄いことだと両親もいうので、
僕は学校のみんなのところへ走っていった。
その日の朝礼で、
校長先生もガガーリンのことを興奮してしゃべっていた。

あの頃は大きな地震も不景気もなく、
東京オリンピックが日本で盛大に開催されて、
僕たちにはまだサッカーという遊びもなくて、毎日野球をやっていた。
のんきにね。
そしてこんな毎日がいつまでも続くもんだと、僕は思っていたんだ…

タイムスリップ

夕方の渋滞はどこも殺気立っていて、

嫌な気が、この街には充満している。

車内にはFMラジオが流れているが、

いまひとつ優雅さに欠けるパーソナリティーが、

消費税のニュースに関して、

どうでも良いようなコメントを話している。

僕はコンソールに手を延ばし、

一枚のMDに触れる。

音はなんでも良かった。

MDをプレーヤーに入れると、

僕の憂鬱はすっと消え、

その古くてぼやけたメロディーは、

街の色を変えた。

そんな気がしたのだった。

交差点を越えるとクルマは流れ始め、

郊外へと続く道は、

その日の、僕の好きなルートへと変わっていた。

ウインドゥを少し開け、新鮮な冷気に触れる。

冬の気配がまだ残る冷たさだ。

車列が減り、前のテールランプが、

しなやかに動くように見える。

軽い登り坂。

アクセルを踏み込む。

そして、くねったような峠にさしかかると、

低速では乱れていたV5気筒のエンジン音も整い、

ストレスなく加速してゆく。

そのぼやけたメロディーは、

数本のエレキギターとドラムの音で構成され、

とてもわかりやすいリズムを刻んでいる。

歌詞は、おとぎ話のようなものばかり。

やはり、愛だとか恋だとかなのだが、

この音に、僕の想い出が眠っていた。

下りのワインディングをノーブレーキで走り抜け、

タイヤのきしみも幾分感じ取りながら、

いまはもう決してしないような走りを、

久しぶりに試してみる。

この曲が流行っていた頃。

あの頃は、まだ免許もなくクルマもなく、

僕はまだ未成年で、期末とか受験とかに忙しく、

それなりに勉強もしていた。

深夜のラジオからその音が流れると、

僕は、しばしシャープペンを止めた。

あの子は、今頃この音を聴いている。

石油ストーブで暖まり過ぎた部屋には、

サイケデリックなポスターが貼られ、

その頃流行った花柄のシールが、

ガラス窓にぺたぺたと張り付いていた。

窓を開け放つと、

夜空がきらめいていた。

星も月も、あの頃の冬の空は美しく、

家々のトタン屋根を、いつも静かに照らしていた。

街の、あの辺り。

あの子の家が、木々の黒いシルエットの向こうに、

かすかに見えるような気がした。

ラジオからは、やはりあの歌が流れていた。

…銀河に浮かべた白い小舟…

…僕がマリーに恋をする…

照れくさいことを平然と歌っていて、

僕はホントはストーンズが好きだったと、

記憶しているのだが…

なのに、

想い出に刻まれたその音とまるで絵空事のような歌詞は、

いまでも僕を魅了する。

とても単純なドラムの刻みと、

つたないエレキギターのテクニック。

そういえば、ボーカルがいつも、

四角い大きなマイクを握りしめていたっけ。

ポンピングブレーキを繰り返して減速し、

まだ門が開いている公園の駐車場へクルマを滑り込ませる。

がらんとした白線の真ん中にクルマを止め、

MDのボリュームをいつになく大きくすると、

暗い夜の公園に、その音が鳴り響く。

音は、そのボリュームのせいで、

ぼやけはさらにひどく、音は割れて、

もし、この広い駐車場に誰かがいたら、

とても迷惑だろうなどと考えてしまう。

キーをつけたまま僕は外に出て、

夜空を見上げる。

5気筒のばらけたアイドリングの音が、

僕は好きだと、そのとき初めて思った。

遠くの山の稜線のすぐ上に、

低い下限の月がぶら下がっている。

その上と下に、寄り添うように、

一等星がきらめく。

あのときも、夜空はいつも瞬いていた。

あの部屋で、僕はなにかを掴んだような気がした。

あのラジオから流れていた音楽を、

あの日の僕が聴いていた。

僕は、あの夜、

あの静かな夜の公園で、

どうやら時を超えることに成功したようだ。

春のうつろい

春一番が吹いた頃、

僕はいろいろ背負ってきた嫌なものを下ろそうかと考え、

あいつにはっきり意思表示のメールを出し、

断絶を宣言する。

あの仕事も、もう限界だと考え、

「御社は…」という書き出しでメールの準備をする。

部屋の、

いまはもう使わない書類をわんさか整理し、

後は廃棄処分場へ持って行くだけとする。

こんな奴もいたなと、

将来決して使わないであろうメルアドを消去する。

すべてが廻りはじめ、

それはなにかが一巡して新たに始まるかのような春だった。

梅の花が咲いているので、まだ寒いけれど、

嬉しくて、着ているものを一枚減らす。

くすんだ部屋の壁紙を、

薄く光るベージュに貼り替えようかと、奥さんに話す。

グーグル画像で、ある絵が目にとまり、

その作者に絵を譲ってもらおうかなどと、また余計なことを考える。

今年こそと、

早めに、カヌーを浮かべる湖とその準備を、

着々と計画する。

そして、いつものように空を眺めていると

思いはさらに加速し、

あと数年なのか数十年なのか知らないが、

私は確実に死ぬのだということを改めて認識し、

それなら好きに勝手に生きようと、

さらに自由度の高い生き方にシフトしようと企む。

山が芽吹く頃、

街が一望に見渡せる丘にクルマを止め、

iPadを取り出して、マレーシアの地図をみていると、

銀色のスーツケースが欲しくなった。

ネットショップで銀色のスーツケースを眺めていると、

やはり私はひとりなのかなと思い、いやそうではないと、

家族に電話し、あいつにメールを出し、

元気ですかと…

結局、どうやって生きてゆけばいいんだろうという思いは

空回りをはじめ、

それは哲学の書にあると確信して、図書館を検索し、

街の本屋へ足を運ぶ。

銀色のスーツケースのことはすでに忘れ、

帰りに古びた喫茶店でコーヒーを飲んでいると、

ガラス窓の向こうに見える夜のネオンが、

とても毒々しくて美しいことに気がついた。

ああ、すべては絵空ごとなんだと思うと、

なんだかコーヒーはいつにも増しておいしく、

人は浮き草なんだと思うと、

なんだか嬉しくなり、

読みかけの哲学書を閉じ、

代わりに、

私は、

地球最後の日を、考えるに至った。

後悔と知恵と

私たちには、後悔するという習性があるらしい。

時間を遡る、ということ。

が、ものごとがやり直せる訳ではない。

後悔はそして、心に暗い影を落とす。

なので、

或る人はいつからか後悔しないと言い張るようになった。

後悔という心の動き。

すなわち、立ち止まり、立ち尽くすこと。

が、立ち止まることは、即ち思考のときであり、

自らの日々の点検にも適しているともいえる。

そして、立ち尽くすことは時間と思考の海原をさまようことであり、

ここから、創意する術が旅立つことに気づくべきだ。

さまようことは後に生きる糧となり、

自らを知ることと心得えたとき、

辛く、奈落のような時間も、

それをかみしめてこそ、救いとなるのかも知れない。

このように、閉ざされた時間には意味があり、

役割がある。

私たちはこうしたものを避けず、尽力すべきであり、

この思考なくして、

生きる意味を見いだすことはできない。

疾風のように過ぎる、たかだか百年幾ばくかの人生に、

息づかいを吹き込む術があるとするならまた、

時間の中に立ち止まることも悪くない。

そこに何があろうと、

過ぎてゆくものと来るべき時の中に身を委ね、

自身、消えそうな程小さい宇宙の生命なのかもしれないことを認識し、

それを感じ、味わい尽くすことで、

私たちは苦痛の中からでさえ、

生きていることの意味についての序章を、

新たにつくることができる。

こうして人は、立ち止まり、立ち尽くすことでのみ、

生きてゆく真意について考え、

やがてそれについての制作物のひとつとして、

自分というもの、そして人生についてのなにがしかを、

ぽつりぽつりと

語り始めるのかも知れないのだから。

テレビという装置

疲れたアタマを休めるためにはどうしたらいいかということで、

私はテレビをつけることを推奨する。

テレビは、天気や映画やドラマ、ドキュメンタリーなど、情報の他、

楽しみはいろいろある。

が、とみに疲労しているときは、ワイドショーやバラエティを観る。

なんだか大変そうな話題や面白そうな話が満載なので、こちらもつい

その話にのる。

ほうほう、そういうことなんだ。そうそう、そうゆうネタね?

と、こちらも引き込まれる。

そんなことで、1時間でも観ていれば、疲れは軽減され、

あーあとなって、リラックス状態に入り、脳は居眠りを始める。

いや、ヒートしたアタマが冷却され、低回転へとシフト、

程よいアイドリング状態となってくれることだろう。

その効用は大きい。

かように、テレビとはありがたいものだと合点がゆく。

テレビには、人知れぬ効用と癒やしが、密かに仕込まれているのだ。

世間で言われるテレビへの非難など、あまり意味はないのではないか?

小難しいことなど、テレビには必要ないのだ。

番組は、楽しくテキトーに考えて頂きたい。

テキトーが、いまテレビには求められている。

テキトーな番組づくりには、倫理も中立も真実もいらない。

そんなことは目に見えていた。

だから、今日のようなテレビとなったのだ。

これは、みんなの総意であり、要望の結果なのだ。

大事なのは、疲れた現代人を如何に癒やしてあげられるか。

この一点に注視し、いい加減な番組づくりを心がける。

テレビは、思考停止装置として、いま

その役目を全うしている。